<自由、民主主義の欺瞞と新國體論(國體社会主義)>

 

 

1、国にも心がある

 

❶日本人は多元的価値観を持ち、対立しながらも倒した相手を根絶やしにすることなく歴史を刻んできました。このことは聖徳太子が定めた十七条憲法にある「和を以て尊しとなす」とする日本人の精神文化「大和心」が反映された結果です

 

❷ここにいう「和を以て尊しとなす」とは、単に「戦争がない」等という単純なものではなく、「違いを認めつつ一つに帰る(差異化と帰一化の共創原理)」という意味です。 

 

❸つまり、それぞれの個性を尊重し、それぞれが独自性を発揮して、ともに一つの目的に向かってゆく、多神教的世界の在り方を表しています。

 

❹この思想は、日本神道の背景となっている世界最古十万年前の「カタカムナ文献」に書かれた「分離と統合を繰り返しているのが宇宙の実相」という“カタカムナ宇宙観”に由来しています。

 

❺一方、人間個人に心と体があるように、国にも「心」と「体」があるととらえるのが自然です。とくに「国」を「国家」、つまり家族の延長としてみる日本の場合、「国」は単なる統治機構ではなく、人間個人の映し鏡として国家構成員すべての心(集合意識)を反映する形で豊かな精神性を保持しています。

 

❻従って、人間や世の中を目に見える物だけで捉える「唯物論(唯物一元論)」や、国家を破壊すべき「悪しき権力」と捉える「唯物論的弁証法(マルクス主義)」など見当外れも甚だしい思想です。全文→https://ameblo.jp/japmasa778/entry-12377112041.html 

 

(次回に続く…)

 

2、國體(こくたい)とは

 

「大和心」は「国家の心(狭義の國體)」にも反映しますが、広義の「國體」とは、「国家の心」を含む国家全体を「生命体系」ととらえる概念です。が、「國體」という言葉については誤解が多く、戦前から様々な議論がなされてきました。例えば、「國體」=「天皇主権の国家体制」などですが、これは表面的な議論です。

 

この説は、「国民主権」に対する意味での「天皇主権」を強調したものですが、「主権」という国家意思の決定権の在りかが何処に有るかという統治機構に限定した捉え方で、「国家の心」が欠落しています。

 

この点、戦前の一時期に主流を占めた憲法学者・美濃部達吉博士は、「国家は生身の肉体を持たない法人であり、国家主権はこの法人に属し、天皇はその執行機関に過ぎない」という「天皇機関説」を唱えました。この説は陸軍統制派によって採用されますが、皇道派に攻撃され後塵を拝します。

 

また、戦後も、戦前の体制に批判的なマルクス史観に立つ学者を中心に、「國體」=「天皇主権の国家体制」として批判的に捉えてきました。しかし、戦前、戦後ともに、国家構成員の集合意識=「国家の心」の視点が欠けています。

 

すでに現行憲法下では、天皇は統治機関ではなくなっており、「天皇機関説」は成り立たず、「天皇象徴説」は明らかです。が、主権の有無にかかわらず、いずれもこれらの説は国家を統治機構に限定し、「國體」が顕在化した「政体」についての形式的議論に過ぎません。

 

(次回に続く…)

 

3、カタカムナ哲学とは

 

(前回からの続き…)

 

ところで、「大和心」を本質とする「国家生命体系」は、山口県出身の天才物理学者・楢崎皐月博士よって、兵庫県で発見された世界最古の歴史書といわれる「カタカムナ文献」に記された「カタカムナ宇宙哲学」によって成り立っています。

 

カタカムナ文献は、宇宙哲学や生命論、核融合や反重力などの自然科学の記述に終始しています。また、決定的なのは、竹内文書などの古史古伝がアヒル草文字などの「神代文字」で書かれているのに対し、カタカムナ文献では幾何学模様の「宇宙文字」が使われています。

 

「カタカムナ哲学」によると、「宇宙は相似象をなす正(カム=外側)と反(アマ=内側)が旋転し、正反それぞれが極限まで行ったら逆旋転を繰り返す。そのため一見するとマイナス作用にしかみえない物質の分化、還元も、プラス作用にみえる統合も、万物万象の一過程に過ぎない。

 

これは『現象界』のすべてに当てはまる法則であるが、その根源は目に見えない『潜象界』にある」。また「宇宙は、自分の外側と内側、更に自分自身にも存在し、三位一体で均衡する」とします。これを反映し、「違いを認めつつ、一つに帰る」という十七条憲法の精神として具現化します。

 

(次回に続く…)

 

4、「三種の神器」の意味

 

以上のカタカムナ哲学と日本の神道、國體との関係を「記紀」の内容も参考にしながら確認すると、三種の神器の「八咫鏡」は、鏡を見ている自分(内側)と映し出される自分(外側)という二元性を表しており、神道概念の「ムスビ」に当たり、「あらゆるものが対を成す関係性の中にある」ことを意味します。

 

次に「草薙剣」は、「人間の意識があらゆるものの原点であり、秩序を形成している」ことを表し、神道概念の「ククリ」に当たります。最後の「八尺瓊勾玉」は、一点から発して球体を為す形をし、球の真ん中には穴がありますが、これは個から全が生まれ、全は個に帰る旋転の繰り返しを意味しています。

 

キリスト教などの一神教では、「宇宙の創造主」である神は人間を超越する者と捉えますが、神道では宇宙を構成する万物の中に神が宿るとするため多神教となり、また人間の外側(外在神)だけでなく内側にも神が宿る(内在神)とします。

 

この結果、神と人間はもちろん、あらゆる万物は対立することなく連続して存在し、神と天皇と人々が一体化して構成された生命体系である大家族こそが「國體」であるとします。また、「外在神=他力本願」、「内在神=自力本願」を意味することから、日本においては仏教も独自の進化を遂げます

 

これに対し、欧米一神教は”正義“の名の下に内外で戦争を起こしてきました。それは一神教では人間は絶対者である神の子であり、両者は「支配者と服従者」の関係にあるが、中世では君主、近代以降は国家が支配者となったためこれらと戦い、また絶対者である神の教えと異なる異教徒を打倒しようとするからです。

 

(次回に続く…) 

 

5、欧米思想と國體思想 

 

このような日本の「國體思想(國體主義)」と欧米の「民主主義」を比較しますと、民主主義には、「個人主義(自由主義)」と「社会主義(平等主義)」の二つあり、前者は個人と国家を対立させ、後者は個人を国家と対立させつつも共産党による生産手段の国有化を通じて両者を融合させ「共産主義(全体主義)」に至ります。

 

ちなみに、共産主義と並ぶ全体主義には、「ファシズム(超国家主義)」と「ナチズム(超民族主義)」がありますが、共産主義がマルクス思想に基づいて国家を“悪”とみる(性悪説)のに対し、後者はヘーゲル思想をに基づいて国家を個人ないし民族(の意思)の体現とみて(性善説)、個人と国家を融合させます。

 

また、全体主義に似た「独裁主義」というのは、「専制君主制」のイメージに似た概念ですが、権力の集中度合から見た呼称で、政党ないし個人に権力が集中した状況を指します。例えば、共産党による一党独裁やヒトラーなどの独裁者がその好例です。

 

一方、日本の國體思想は、個人と国家を対立させない(性善説)点で民主主義と異なるばかりか、欧米流の「国家」に相当する「政体」と、国家、国民の心に相当する「國體(狭義)」が天皇によって結び付き、国家を一つの「生命体系」ととらえる考え方です。

 

ところで、日本は文明開化以降、帝政ドイツの憲法を模範にした「明治憲法」、戦後は「民主主義」「人権保障」などの思想を盛り込んだ「英米型憲法」を導入しました。

 

しかし、それ以前、明治維新までは「武家諸法度」はありましたが、それは基本的に「行政法規」に過ぎません。実は、「憲法」にあたる国家の理念や価値観を示す法規範は聖徳太子が作った「十七条憲法」だったのです。

 

そして統治機構である「政体」は長く武家が担いました。平安時代初期までと南北朝時代、明治時代以降終戦までは 天皇(上皇、法皇)が「政体」も掌握しましたが、「國體」は一貫して天皇が祭司を執り行ってきました。前者を「政体天皇(表天皇)」、後者を「國體天皇(裏天皇)」と呼びます。

 

このような意味で、國體天皇は神(心)と国民を合一する“神民統合の神籬(ひもろぎ)”で、一方、政体天皇は国家機構ないし君主と国民を結びつける“君民共治の紐帯(ちゅうたい)”といえ、これにより神と国家と国民の“三位一体”が成ります。

 

(次回に続く…)

 

6、民主主義の問題点

 

1)自由主義も社会主義も同じ民主主義

 

ところで、世界には、大戦中連合国にも枢軸国にもソ連にも金を貸していた勢力がいて(決してユダヤ人だけでは無い)、この勢力は“民主主義”という名の下に共産主義と自由主義を使い分けて世界を一元的価値観で管理しようとしています。この勢力を「覇道ワンワールド勢力」といいます。

 

そもそもマルクスは金融王ロスチャイルドから依頼されて「資本論」を書きました。実際、資本論では資本主義が発展すると経済的格差が生まれ、それを解消しようと生産手段が国有化され、最終的には私有財産制が廃止されるとして、資本主義(自由主義)と社会主義(共産主義)の連続性を肯定しています。

 

また、レーニンは「二段階革命論」で、個人主義が根付いている欧米では「ブルジョワ革命」を、皇帝制など強固な君主制に支えられたロシア、支那、日本などではブルジョワ革命を皮切りに「プロレタリア革命」まで起こせとしており、実際、ロシア、支那では皇帝制が打倒されました。

 

これは、「自由主義(資本主義)」も「社会主義(共産主義)」も、彼らにとっての対立軸である国家を“悪”とする点で共通し、両者が延長線上にあることを意味します。そして、弱体化した民主?政府を金融を通じてコントロールし、すべての国家と世界を一元管理しようと画策しています(NWO…覇道ワンワールド)。

 

そして、もう一つ驚くべきことは、世界共産党の本部は中共でも旧ソ連でもなく米国だという事実です。この自由主義陣営と社会主義陣営の黒幕が同じで、それも米国であるという事実は、直近の日、米、中、朝などをめぐる内外情勢に現れています。

 

 

(次回に続く…)

 

2)安倍政権を攻撃している黒幕は米国だった!

 

ところで、第一次安倍内閣を潰し、その後プーチン政権、トランプ政権、再び安倍政権を攻撃しているのは、米国共和党最右派の“ネオコン”と呼ばれる勢力です。ネオコンとは「ネオナチ」と「ベトコン」に擬えた造語で、「ファシストの顔をしたコミュニスト」の意味を持ちます。

 

このうち、対日工作に関わるリチャード・アーミテージマイケル・グリーンジョセフ・ナイカート・キャンベルウィリアム・マーティンなどの米国政府高官を“ジャパンハンドラーといい、これまで彼らは「キリスト教原理主義」の影響を受けた保守派と位置づけられて来ました。

 

だとすれば、なぜ同盟国米国の最右派が、日本の保守派の安倍政権を攻撃するのかという疑問がわいてきます。が、その理由は、ネオコンとはスターリンとの権力闘争に敗れて米国に亡命してきた“旧ソ連トロツキー派”だからです。彼らは米国に亡命し、初めは左派である民主党に関わります。

 

そして、F・ルーズベルトが大統領になったとき、社会主義者のマンデル・ハウス、ルイス・ハウ、ハリー・ホプキンス、フランク・ファーターらが側近となって、ケインズ経済学に立脚した「ニューディール(総需要管理政策)」という“事実上の社会主義政策”を実行、米国は実質的な社会主義国になります。

 

また、日米開戦に際しても、後年ソ連のスパイだったことがわかったハリー・ホワイトが、日本に厳しい内容の“もう一つのハルノート”を作って日本を追い込みます。終戦後はGHQに影響力を行使し、ホイットニー准将らが吉田茂、幣原喜重郎ら日本側の”内通者“らと謀って日本に「平和憲法」を導入させます。

 

 

加えて、日本に労働組合と共産党を復活させて教育界、法曹界、マスコミなどへの浸透を図ります。しかし、冷戦に入ってからは、フルシチョフとの和解を進めて反ソ姿勢を緩和させたJ・F・ケネディに見切りをつけて共和党に移ります。

 

が、元々が旧ソ連トロツキー派という“生粋の共産主義者”であるため、これまで中国や北朝鮮の横暴にも寛容で、彼らの後ろ盾となって「見て見ぬふり」をしてきました。また、日本のマスコミ、財務省、検察・警察なども影響下に置き、「日本を取り戻そう」とする第一次安倍政権を潰しました。

 

また、歴代自民党政権の中でも中曽根康弘や小泉純一郎などは“ジャパンハンドラーズの下僕”といってもよく、とくに小泉は引退後ずいぶん経った今頃、突然、オイルメジャーを潤わすだけの“代替案のない脱原発“を言い出したり、第二次安倍政権の足を引っ張る発言を繰り返しています。石破茂、野田聖子も然りです。

 

しかし、目下、安倍、トランプ、プーチンの“ナショナリスト三者連合”ができ、勢力が逆転しつつある中、トランプは中国寛容政策を捨て一気に保護貿易路線に転換、彼らネオコン(=共産主義者、グローバリスト)の排除を図り始めているところです。

 

このため、中国共産党はこれまでネオコンにとっては、安い労働力をまとめ上げ、利用するために都合がいいとして温存されてきました。が、人件費の高騰で世界の工場としての旨味がなくなった現在、“用済み”として見切りを付けられ、慌てた中共は日本にすり寄ってきているのが真相で、北朝鮮の軟化も然りです。

 

(次回に続く…)

 

3)民主主義の淵源はキリスト教

 

ところで、民主主義の淵源はキリスト教の「聖書(一神教)」にあります。民主主義の生みの親はJ・ロック、ホッブス、モンテスキューら啓蒙思想家ですが、ロックの政治思想をみてみると、「天賦人権説」がキリスト教神学者アウグスティヌスの「神からの恩寵としての自由」という思想を基にしていることがわかります。 

 

そこでは、「神」が近代に入って「理性」になり、「自由」になり、「民主主義」に代わっただけで、“自我”を絶対とする一神教思想であることに変わりはありません。

 

確かに、民主主義には、例えばローマ皇帝の圧政に加担したローマ法王インノケンティウス三世のような絶対権力に対する対抗概念としての意味はあります。しかし、日本では天皇による圧政などという歴史はなく、幕藩体制になっても緩やかな分権分業体制が成り立っていました。

 

が、“民主”などというと「自分が主人公」という心地良い印象を与えますが、キリスト教の愛、光、平和などと同じく抽象的である故に大衆を思考停止に追い込むばかりか、そもそも大衆には生まれながらにして物事を判断する情報があるわけではなく、後天的に教育と報道によって擦りこまれているのが実態です。

 

また、「自分が主人公」という“ヒューマニズム”の名の下のエゴの追求が環境破壊、地球温暖化、経済恐慌をもたらし、人類全体を行き詰まらせているのが現下の情勢です。

 

このような経緯から、民主主義とキリスト教は密接な関係にあり、さらに欧米一神教による世界戦略は、政治は民主主義(自由主義または共産主義)、宗教はユダヤ・キリスト教、経済は「自由、平等、友愛」などを理念とする“フリーメイソン”という三つの顔を使いわける手法を取っています。

 

(次回に続く…)

 

4)「國體社会主義」とは

 

これに対し、亜細亜は多神教を基本とし、とくに日本は教義を持たない神道を“メタ宗教(宗教の宗教)”として、「何が正しい」と決め付けることなく、長く幕藩体制という諸藩の自治に委ねる分権分業体制を敷いてきて、外敵が迫ってきたら天皇を中心に一つに纏まり対処するという歴史を辿っています。

 

これが“多神教的民主主義”ともいうべき「國體社会主義」です。すなわち、「国家」を大衆と対峙する“権力(性悪説)”と見るわけではなく、天皇を軸として「政体(体)」と「國體(心)」と「国民」が一つの家族として「国家生命体系」を形成します。

 

一方、西洋が「善悪二元論」の一神教、他方、東洋は「あるがまま」の多神教、この違いが好戦的な西洋人と村社会的な日本人を分ける思想的背景ですが、敗戦によって欧米の一神教的な価値観である「正しいのは神だけで人間や人間が持つ国家権力、天皇は悪」という前提に立つ民主憲法が日本に押し付けられました。 

 

目下、「憲法改正」は戦後最大の政治課題ですが、現行憲法の問題点は単に九条だけではなく、以上述べたような思惑で戦勝国が押し付けた関係で人権保障(自由主義)と国民主権(民主主義)にもありますが、多くの論者は九条の事ばかりでこの点がわかっていません。 

 

  

そもそも「立憲主義(立憲君主制)」とは、天皇ですら国民が作った憲法に従えという思想ですが、君主は権力を乱用する恐れがある悪者だという性悪説の人間観に立っています。これはまさに旧約聖書の「神との契約を破ったアダムとイブ」の発想から来るもので、性善説に立つ日本國體、日本人にはなじまないものです。

 

戦前まで「八紘一宇」と呼ばれていたこのような日本の國體思想は、「竹内文書」や「契丹古伝」によると、古代には遍く世界に及んだといわれています(王道ワンワールド)。しかし、その後の欧米一神教勢力の攻勢によって圧迫を受け後退、大東亜戦争(正確には対米戦争)の敗退によって、日本列島だけに封じ込められました。

 

さらに、欧米流の民主主義憲法の導入を余儀なくされた結果、國體の中心をなす天皇が、「神はキリストだけでいい」とするマッカーサーによって、神でも主権者でもない“象徴”などという曖昧な地位に置かれ、解体の危機にさらされています。

 

このように見てみると、わが国の國體破壊は単に共産党の最終目標であるばかりでなく、実は欧米キリスト教民主主義者の狙いでもあるといえるのです。

 

(次回に続く…)

 

7、自由(自由意志)など存在するのか?

 

1)0・35秒遅れの意思決定の衝撃

 

ともあれ、現行憲法によって導入された民主主義ですが、確かに国家権力から人身の自由や思想信条の自由などを守ることは必要で、その限りで民主主義による制御は有益です。が、これらは「国家からの自由」という自分と外的世界の在り方に関わるテーマです。

 

既に述べたように、人間が成長する過程で教育や報道を通じて刷り込まれた情報に基づいて判断力を身につけるに過ぎない以上、一方的に自由だけを保障してもあまり意味がなく、教育と報道次第でどのようにでも操作できることを考えると、「自由などない」といっても過言ではありません。

 

実際、目下、世界でも日本でも、マスコミによるデマ、ねつ造などのフェイクニュースが氾濫して“情報ファシズム”といえる状況が続いています。問題は、人間の内面、すなわち、人間には「心の自由=自由意志」があるかどうかです。

 

ところで、近年、fMRI(機能的磁気共鳴画像診断装置)による脳の働きの解明によって、人が顕在意識で物事を意思決定する0・35秒前に、すでに潜在意識で処理がなされているということがわかっています。

 

これは、顕在意識の処理能力が20ビットであるのに対して、潜在意識のそれは1100万ビットあり、圧倒的に潜在意識によって支配されているといわれているからです。

 

では、なぜ無駄に思えるこの「0・35秒遅れの意思決定」が行われているかというと、未来に生じる類似ケースを機械的に処理できるよう情報を記憶として蓄積するためです。もしこの機能がなかったら脳は常に新しい事態に対処しなければならず、フリーズしたPCのようになってしまいます。

 

例えば、朝起きて顔を洗って、毎日決まった軽い朝食をとって、決まったルートで通勤して、多くの人の場合は決まりきった仕事をこなして、時間が来たら帰宅してなどと、99%以上を占める普段のルーチン化された生活パターンの中では、一々考えたうえでの自由意志による選択など行われていません。

 

あるいは、どんな理性的な人でも、信仰や政治観、人生観などの人格の核心を批判されると一瞬でも“キレ ”、その限りで一時的に”感情の激流”に流され、自分を見失って、普段何気なくやっているブレのない「判断の自由」を失うなど、自由意志など無い状態に陥ってしまいます。

 

(次回に続く…)

 

2)キリスト教と自由

 

では自由の存在に関して宗教、特にキリスト教ではどう考えてきたか?原始キリスト教では、人間は神との契約を破って「善悪を知る木ノ実を食べた罪人」として、神に近づく自由を奪われ、その間、罪を償うため(贖罪)に生き、これを果たしたものだけが恩寵によって天国へ行けるとして、人間から自由意志を奪っています。

 

一方、キリスト教神学者アウグスティヌスは、「人間は自由だから悪を行う」としながら、「アダムとイブの原罪によって神のそばに近づく自由は奪われた」とし、自分の外側ではなく内面に“神の似姿としての理性 ”が宿っているのだから、これと向き合ってこそ原罪を乗り越えられる(自由を得られる)。

 

しかし、それはもっぱら “神と聖霊の恩寵 ”によってもたらされ、人間の自由な意志によるものではないとしてこれを否定(恩寵先行論)、また、後年の宗教改革の先導者であるルターも明確に自由を否定しています。

 

他方、神学者アクィナスは、存在論に基づく「神中心主義」と、理性(自由な意志?)と信仰(信仰の自由?)に支えられた「人間中心主義」の統合を図ったことから、後の西洋哲学における「自我論」や「自意識論」への手掛りを与えたと考えられます。アクィナスは後の政治思想にも影響を与え、

 

神の摂理が「永久法」として世界を支配し、人間は「自然法」としてこれを分有するが、現実社会の秩序維持「神定法」という観念を導いて、「永久法」→「自然法」→「人定法」の階層構造を築き、近代国家の「天賦人権説」や「立憲君主制」などに根拠を与えます。

 

一方、現代のキリスト教は、「神は信じる“意志”を持つ者を知っており、その者が信じた時に救われる」、「キリストはすべての人のために十字架の上で死んだが、信じる“意志”を持つ者がその救いを自分のものとできる」とし、自由な意志による信仰に神の恩恵を付け加え、“限定的な自由 ”を認めています。

 

ちなみに、仏教をはじめとした東洋の多神教では、「すべての生きとし生けるものは神であり、人間であり、そこに善悪、優劣はない」とするため、「神が善で人間は悪」という「善悪二元論」の思想と、そこから演繹される「悪である国家から人民を守る」という発想がなく、「自由(人権)論」は近代以前には存在しません。

 

ただ、大乗仏教の「唯識説」では、目に見える外界の現実を作り上げているのは人間の顕在意識ではなく、 “阿頼耶識(あらやしき) ”といわれる「潜在意識(深層意識)」だとして、欧米流の自由論をはるかに飛び越した深考がなされています。

 

(次回に続く…)

 

3)西洋哲学と自由

 

では、西洋哲学では自由についてどう考えていたか?ここでは、近代民主主義や自由主義を考え出した啓蒙思想家たち、その完成者と言われるイギリス経験論哲学者J・ロックについてみてみます。

 

ロックによると、私たちの心は生まれながらにして白紙(タブラ・ラーサ)であり、観念形成の起原はあくまでも「経験」で、我々にあるのはそれらを認識し、加工する能力だけだとします。

 

この「認識」は、例えば目や耳で感じとられた赤とか丸といった断片的感覚を集め、比較したり判別したり「内省」してリンゴと決定(認識)するとします。

 

ところが、「神」については、「無からは何も生じない(神の存在は経験できない)」が、経験の主体である私たちは現に存在していることを経験できる以上、私たちを存在させている何か永遠なもの(神?)があるのではないか。

 

そして、人は経験によって信仰する神も、依って立つ世界観も異なる以上、どれが正しいということはできないのだから、すべての個人の「内心の自由」は無条件に保障されるべきだ。

 

このようにロックの「天賦人権説」は、何の根拠もなく「何か永遠なもの(神)があるのではないか」とし、その神は「経験によって異なる以上、内心の自由は保障されるべき」、「神から与えられた人権は無条件に保障されるべき」と“必要性論”が出てくるだけで、何ら“理論的根拠”が示されていません。

 

要するに、ロックの「天賦人権説」の背景には、神学者アウグスティヌスの「人間には罪によって歪められているものの、物事を為す自然的な自由があり、それは神の恵みにより回復される」とする、「神を信じる者には自由が与えられる」とのキリスト教思想があると考えられます。

 

だとすれば、「自由主義」、「民主主義」などの近代啓蒙思想の前提となっている「天賦人権説」は、根拠のないキリスト教的な“信仰”といえ、それを前提にした近代国家やわが国の日本国憲法も、憲法九条だけでなく、すべてが根拠なきただの“神話”であり“願望”でしかないと言えるのです。

 

いずれにせよ、以上から言えることは、キリスト教やその影響を受けた近代までの西洋哲学でいう「自由」は、対立する国家から如何に人間個人の自由を守るかという命題の対象となる自由、すなわち、「人権」の意味しかなく、個人の心の内の自由、すなわち、「自由意志」の存否については議論できていません。

 

(次回に続く…)

 

4)現代哲学で自由意志は否定された

 

ところで、どんな体の痛みでも寝ている間や麻酔をかけられている間は感じませんが、心臓や肺は、寝ている間でも休むことなく働いています。こんな体験から、

 

「現実は私たちが意識する(生まれる)前から存在しているのか」、それとも「私たちの意識が作りあげているのか」、さらには「そもそも意識は存在しているのか」という事が、長い間、哲学の世界で議論されてきました。

 

そして現代哲学では遂に、「投げ込まれた世界の中で自己生成した意味や価値を通じて、自分が誰かを回帰的に認識する(ソシュール/構造主義)」、「自発的意志はシステムや慣習からの刷り込みの結果として生じ、自由意志を持つ存在としての “人間は死んだ ”(フーコー/ポスト構造主義)」、

 

「人類の歴史や人生に目的などなく、家族、友人、職場など身の回りとの関係性の中で、言語を通じて他者と折り合いをつけながら “小さな物語 ”を生きているに過ぎない(リオタール/ポストモダン)」等として、「自由意志」や「理性」、その背後にある「神=キリスト教的価値観」を否定しています。

 

(次回に続く…)

 

5)心理学、脳科学でも自由意志は否定された!

 

一方、近年では認知心理学や脳科学、AI(人工知能学)の発展により、私たち人間の認知のメカニズムが明らかになりつつあります。そこでまず、人間の心の本質である「意識(広義)」について整理しますと、

 

私たちの「意識」は、一般に「知・情・意」からできているとされます。まず「知」は、五感によって得られた外部情報を知覚し、それに対応する記憶を脳の中から探し出す機能です。次に「情」は、「恐怖、怒り、喜び、好き嫌い」など感情からなり、

 

さらに「意」は、意志や意図などの何か目的や一定の方向に向かう積極的な心の働きです(狭義の意識)。このうち「知」と「情」は、意識的に働くというよりも無意識的な反応として起こります。

 

問題は、最後の「意(狭義の意識=自由意志)」が、主体的、能動的な働きとして存在するのか否かです。が、繰り返しになりますが、脳の中にある「意識」は20ビットの処理能力であるのに対して、「潜在意識」は1100万ビットあり、圧倒的に「潜在意識」によって支配されており、

 

「顕在意識」、すなわち、「自由意志」は機能する余地がないと言われ、これを裏付ける実験が、冒頭に述べたfMRIを使った「0・35秒遅れの意思決定実験」です。即ち、自由意志(顕在意識)による意思決定の0・35秒前に、潜在意識が反応しているというのが真実です。

 

私たちの潜在意識は、過去の記憶との照合によって物事を認知、判断し、様々な事態に対処しています。確かに、私たちは自分の意志で思考や行動を選択しているように“感じて”いますが、それは単なる幻のような「現象意識(クオリア)」であって、何らかの働きをしている「機能意識」ではないのです。

 

以上のことから、意識(顕在意識)は潜在意識が処理した結果を追認し、未来の類似ケースに転用できるよう情報を蓄積しているに過ぎず(エピソード記憶)、意識(自由意志)は存在していないという仮説が成り立ちます(受動意識仮説)。 

(次回に続く…)

 

 

6)量子物理学でも証明された!

 

そして、「物事は潜在意識が決め、顕在意識(自由意志)が決めているのではない」とする結論は、量子物理学の「観察者効果」としても説明できます。

 

まず、二重につい立てを置いて、前方から電子銃で光子を直線的に一つ一つ発射します。手前のつい立てには二つの縦穴(スリット)が、中心よりやや左右に平行してあり、奥のつい立てには感光紙が張られています。

 

もし光子が粒子なら、手前のつい立てにぶつかって、奥のつい立てまでは届かないはずですが、実際には、奥のつい立てに”縦縞模様“が複数残ります。これは光子が波に変わって手前のつい立てを通過し、二つに分かれた波形が奥のつい立ての前で干渉(合流)し、衝突したことを意味します。

 

さらに、奥のつい立てに粒子感知器を設置してみると縦の棒線が二本表れます。これは設置された粒子感知器に「現れるのは粒子のはず」という観察者の潜在意識が反映されている結果で、光子は手前のつい立て通過時には“波動 ”、奥のつい立て衝突時には“粒子”として現れたわけです。

 

つまり、物質の中の電子は原子核の周りを波として揺らぎながら雲の様に取り囲んでいるだけですが、観察者が「球形」を意識すると実際に「粒子」として現れるのです。

 

これらのことを統一的に説明する仮説として、R・ペンローズ(オクスフォード大学)は量子物理学を脳科学に応用した「量子脳仮説」を提唱しています。

 

それによると、目に見えない脳の内部と目に見える外部は繫がっていて、外部から脳の内部に波動が伝わると、内部では未確定状態の「元意識(量子波動)」が明確な「顕在意識(意志)」へと変化します。

 

その変化は同時に外部へと伝わり“物質の素”ともいえる「元物質(量子素子)」を確定させ、目に見える「物質」として出現させます。

 

この内外の関係性と対で起こる変化を「量子もつれ効果」といい、目に見える物と目に見えないものが一秒間に何億回と繰り返し“対生滅”しているのが宇宙の実相だと考えます。

(次回に続く…)

 

 

7)量子論と仏教、神道、カタカムナ

 

以上の哲学、心理学、脳科学、人工知能学、量子理論などから見た世界観は、実はすでに2600年前に釈迦やその弟子たちが語っていた哲理でした。

 

例えば、仏教の「唯識説」は、この世の現実は意識が作りあげた幻想だから「空(空観)」だ。一方「中観説」は、目に見える世界は目に見えない世界と対をなす関係性の中に存在し、目に見える世界だけ見ていても本質を捉えた事にならず「空」だ、とします。

 

ただ、「空」というのは、自分が存在する前に外部世界にまったく何もない(絶対無)というわけではなく、存在しているが意識に入らない限り “その人にとっては ”存在していないのと同じだ、という意味です(相対無)。

 

「無我」の意味についても、「唯識説」では「私ではない」、つまり「顕在意識ではなく潜在意識(阿頼耶識)が本質」と捉えるのに対し、「中観説」は「私はない」、つまり「私は単独では存在していない」と捉えます。

 

そして、「唯識説」では、現実は幻(空観)なのだから自分の内面を変えない限り変わらないとし、「中観説」は、見えるものと見えないものをバランス良くみよとし、いずれも目に見える現実に拘るなと強調したうえで、ただ、現実的な関わりにも一時的な役割はある(仮観)とします。

 

これを量子論に対応させると、「唯識」が「観察者効果」、「中観」が「量子もつれ現象」で、このような現象が起こる理由は、量子は粒子と波動の二面性をもっており(重ね合わせ状態)、「形あるもの(粒子)」と「形なきもの(波動)」との対生滅のあり様を、仏教では「一即一切、一切即一」と呼び、

 

「一」は粒子を、「一切」は波動を象徴し、「一点に全宇宙が畳み込まれ、全宇宙には一点が遍く存在している」ことを意味しています。

 

また、このことは「一即多、多即一」とも表現し、「一」は “一神教 ”を、「多」は “多神教 ”を象徴していると考えられます。

ちなみに、神道ではこの状態を、玉の真ん中に穴の開いた「勾玉」で表し、カタカムナ哲学(陰陽道)では陰陽二つの勾玉がペアになった「太極図」で表しています。

 

(次回に続く…)

 

8)一点に全宇宙が畳み込まれている

 

仏教や量子論でいう「一即一切、一切即一」のうち、「全宇宙には一点が遍く存在している」という方はイメージしやすいのですが、「一点に全宇宙が畳み込まれている」の方はイメージしにくいので、ここで説明しますと以下の通りです。

 

まず、宇宙空間を球体に見立て、今、私たちがこの真ん中にいて、そこで球体を真っ二つに分割します。その後、分割した半球体それぞれを、私たちの立ち位置を頂点にして“グレン“と裏返します。できた二つの半球体を180度回転させたうえで切断面を合わせて球体を作ります。

 

すると、球体の外からは私たちがどちらかの球体表面の真ん中にいるように見え、この作業を切断面を変えて360度方向で繰り返すと、球体は自分(という点の集まり)に覆われます。宇宙は自分を起点(中心)にして外側に展開していると同時に、自分(という一点)の内側にも展開しているのです。

 

8、日本国憲法は破綻している

 

以上、民主主義(国民主権)と自由主義(自由意志論)の問題点について述べてきました。このロジックは「平和主義(九条)」についても当てはまり、それ自体が非現実的な"願望"であるばかりか、相手国との"自由な話し合い"が成り立たない以上、ただの"信仰"に過ぎないといえます。

 

"自由な話し合い"とは、「平和」という普遍的理念を共有し、その実現に向けて相互に拘りのない意見を積み重ねていくことです。が、既に見たように「実存主義」以降の現代哲学では「普遍的」なるものの存在は否定されており、また、人間は刷り込まれた潜在意識によって支配されているからです。

 

加えて、前述の「國體社会主義」からいっても、それが「違いを認めつつ一つに帰る(差異化と帰一化の共創原理)」という緩やかな多元的性善説に根ざしていることから、統治権の所在を厳格に規定する「民主主義」、非武装化によって政府の行為を厳格に覊束する「平和主義」との間には親和性がないといえます。

 

しかも、憲法前文は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し」とありますが、自民党が「平和を愛する米国民の公正と信義に信頼」していたのに対し、今の共産党は「平和を愛する中国民の公正と信義に信頼」しています。が、実態をみれば、その前提が成り立っていません(イエリネック…憲法の変遷)。 

 

そういう意味で、現行憲法は外務省フリーメイソン派によって推進された怪しい制定経緯もさることながら、”覇道ワンワールド“を目指す欧米グローバリストのキリスト教的価値観による"日本支配のための桎梏"であり、論理的に成り立っていないばかりか、我が國體とは親和性がないものと考えます。 

 

ただ、欧米の政治システムから取り入れた議会制度は、民意を把握する上で有効な仕組みとして、日本が近代化して以来すでに国民の間に定着しています。従って、私見としては、君主制と民主制の調和が図られた「明治憲法」を参考に、行き過ぎた民主主義に歯止めをかける新しい日本国憲法を模索すべきと考えます。