キリスト教と自由

 

では自由の存在に関して宗教、特にキリスト教ではどう考えてきたか?原始キリスト教では、人間は神との契約を破って「善悪を知る木ノ実を食べた罪人」として、神に近づく自由を奪われ、その間、罪を償うため(贖罪)に生き、これを果たしたものだけが恩寵によって天国へ行けるとして、人間から自由意志を奪っています。

 

一方、キリスト教神学者アウグスティヌスは、「人間は自由だから悪を行う」としながら、「アダムとイブの原罪によって神のそばに近づく自由は奪われた」とし、自分の外側ではなく内面に“神の似姿としての理性 ”が宿っているのだから、これと向き合ってこそ原罪を乗り越えられる(自由を得られる)。

 

しかし、それはもっぱら “神と聖霊の恩寵 ”によってもたらされ、人間の自由な意志によるものではないとしてこれを否定(恩寵先行論)、また、後年の宗教改革の先導者であるルターも明確に自由を否定しています。

 

他方、神学者アクィナスは、存在論に基づく「神中心主義」と、理性(自由な意志?)と信仰(信仰の自由?)に支えられた「人間中心主義」の統合を図ったことから、後の西洋哲学における「自我論」や「自意識論」への手掛りを与えたと考えられます。アクィナスは後の政治思想にも影響を与え、

 

神の摂理が「永久法」として世界を支配し、人間は「自然法」としてこれを分有するが、現実社会の秩序維持「神定法」という観念を導いて、「永久法」→「自然法」→「人定法」の階層構造を築き、近代国家の「天賦人権説」や「立憲君主制」などに根拠を与えます。

 

一方、現代のキリスト教は、「神は信じる“意志”を持つ者を知っており、その者が信じた時に救われる」、「キリストはすべての人のために十字架の上で死んだが、信じる“意志”を持つ者がその救いを自分のものとできる」とし、自由な意志による信仰に神の恩恵を付け加え、“限定的な自由 ”を認めています。

 

ちなみに、仏教をはじめとした東洋の多神教では、「すべての生きとし生けるものは神であり、人間であり、そこに善悪、優劣はない」とするため、「神が善で人間は悪」という「善悪二元論」の思想と、そこから演繹される「悪である国家から人民を守る」という発想がなく、「自由(人権)論」は近代以前には存在しません。

 

ただ、大乗仏教の「唯識説」では、目に見える外界の現実を作り上げているのは人間の顕在意識ではなく、 “阿頼耶識(あらやしき) ”といわれる「潜在意識(深層意識)」だとして、欧米流の自由論をはるかに飛び越した深考がなされています。

 

(次回に続く…)