改竄された日本書紀…第2回 

 

既に一部紹介した古代ユダヤ十支族の「秦氏」ですが、改めてその事跡と政治的な関わりについてその詳細を述べると、まず、最初に渡来した九州の「豊国秦氏」は、人材確保のため高句麗、新羅、百済から多くの技術者を呼び、その結果、秦氏は国家財政を掌握、養蚕・紡績の技術も活用して産業振興に貢献し、各地に大型の古墳を造営します。

 

⑪また、秦氏の一部は山城国へ移住したため、丹波は養蚕や服飾の中心地となります。また、6世紀の「秦河勝」は聖徳太子や蘇我氏と密接になり仏教を推進しました。さらに、山城国に平安京を誘致し、先住の賀茂氏や山城紀氏などと提携して、上賀茂神社や伏見稲荷社、松尾大社を建てます。

 

⑫ただし、秦氏の中央での政治的影響力は、海人系第二十四代武烈天皇の代に大きく後退、その後は、地方豪族として産業振興に専念し、古代の華僑としての手腕を発揮します。というのは、海人族・橘氏に支援された「彦太尊(ヒコフトニ)」が、第二十五代「継体天皇」となったためです。

 

⑬その後、継体崩御から4代後の欽明天皇の即位に至るまで、朝鮮半島政策を巡って全国的な内乱が続きます。その最大のものが645年の乙巳の変(大化の改新)」で、これを契機に百済色が大和朝廷に浸透、それが天智天皇まで続きます。