1、WGIP(戦犯意識浸透工作)の実行

 

終戦後、GHQの中の国際金融勢力派(のちのネオコン)はWGIP(戦犯意識浸透工作)を実施し、日本の強固な國體を破壊する為に、日本人に罪悪感を植え付け、戦前日本の文化・教育などをすべて否定させて、日本人から愛国心と自信を奪い取ることを行いました。

 

そのためGHQはまず、日本国内でやりとりされる郵便や電報、放送番組、映画などを徹底して検閲しますが、その結果、殆どの日本人は戦争の責任は米国側にあり、日本側や天皇には責任が無いと考えていることを知り焦ります。そこで、一万項目以上の命令を出して日本人弱体化計画を進めていきます。

 

例えば、日本が亜細亜から欧米を追い出すために戦ったことを隠すために「大東亜戦争」を「太平洋戦争」と言い換えさせ、米国に都合の良い「太平洋戦争史」を創作してNHKに番組を作らせ、「南京大虐殺」などを捏造して「日本は悪いことをした国である」と、国民に自虐的な思想を植え付けます。

 

が、GHQが最も恐れたのは日本の神道でした。米国は対日戦で欧州戦線の十倍の兵士を失いましたが、その要因は神道によって築かれた日本の強固な國體と日本人の強い絆によるものだと考えたからです。そのため、GHQは神道の弱体化を画策、国家神道を廃止させます。 
 
戦前の日本では人々は神社へ集まり、神主といろいろな相談をし、祭りの段取りや村の自治などについて話し合っていました。しかし、GHQは神社の代わりに公民館を作り、そこに集まって「これからは国の事なんか考えずに個人の権利と自由のことだけを考えろ」と指導します。

 

また、GHQは、欧米にとって都合の悪い書物もすべて廃棄しました。彼らは世界史の秘密に関わる重要な情報が、日本各地の神社に「古史古伝」として残されている事を知って、隠匿武器の摘発を名目に全国の神社に立ち入り、「竹内文書」等、約八千冊の古文書を押収していきます。

 


 
これは連合国指導層に潜んでいた「真の世界史」を知る者が日本国と欧米国家の起源と同じくするために「真の世界史」が日本から世界に発信される事態を畏れたからです。「真の世界史」とは「世界の文明が日本から始まっている」という事実だったのです

 

 

2、日本キリスト教化政策は皇室にまで

 

(1)政治(民主主義)と宗教(キリスト教)とビジネス(フリーメイソン)の三つを使い分け

 

ところで、GHQは初め、國體解体の決め手として「昭和天皇の戦犯指定」や「天皇制の廃止」を模索しました。しかし、同じく敗戦国であるドイツやイタリアでは最高指導者は生存を許されなかったのに対し、日本の天皇は、国民を励ますために無防備で全国を巡幸し、最初の巡幸地は原爆の投下された広島でした。

 

「天皇は広島の原爆被害者に殺されるんじゃないか」と危惧したGHQは、「お言葉」のための一段高く、木枠のついた特設の雛段を設けました。が、そんな事態は杞憂に過ぎず、逆に国民の方が日の丸の小旗を振って天皇を慰労している光景に愕然とします。

 

この結果、日本の天皇が西欧の君主とは異なり、日本国民と精神的にも一体の存在であることを悟ったGHQは、「昭和天皇の戦犯指定」や「天皇制の廃止」を強行すると全国で暴動が起き、また旧日本軍人が決起して内戦が勃発し収集がつかなくなることを恐れ、考えを改めます。

 

代わって考えたのが労働組合の育成、そして日教組の結成に関与して日本の左翼をコントロールし、組合活動や教育を通じて日本國體の解体を進めようという戦略です。というのも、GHQの中にも左右の対立があり、特に左派(のちのネオコン)は、スターリンとの権力闘争に敗れて米国に亡命してきたトロツキー派で、マルクス主義者との親和性があったからです。その結果、教師たちは労働者として振る舞い、学校から国旗掲揚や君が代斉唱が一掃されました。

 

また、労働組合の結成を新聞、出版、放送の分野でも進め報道内容も支配します。加えて、日本の大学、特に史学界、法学界の研究者には戦前とは180度異なる考え(マルクス主義)を強要したため、日本の教育界(文科省と教育委員会含む)やマスコミ、法曹界は今もって正常化(中立化)しません。

 

そして、GHQが日本を自分たちに従順な国にするために考えた決め手が「日本キリスト教(メイソン)国化政策」でした。実は、この政策はすでに明治維新以降、徐々に進められてきたことです。つまり、局面に応じて、宗教はキリスト教、政治は民主主義、ビジネスはフリーメイソンと使い分ける手法です。

 

明治維新以降戦前までは、主に宗教(キリスト教)とビジネス(フリーメイソン)を通じて浸透を図ってきました。しかし、戦後は新憲法の制定という政治改革(民主主義さらには社会主義、共産主義に発展)を通じて日本國體の解体を進めます。が、更に決定的なのは「日本皇室」のキリスト教化策でした。

 

ここで、日本の政財官学界、更に皇室にまで触手を伸ばしてきたクエーカー(キリスト友会)を中心に、その日本皇室への展開、浸透の仕方を時系列で追ってみます。

 

まず、クエーカー(キリスト友会)とは、十七世紀のイングランドで英国国教会などから迫害された信徒家族の厚生などのために作られたプロテスタント系団体で、強い信仰箇条を持たずに「内なる光」の探求を目指すため、普遍主義的で極めてリベラルな平和主義を志向するキリスト教左派宗派です。

 

クエーカーは、当時の植民地だった米国にも広がり、東部ペンシルベニア州フィラデルフィアに教徒が集中しています。日本への浸透が始まるのは明治以降で、同じくプロテスタント系の「ユニテリアン」との接点を持っていた福沢諭吉らが関わっていたことは既に「明治新政府を巡る暗闘」のところで述べました。そのクエーカーが本格的に暗躍し出すのは大戦前後からです。

 

 

(2)エリザベス・ヴァイニングによる洗脳工作

 

確かに終戦後、クエーカーだったGHQのボナー・フェラーズは、昭和天皇に有利な内容の「天皇に関する覚え書き」をマッカーサーに提出。天皇が戦犯になれば日本国内が混乱に陥るとして天皇の戦犯指定の回避に当たります。

 

また、ローマ法王庁代表のブルノー・ビッテルが学長を務める、日本でのイエズス会の最大のアジトである上智大学内・大島館で、大正八年~昭和八年まで皇室の慶弔を取り仕切っていた、無教会派クリスチャンである元宮内次官の関屋貞三郎を通じて東京裁判の首席検察官ジョセフ・キーナンに天皇訴追を断念させます。

 

しかし、一方でより穏健だが巧妙な天皇家一族のクリスチャン化による日本国のキリスト教化計画を推進します。具体的には、ミッション系の中学を卒業し天皇家もキリスト教を知るべきだ」という持論を持った元海軍大将で学習院長の山梨勝之進にも協力を仰ぎつつ、英語教師としてクエーカーのレジナルド・プライスを送り込み、

 

さらに、昭和天皇にキリスト教の講義を受けることを勧め、カトリックでのちの最高裁長官・田中耕太郎と、プロテスタントでシェイクスピア研究で有名な斉藤勇をして、昭和天皇に「罪、苦しみ、赦し、十字架、そして祈りと希望」というキリスト教の教義を刷り込みます。

 

しかし、山梨と関谷は、最も重要なのは"次代の天皇が、「キリスト教」とその政治思想である「民主主義」に心服、体得することだと考え、クエーカーエリザベス・ヴァイニング明仁皇太子の家庭教師として送り込み、英語教育を名目にした聖書学習で「平和主義思想」への思想改造を推進します。

 

また、皇室の信任を得たヴァイニングは、米国でクエーカー系の有名校で学んだ秩父宮妃・勢津子、さらには病気の上、昭和天皇と不仲だった秩父宮に代わって、幼い皇太子が成人するまで摂政になる話が出ていた二番目の弟・高松宮、昭和天皇の良子皇后の家庭教師にまでなったのです。

 

その結果、高松宮は昭和二十二年、神道界の公式機関紙・神社新報のインタビューで、「神道は教理や教学的な面が空虚だ。明治維新に廃仏毀釈で仏教と離れてしまったので、いよいよそういう骨になるものがなくなってしまった。神道に欠けているものをキリスト教とタイアップすることで学ぶべきではなかろうか」と発言し問題となります。

 

一方、三番目の弟である三笠宮は「日本旧約学会」の会員になり、ヘブライ語の研究を通じて旧約聖書を学び、キリスト教だけでなくユダヤ教との接点も持ち、これが後の皇室内対立の背景となります。ちなみに、吉田茂の孫娘でカトリックの”麻生”信子は三笠宮の第一子・寛仁(ヒゲの殿下)と婚姻、第三子・憲仁(高円宮)は聖心女子大出の鳥取久子と婚姻します。

 

 

(3)正田家に懸念を抱いた岸信介首相

 

そして昭和二十二年、カトリックだった吉田茂(洗礼名トマス・ヨゼフ)に次いで、同じくカトリック片山哲が首相に選ばれ、さらに翌年には宮内庁長官にクエーカーである田島道治が任命されます。そして昭和二十四年五月から八月にかけてザビエル渡来四百年を記念する大ミサが日本全国で行われる中"ある事件"が起こります。

 

ある事件"とは、昭和二十四年五月十七日、昭和天皇が大分県別府市のカトリック系小百合愛児園を行幸で訪問された際、園児に囲まれる中、園長のカルメラ女史に聖堂に誘導され、危うくキリスト像の前でロザリオを首にかけられ礼拝を強要されそうになったところを、宮内庁の鈴木菊男総務課長が阻止しました。

 

この翌月には東京でザビエル渡来400年の大ミサが行われますが、GHQはここで「日本の天皇がキリスト教に改宗した」と世界に宣伝し、日本のキリスト教化(神道の終焉)が完成したことを発表する計画だったようですが、ギリギリのところで鈴木総務課長の機転により阻止されたのです。

 

その後、日本をキリスト教化(民主化)するための十字軍と自負したマッカーサーは最高司令官を解任されます。この背景には、米国フラデルフィアを拠点とする"クエーカーコネクション"に浸透していた寺崎英成ら國體派による巻き返しがあると仄聞していますが、皇族に広まったキリスト教熱も徐々に冷めていきました。

 

しかし、幼少期から一旦刷り込まれた思想が簡単に消えることはありません。実際、昭和三十七年、皇太子の弟である義宮(常陸宮)が、毎日の就寝前に「父と子と聖霊よ~」と祈り、問題になりました。神道には、キリスト教の-愛と寛容」が必要という持論を述べている無教会派クリスチャンの村井長正が義宮の教育侍従でした。

 

そして、昭仁皇太子とイエズス会の拠点・聖心女子大出身の美智子妃との婚姻。この背後で暗躍したのが元宮内庁長官でクエーカーの田島道治、慶応大学学長でカトリックの小泉信三、元最高裁長官でカトリックの田中耕太郎、元首相でカトリック(洗礼名・トマス・ヨゼフ)の吉田茂らで皇室参与でした。

 

 

もちろん、この婚姻には根強い反対があり、昭和三十二年十一月二十七日の皇室会議では宇佐美宮内庁長官から事の経緯が説明された後、議長の岸信介首相から「ご質問がありませんか。ないようですので私から質問します。正田家はキリスト教と聞きますが皇室は神道です。この関係に何か問題はませんか」

 

宇佐美長官が立ち上がり「お答えします。正田家の祖父母が信者であるだけで、正田嬢は学校はカトリック系ですが洗礼を受けておりませんので宗教上の問題は一切ございません」と答えました。が、宇佐美は戦前、日米協会、日米委員会、太平洋問題研究会(IPR)などに関わったクエーカーでした。

 

ご成婚後の昭和三十八年、「宮中聖書事件」が起こります。常陸宮(今上天皇の弟)が昭和天皇ご夫妻と食事をされた時、「美智子さんが入ってきてくれたお陰でキリスト教の話ができるようになって非常に嬉しい」と話すと昭和天皇が激怒、美智子妃を呼びつけ「二度と皇室の中でキリスト教の話はしないように」と叱責。

 

一方、『ノンフィクション皇太子昭仁(牛島秀彦)』によると、ある学友(三笠宮?)の話では昭仁皇太子は「自分はあくまで新憲法を遵守する。息子や娘たちも同様に考えている。再軍備も憲法違反であり、自分が天皇になった際、情況で開戦の詔勅の署名を求められたら断固これを拒否する」と語ったそうです。

 

私はもちろん、皇室と日本のキリスト教国化などには絶対反対です。が、天皇家、とりわけ昭和天皇が一時期とはいえキリスト教に興味を抱かれたのは、日本社会や日本の神道が多神教であるが故に、違った考え方でも直ちに排除することなく耳を傾けてみるという寛容の精神の表れであったと考えます。

 

が、それも程度の問題。『ノンフィクション皇太子昭仁』の話が真実だとすれば、一日本国民として違和感を禁じ得ないのです。

 

3、「自主憲法制定」を主張して吉田茂と対立した岸信介首相

 

 

以上のようなGHQの占領方針は「日本国憲法」の制定にも強く反映される事となりました。確かに「日本国憲法原案は、GHQ"提案"と言う形はとったものの、敗戦のショックで抵抗する力も残っていなかった日本人にとって、戦勝国から薦められれば拒否できないという状況でした。

 

また、その内容は、「日本が二度と欧米に楯突かないように」という方針に基づいたものだったため、「世界の中で悪い国は日本だけだ」という「前文」と、「だから日本は武器を持ってはならない」という「九条」が盛り込まれたのです。

ちなみに、提示された「日本国憲法原案」は、通訳だった23歳の素人女性が9日間で作成したもので、そこには「家庭は人類社会の基礎であり、その伝統は良きにつけ悪しきにつけ国全体に浸透する」等とあり、日本の専門家達は「センチメンタルな少女が書いた原始共産制の作文だ」と嘲笑したのでした。

 

敗戦のショックで打ち拉がれた中、英米の息のかかった吉田茂や幣原喜重郎の下、抵抗する事もできず受け入れざるを得なかった「日本国憲法」。

 

このような憲法とセットになった形で、日本の防衛は米国が担うとした「日米安全保障条約」も締結されました。が、それは外敵に対してはもちろん、日本国内の治安維持についても、日本ではなくあくまで米軍にのみ争乱鎮圧権を認めるという不平等なものでした。

 

が、このままでは日本は独立国とは言えないと、一人の政治家が立ち上がります。それが岸信介首相でした。岸首相は昭和27年のサンフランシスコ講和条約発効に伴って巣鴨から釈放され、同年4月に「自主憲法制定」「自主軍備確立」「自主外交展開」を掲げ、日本再建連盟を設立します。

 

28年の選挙敗北により自由党に入党し次の衆議院選に当選しますが、29年に吉田首相の「軽武装、対米協調」路線に反発したため除名されます。が、鳩山一郎と共に日本民主党を結成し幹事長に就任。さらに三木武吉らと自由党と民主党の合併を果たし自由民主党の幹事長に就任します。

 

その後、昭和30年に安保条約改定を進め、これをきっかけに共産圏に対する防衛体制の強化を模索しますが、岸首相が最終的に目指したのは、「自主憲法制定」「自主軍備確立」「自主外交展開」を実現することで事実上の"対米独立"への道筋を立てることでした。

 

ところが、この新条約の承認を巡っては、社会党や共産党の抵抗により国会審議が激しく紛糾した上、また国会外でも「民主主義の破壊である」等として、一部市民の間にも反対運動が高まり、国会議事堂の周囲をデモ隊が連日取り囲み、闘争も激化の一途をたどりました。

 

が、岸首相はひるむ事なく、「国会周辺は騒がしいが銀座や後楽園球場はいつも通りである。私には"声なき声"が聞こえる」と語り、5月19日に衆議院委員会で新条約案を強行採決。その後、内外の混乱の責任を取って、参議院での自然成立を見届けた上で潔く内閣総辞職します。

 

実際、安保改定前の大手新聞社世論調査では、「安保改定賛成;21.6%、反対;36.0%、わからない;42.4%」となっており、岸首相は「わからない;42.4%」が、当時の空気にのまれてしまった"声なき声"であると判断したのでした。

 

また、安保改定を強行した後の世論調査でも、「安保改定はよい;15.3%、安保改定はやむをえない;33.9%」となっており、国民の半数は安保改定を支持していたことが明らかになっています。

 

ところで、昨年は「安保法」を巡って日本が揺れましたが、この成立によって日本は一つ、米国との対等な地位を取り戻しました。そして次は、戦後最大の政治課題「憲法改正」に焦点が集まり始めています。これが何を意味するのか、岸首相の精神を受け継ぐ安倍晋三首相が知らないわけはありません。