3)「後南朝七家」とは

 

なお、大室寅之助と似た事例はこの他にもあり、熊沢天皇(水戸藩)、小野寺天皇(仙台藩)、三浦天皇(井伊藩)、井口天皇(紀州藩)、朝里天皇(紀州藩)などを、各地の雄藩が天下を取ったときに担ぎ上げる"隠し玉"として匿っていました("後南朝七家")。

 

このうち、愛知県の熊沢宏道は、熊沢家が後醍醐天皇六代目の信雅王の末裔であると明治帝に訴えたとき、明治帝は「南朝が正系である」と認め、「公平に扱うように」と下命されました。が、その後具体的は進展は見られず明治天皇の崩御とともに立ち消えになります。

 

また、同じく愛知県の三浦芳聖も、後醍醐帝第二子尊良親王の子・基良親王の直系だという家系図を当時の宮内大臣・田中光顕に申し立て、田中は「明治帝は後醍醐天皇第11番目の満良親王末裔で長州がご守護申し上げてきた」と証言しています。

 

これを受け、明治44年2月4日、第二次桂内閣は帝国議会において「皇統は南朝をもって正統と為す」との決議を行い、これにより20年にわたる「南北朝正閏論」が決着します。

 

実は、このような事例は過去にも存在し、継体天皇の他に藤原氏の百川と山部親王(桓武天皇)、平清盛と安徳天皇、足利尊氏と後光厳天皇など、時の覇者が天皇の即位、譲位を左右しています。

 

ちなみに、仙台藩に匿われていた小野寺天皇は、幕末の戊辰戦争の際、西軍側に対抗するため"東部皇帝"として「奥羽列藩同盟」に担がれました。その背景には東北地方で産出された豊かな金塊があります。東軍側はこれを元に、欧米列強から銃器を購入しますが、

 

西軍有利とみた欧米は、あえて射程の短い旧式の銃を売りつけ、しかも代金だけ受け取ってまともに納品することもなかったため、東軍側は無念にも敗退します。