ここで、「サンカ」について述べると、サンカとは、日本の山間地や里周辺部、あるは近年では都市部でも見られるとされる不特定の人々を指すが、対応する漢字には「山窩」「山家」「三家」「散家」、さらに住む家屋を持たずを屋根とする屋外に住むという意味で「傘下」「燦下」)などがある。

 

また、その呼び名は「ポン」「カメツリ」「ミナオシ(箕直)」「ミツクリ(箕作)」「テンバ(転場)」など地方によって違い、特定の芸能を指す言葉と併用されて「ホイト(陪堂)」「カンジン(勧進)」などと呼ばれることも多い。

サンカは、三角寛が発表した一連の作品群によって一般に広く知られるようになったが、その実像については、非農業非定住者の「エタ(穢多)」と同義に捉える見解など諸説あり、山間非定住者の消滅とともに明確にされることもなく今日に至っている。

 

が、サンカの本流は「タカス族」で、「アヤタチ族」がこれに続くとみるが、モノノベがタカスと血統を統合することで生まれたのが「丹後アマベ」ないし「上田アヤタチ」ではないかとも考えられる。

 

そこで、一応、京都皇統からの伝聞に従い整理してみると以下のように分類できる。

 

❶上田サンカ…丹波亀岡の上田氏で渡来イスラエル支族から選ばれたアヤタチと自称する。

❷朝鮮サンカ…古墳時代に朝鮮半島から渡来したツングースを主力とする種族

❸小目名(青森県むつ市大畑町こめな)サンカ…林業に携わる「杣人(そまびと)」で東南アジア山岳民。宮崎県では「山子(やまご)」、紀伊半島熊野では「八咫烏」「烏天狗」と呼んだ。

❹地サンカ…稲作地帯で農業補助作業を行う「箕作(みつくり)」

❺山渡りサンカ…ステップ・ロードやシルク・ロードを経由して朝鮮半島北部の羅津(らじん)から渡来したタカス族

❻海渡りサンカ…南島を経由して薩摩に渡来したタカス族

❼タカス…古代エジプトのミイラ職人の末裔で外科医、桶屋、臓器製薬業者。

 

タカスは古墳時代には巨大古墳の基本設計をし、その築造に当たったのが「土師(はじ)氏集団」で、現場の作業員が朝鮮半島東岸からきたいわゆる“新羅人”と呼ばれるツングース系朝鮮サンカ。

 

なお、当時の朝鮮半島東岸の慶尚道は未開発で新羅という国は存在しておらず、スキタイ人傭兵のキャンプが散在する過疎地帯であった。その理由は、近年新羅王領から、スキタイ人が雇い主から報酬に貰ったと思われる夥しいケルト式の金製品が出土しているからである。

 

(次回に続く…)