本格化する大陸進出の背景(8)本格的な日中戦争へ

 

ところで、満州国建国については、国際連盟から派遣されたリットン調査団によって、「日本軍の行動は自衛的行為とは言い難く、満州国は地元住民の自発的な意志による独立とは言い難い」と発表します。が、同時に「満州に日本が持つ条約に基づく権益、居住権は尊重されるべきで、

 

居留民の安全を目的とした治外法権はその成果により見直せばよく、日支両国は不可侵条約、通商条約を結ぶべき」としたため、これを受けた日両国は昭和7年(1933年)5月、「塘沽停戦協定」を締結。列車相互乗入れや郵便事業などを開始して、蒋介石政権は事実上満州国を承認します。

 

この結果、日間の満州問題を決着させた蒋介石は「共産党殲滅作戦」を本格化したため、支那共産党は「長征」と称して辺境の地・延安に後退、兵力も21万人から7万人にまで減少した上、支配地域も陝西省・甘粛省の2省に追い詰められます。

 

そして1936年10月、蒋介石は共産党との決着を付けるべくその根拠地に対する総攻撃を決意、張学良に攻撃を命じますがなかなか攻撃を始めません。このため蒋介石は、督戦するため12月4日に西安を訪れます。が、死亡した張作霖と不仲だった張学良は、父と違って日本に対して敵対的でした。

 

それどころか裏で共産党と繫がり蒋介石を逮捕・監禁してしまいます。そして、釈放の条件として中国共産党と共に抗日戦線を結成することを合意させます(西安事件)。このため蒋介石(国民党軍)は、日本と戦わざるをを得ない立場に置かされるのです。

 

この事件は、抗日戦線の形成に成功した共産党勢力が、さらに進んで蒋介石と日本とを全面的に武力衝突させ、"漁父の利"を得ようという陰謀だったのです。実際、ソ連およびコミンテルンも、「局地解決を避け、日中の全面的衝突に導かなければならぬ」という指令を発していました。

 

そして、昭和12年(1938年)7月7日、北京郊外の盧溝橋で夜間演習中の日本軍に支那側から不法射撃が浴びせられます(盧溝橋事件)。

 

当時、北京郊外には、日本軍のほかに米国、英国、フランス、イタリアの軍隊が駐屯していました。というのは、1901年の義和団事件で清国軍が在留外国人を襲撃した事件があったことから、「北京議定書」によって各国とも自国民保護のために自国軍を駐屯する権利を認められていたからです。

 

支那共産党は、当初「盧溝橋で最初に発砲したのは日本軍だ」と主張しましたが、戦後になって「7・7事変(盧溝橋事件)」は、劉少奇同志(後の支那国家主席)の指揮する抗日救国学生の一隊が、決死的行動を以て党中央の指令を実行したもの」と公式表明しています。

 

そのため、一時は国民党政府と華北にあった地方政府・冀察政務委員会が日本側と本格的に講和しようとしましたが、支那共産党は7月23日、「第二次宣言」を発して日本提出の講和三条件の拒否を発表、抗日戦争の徹底を国民党政府に改めて強く迫ります。

 

そしてその後、停戦協定が何度結ばれても支那側の発砲で破られ武力衝突が頻発。さらに「通州事件」では民間人である日本人男女223人が惨殺されたことから、戦線不拡大方針だった日本政府もついに増援軍の派遣を決断、支那共産党の思惑通り、日本と蒋介石(国民党政府)は全面戦争に突入します。

 

ちなみに7月27日におこったこの「通州事件」でも、支那共産党が盧溝橋事件で日本軍と衝突した国民党第29軍と冀東防共自治政府保安隊に張慶餘張硯田などの抗日分子を浸透させていたことから、中共の謀略である可能性が高いと言われています。