<稲作は日本から朝鮮半島に伝わった>

 

1、稲作伝播のルート

 

①これまで、「日本の稲作は支那大陸あるいは朝鮮半島から来た"倭人(弥生人?)"が伝えた」、さらに進んで「狩猟民族の縄文人vs農耕(騎馬?)民族の弥生人」などと語られてきました。が、これらが全くの誤りであることを「稲作の起源」を中心に明らかにします。

 

②稲作の伝来ルートについては、植物学者、農学者だけでなく考古学者の間でも、中国江南地域から直接伝来したというのが定説です。そして近年、中国の稲作研究界では、「水田稲作」は日本から朝鮮半島に伝播したという説が有力になっています。

 

③稲の遺伝子は7種類あり、現代までの日本で発見された2つをNO,1とNO,2として分類したのが「温帯ジャポニカ」と「熱帯ジャポニカ」という品種。支那大陸でもこの2つが見つかっていますが、半島ではNO,1は見つかっていません。これは中国江南地域より北では気温が低く育たないためです

 

④それどころか、炭素放射線14年代測定法での測定の結果、日本の稲作の方が半島より古いことが分かりました。日本の稲作開始は「焼畑稲作」で紀元前6700年程度前、「水田稲作」は3200年程度前であることが判明しています。一方、半島での「水田稲作」は紀元前1500年程度前のもので、

 

⑤九州北部と栽培法が酷似し、遺伝子学的に日本米に、満州から入った米の遺伝子が交雑していることから、「水田稲作」は日本から半島へ、「焼畑稲作」は満州から半島へ伝わったことが証明されています。では、この6700年前に始まった"縄文稲作"とはどのようなものだったのでしょうか?

 

⑥ここで、縄文時代を振り返ってみると紀元前6500〜4000年前の縄文時代・前中期にヒプシサーマル(気候的最適期)と呼ばれる時期がありました。当時の気温は現在より東日本で2度、西日本で1.5度ほど高く、その温度上昇は海水面を現在よ2~4m押し上げていたと言われています(縄文海進)。

 

⑦その結果、関東などでは海水が栃木県の内陸まで進み、三内丸山や八ヶ岳山麓集落が繁栄したのもこの時期でした。が、紀元前4000年前以降から冷涼化が始まり繁栄にも陰りが見えてきました。これが品種改良と、「焼畑稲作」である"縄文稲作"から効率的な「水田稲作」への転換のきっかけとなります。

 

⑧ところで、稲の他、ムギ、キビ、トウモロコシなどのイネ科植物は、吸い上げた水分の中の珪酸という物質を細胞に蓄積する性質があり、稲が枯れたときでもガラス質である珪酸はそのまま1万年でも土の中に残留します。これが「プラントオパール」ですが、

 

⑨このプラントオパールによって、遺跡などから出た植物の由来が分かり、遂に2005年2月、岡山県灘崎町にある彦崎貝塚の縄文時代前期(紀元前約6700年前)の地層から、土1gあたり2000~3000個という大量の稲のプラントオパールが見つかりました。

 

⑩今後、更なる発見によって"縄文稲作"の年代は更に遡る可能性があります。いずれにせよ、世界最古級とされてきた支那大陸の河姆渡遺跡から僅か300年で日本に伝播するのか、また「弥生人が日本に稲作を伝えた」と俗説は強調しますが、"縄文"時代に"弥生人"が渡来するのか大いに疑問です。