2、明治維新によって東京皇統と京都皇統の「皇統二元体制」へ

 

1)明治維新の目的

 

明治維新の目的は、欧米列強からの開国圧力にさらされた幕末において、強固な国家体制(國體)を再構築することにありました。そのためには、諸藩が半独立状態だった徳川幕藩体制を終わらせ、廃藩置県などによって天皇を中心とした中央集権国家を作り上げることが不可欠でした。

 

ただ、問題はこれだけでは終わらず、皇室、皇統のありかたについても大幅な改革が必要でした。というのは、南北朝の動乱が終って「明徳の和約」がなされたものの、「両統迭立(たすきがけ擁立)」がなされず、以降一貫して「北朝(持明院統)」によって占められて来たからです。

 

とくに"表の天皇(政体天皇)”は、幕末の孝明天皇に至るまでほぼ北朝系(持明院統)によって占められ、南朝系(大覚寺統)は"裏の天皇(國體天皇)"とされてきました。このため、国学者や水戸学派、吉田松陰らも疑問を持ち、南朝皇統の表舞台への復帰が主張されます(南朝正統論)

 

もう一つの皇室、皇統のありかたに関する問題は、国際化に伴う欧州王室連合との王族間通婚への対応です。通婚により、皇統に外国王室の血脈が入ると、白山王朝以来三万年以上続く世界で最も古い皇統と國體が毀損する虞れがありました。

 

そこで、皇統の万世一系性(血脈又は霊脈としての)と國體(国家としての霊脈)を維持するため二つの皇統を正式に定め、政体(東京)皇統ではなく、國體(京都)皇統をもって王族間通婚に対応することを決めます。

 

具体的には、幕末の"裏天皇"伏見宮・邦家親王が、子の山階宮・晃親王、中川宮・朝彦親王、岩倉具視らと謀って孝明天皇の崩御を演出、その子・睦仁親王とともに堀川通りにある本圀寺内の堀川御所に隠棲し、以降はシャーマンとして國體の安寧を祈りながら外交、金融等を担当する”裏天皇”になり、

 

一方では長州・大室寅之祐が明治天皇として即位、政府と軍を統帥する"表天皇”となり、南北両統が迭立して「東京皇統」と「京都皇統」が併存する正式な「皇統二元体制」を敷くことを決めます。

 

そういう意味で、南朝皇統復活(政体化)の目的は、南北朝時代の一時期を除いて鎌倉時代以来幕末まで続いた大陸経由の"後期出戻り日本人"である北朝系(秦・藤原体制=騎馬民族)主導の体制を覆し、"先住居残り日本人"である南朝系(縄文海洋民族+物部氏)を復活させることだったともいえるのです。