3、京都皇統"裏天皇"とは
1)"裏天皇"堀川辰吉郎の出自
明治維新の背景にある思想は、楠木正成が後醍醐天皇を助けて鎌倉幕府を倒した「建武中興」を模範とした「楠公精神」でした。したがって、その核心は単なる倒幕と王政復古だけでなく、「南朝皇統の復活と北朝皇統との交替」を実現する点にありました。
この結果、明治元年、江戸城を新たな皇居として南朝系明治天皇を迎え、一方で先帝・孝明天皇、睦仁親王ら北朝皇統は京都に残り、東京皇統と政府が直接関わることが難しい特殊な国事に当たることとされる「皇統二元体制」が敷かれました。
京都皇統は堀川通にある本圀寺を拠点に、睦仁親王を明治の"裏天皇”とし、また睦仁親王と村上源氏久我支流の羽林家千種家の女官との間に生まれた子を、拠点の呼称「堀川御所」に因んで「堀川辰吉郎(1889年ー1972年)」と呼びました。
なお、慶応4年には実際に、同じ場所で明治表天皇(大室寅助)と明治裏天皇(孝明天皇)の二つの大嘗祭が行なわれています。
そこで、ここでは明治から昭和にかけて活躍した裏天皇・堀川辰吉郎の生涯と事蹟のついて触れます。まず、辰吉郎は幼少時に、福岡にある維新後、元黒田藩士が結成した政治工作結社「玄洋社」に預けられます。玄洋社の社長は「頭山満」でしたが、
隠れた社主は黒田藩主だった黒田長溥の実子「杉山茂丸」であり、辰吉郎は杉山を後見人として育てられます。辰吉郎は10歳のころ上京し学習院中等科に入りますが、問題行動を繰り返して放校処分を受けたため、13歳の時、日本に亡命していた孫文に托され支那に渡り革命行動を共にします。
その後、奉天の「世界紅卍会」の会長に就任し、日本軍と支那政府との折衝に当たるなど日支講和に尽力。1912年に帰国し活動写真の配給会社を経営した後、1935に「大日本国粋会」第3代総裁に就任しますが、反軍閥運動のため東條内閣と対立して再び支那に渡ります。