前回までに投稿した「三島由紀夫 豊饒の海」で語られているように、デカルトに始まり、カント、ヘーゲルに至った西洋の理性(絶対精神)の哲学は、ニーチェ以降の実存主義(意志の哲学)で完全否定され(「神は死んだ」)、意志の哲学も構造主義以降のソシュール、フーコー、デリダ、リオタールなどのポストモダン思想(現代哲学)で完全否定され、現在はD・チャーマーズら「心の分析哲学者」の「自然主義的二元論(属性二元論)」の段階に至って初めて、西洋は仏教の空思想を受け入れています。

 

もっとも、ニーチェ自身も、晩年の著作の中で「永劫回帰」を語り、「輪廻転生」の可能性をほのめかし、また、同じく実存主義哲学者のハイデガーも「日本にはこんなに素晴らしい仏教というものがあるのに、なぜ世界に発信しないのか」と晩年語っています。

 

ところで、キリスト教などの一神教では、神の存在を前提にしたその教えが絶対的、客観的、普遍的であるとするのに対し、仏教などの多神教は、相対的(中観説)、主観的(唯識説)、非普遍的で、釈迦自身も「神などいない。そんなもの祈っている暇があったら、物事の因果を究明せよ(縁起説)」と言っています。

 

前者を「信仰型宗教」、後者を「悟り型宗教」といい、同じ宗教でも一神教と多神教では全く性質が異なることが分かります。

 

この中にあっては、政治的左右の対立は、「資本主義(自由主義)」を”右”とすると、「社会主義(共産主義)」は”左”となり、一見対立しているように見えますが、それは国際金融勢力とその背後にいるイエズス会のカモフラージュに過ぎず、少なくとも、ともに天皇制を中心とする日本の「國體思想」にとって敵対する欧米の一神教的グローバリズムに過ぎません。

 

そして、この洋の東西の「一神教」か「多神教」かの文明の衝突が世界史の実相であり、昔は「唯一絶対の神」の名で、そして現代では「カネ(資本主義)」と「自由と民主主義」の名の下に、世界を一元的に管理しようとする「グローバリズム」と、それぞれの地域、国家の独自性(多元的価値)を尊重しつつ協調を模索する「ナショナリズム」の対立となって世界を揺さぶっています。

 

このグローバリズムを推進する勢力がイエズス会国際金融勢力(ネオコン)ですが、これに対抗し、戦っているのがナショナリストのプーチン、トランプ、そして日本の安倍晋三総理です。

 

なお、イスラム教は、イエズス会の世界進出を阻止するために世界國體(世界王族連合)が作りました。