京都皇統"裏天皇"とは

1)"裏天皇"堀川辰吉郎の出自

明治維新の背景にある思想は、楠木正成が後醍醐天皇を助けて鎌倉幕府を倒した「建武中興」を模範とした「楠公精神」でした。したがって、その核心は南朝皇統を正統とするもので、単なる王政復古だけでなく、「南朝皇統の復活と北朝皇統との交替」を実現する点にありました。

 



この結果、明治元年、新政府は江戸城を新たな皇居として南朝系興良(おきなが)親王の後裔の長州・大室寅助を「明治政体天皇」として迎え、一方で先帝・孝明天皇、睦仁親王ら北朝皇統は秘かに京都に残って「明治國體天皇」となり、東京皇統と政体政府が直接関わることが難しい特殊な国事に当たる、東京皇統と京都皇統の「皇統二元体制」が敷かれました。

京都皇統は、京都堀川通六条にある日蓮宗本圀寺に「堀川御所」を設け、拠点としました。本圀寺は足利尊氏の叔父・日静上人が鎌倉本勝寺をこの地に移して皇室鎮護の霊場としたもので、元は本国寺と称しましたが、水戸光圀により本圀寺と改められました。

 

昭和四十六年に山科区に移転するまで堀川通にあった旧山内は実に広大で、その一部を割譲されたのが現在の西本願寺ですが、昭和三年の即位の御大典を機に國體と政体が合体されたことで堀川御所は役割を終え、廃止されました。

 

皇統二元体制の下、睦仁親王を明治の裏天皇とし、また睦仁親王と村上源氏久我支流の羽林家千種家の女官との間に生まれた子を、拠点の呼称「堀川御所」に因んで「堀川辰吉郎(1889年ー1972年)」と呼び、大正、昭和初期の裏天皇としました。

 

なお、慶応4年には実際に、同じ場所で明治表天皇(大室寅助)と明治裏天皇(睦仁親王)の二つの大嘗祭が行なわれています。

 

 



そこで、ここでは明治後半から昭和にかけて活躍した裏天皇・堀川辰吉郎の生涯と事蹟のついて触れます。

 

まず、辰吉郎は幼少時に、福岡にある維新後、元黒田藩士が結成した政治工作結社「玄洋社」に預けられます。玄洋社の社長は「頭山満」でしたが、隠れた社主は黒田藩主だった黒田長溥の実子「杉山茂丸」であり、辰吉郎は杉山を後見人として育てられます。

 

 

辰吉郎は十歳のころ上京し学習院中等科に入りますが、問題行動を繰り返して放校処分を受けたため、十三歳の時、日本に亡命していた孫文に托され、支那に渡り革命行動を共にします。


その後、奉天の「世界紅卍字会」の会長に就任し、日本軍と支那政府との折衝に当たるなど日支講和に尽力。1912年に帰国し活動写真の配給会社を経営した後、1935年に「大日本国粋会」第3代総裁に就任しますが、反軍閥運動のため東條内閣と対立して再び支那に渡ります。

 



2)各国王族と関わった辰吉郎

さて、日露戦争の結果、日本の国力を思い知った「愛新覚羅」は、満州族の将来を日本に託すため接近を図ろうと袁世凱を折衝に当たらせますが、東京皇統も桂太郎内閣もこれに応じず、対応したのは堀川辰吉郎でした。

京都皇統は、「大亜細亜主義」の理想に従い、清朝滅亡後の満州の宗主権保全を図る愛新覚羅と、満州族支配を倒して漢族独立を図る孫文の双方を支援しますが、両者の目的は同じく「満漢分離」の実現でした。このため、孫文も満州への日本の介入を認め、その発展を日本に委ねます。 

 


 
京都皇統は、ロシアの脅威への国防上の実際的必要性と、古代からの歴史的経緯を背景にした「大亜細亜主義」の一環としての「満鮮経略」を推進するため、愛新覚羅との間で密約を交わし、辰吉郎は明治四十三年(1910年)年、紫禁城に入り内廷に住みます。

その間、満州に度々足を運び、軍閥の張作霖や、その子・学良と義兄弟の契り結び、一方で、国民党のナンバー2張群の長子に愛娘を嫁がせ、孫文の死去後も国民党との良好な関係を維持します。

 



かくして、辰吉郎は大陸に深く関わりますが、国體の棄損を懸念する東京皇統に代わり、欧州各王室との婚姻政策にも対応、各国の王室に子供を残し、世界各国に48人の妻と88人の子を持つと自称していました。

3)「昭和天一坊事件」


ところで、辰吉郎が関わったとされる事件に「昭和天一坊事件」があります。1932年当時、高利貸しだった乾新兵衛は東京渡辺銀行に3000万円を貸していましたが、同行は世界恐慌で倒産。そこで乾は、渡辺銀行と同系統の渡辺倉庫から3000万円を取り立てようとしますが、渡辺倉庫は返済を拒否。

このとき、相談を受けた辰吉郎が、乾の腹心の阿部中将を渡辺倉庫に送り込み、株主総会を経ずに乾への負債を返済。この行為が問題となり、乾は渡辺倉庫から告発され懲役7年の実刑判決を言い渡されます。

娘に泣きつかれた辰吉郎は、時の司法大臣の鈴木喜三郎に口を利き、乾を控訴審で執行猶予にするよう裁判所に圧力をかけ無罪にしたため、これに感謝した乾は300万円の謝礼を提供します。

この裏には、当時、辰吉郎と親しい陸軍大将・田中義一が政友会の総裁になることを望み、辰吉郎に運動資金300万円の調達を依頼。そこで乾に300万円を融通させた結果、田中は政友会総裁になります。

 



それから2年後、田中はさらに首相就任を望み、再び辰吉郎は乾に200万円を融通させます。が、これが原因で、辰吉郎は乾の息子から誤解され、46万円を詐取した容疑で東京地裁で起訴されます(「昭和天一坊事件」)。

ところが、❶辰吉郎が乾を伴って内相官邸を訪れたこと、❷「閣下の御力によって取計らって戴きたい」というと、鈴木内相が「法を曲げて何をすると云うことは出来ないが、公明な裁判をさせよう」と約束したことが事実であったため、辰吉郎は無罪とされます。

4)"黄金の百合"奪還工作

 



もう一つ、辰吉郎の実力を示す一件が「"黄金の百合"奪還工作」です。1946年に、戦時中、日本軍がフィリピンから持ち帰った"黄金の百合(天皇の金塊)”の一部(推定40兆円相当)が東京湾から引き揚げられ、米軍に接収されます。これに対し、政治団体「新日本党」総裁の水谷明が奪還を計画。

 

水谷は、奪還に成功した暁には、金銀塊すべてを東久邇宮稔彦に献上するつもりだったが、1960年には事業資金が枯渇して事業から撤退。1962年には水谷は事業資金確保のためか、「ありもしない金銀塊事件を捏造し、30人近くから大金を騙し取った詐欺師」として逮捕され実刑判決を受けます。

 

辰吉郎は水谷と面会し、「水谷先生、ゴールドは目の前に現れると悶着を起こすものですが、本当にあなた裸になりますか。全部殿下に献上するということ間違いないですか」と質すと、水谷は「天地神明に誓って間違いございません」と答えたため、辰吉郎は「少し献上するのが遅かった。まあいいでしょう。私が米国へ行って取って来ましょう」と。

 

これによって返還された"黄金の百合"は、戦後の経済復興や日本列島改造に使われたと言われていますが、詳細は「大東亜戦争の目的」のところで述べます。

 

このように、堀川辰吉郎は政体政府にも強い関わりを持つフィクサーとして、明治、大正、昭和の各時代において、日本国體の護持に活躍しました。

 

なお、ジャーナリスト(オカルト系陰謀論者?)の中丸薫氏は、「自分は堀川辰吉郎の娘」などと自称していますが、辰吉郎が大阪在住の頃、近所に住み、辰吉郎の秘書役と懇意にしていた京都皇統関係者によると、真相は以下の通りです。

 

すなわち、中丸氏は、玄洋社杉山茂丸の意を受け、明治十三(1910)年の辰吉郎の紫禁城入居を実現した中島比多吉の娘にして、辰吉郎に使えた”女将軍”中島成子と、馬賊の長で支那人・韓景堂の実子であって、辰吉郎が実子扱いにして育てたのは事実ですが、辰吉郎との血縁はないと証言しています。

 

 

 

堀川辰吉郎亡き後は、昭和天皇の弟宮の高松宮が裏天皇として活躍されましたがこの間、堀川辰吉郎の薨去後、皇室資産”黄金の百合”の管理権が自分にあると勘違いした大徳寺住職・立花大亀が、古代ユダヤ人と日本皇統の所縁を根拠にしたロックフェラーら国際金融資本の要求に応え、これへの供与を試みました。

 

が、高松宮がこれに反対、激怒したため、立花大亀は三笠宮を立て対抗、皇室内に深刻な対立が続き、また奇しくも”3・11”が起きたのもこの時期でした。

 

しかし、平成に入ってから両宮の和解が成立、対立が解消したことから、安堵された今上(平成)天皇の譲位決断となりました。