大戦の敗因を探る、7

 

1)石原莞爾と満州事変

 

 

さて、昭和初期における大東亜戦争前の最大の紛争は「満州事変」です。が、「満州」といえば、必ず話題になるのが"天才戦略家"と言われた「石原莞爾」です。山形県出身の石原は、陸士、陸大を卒業後ドイツに留学、クラウンゼヴィッツやナポレオン、フリードリヒ大王の戦略論を学びます。

 

ところで、日露戦争で勝利した日本は、国際法に基づきロシアから南満州鉄道の経営権とその守備駐屯地権等を譲り受け、またこれについては清国との間でも取り決めを交わしています。

 

こうして日本が進出した満州の治安と経済は顕著な進歩を遂げます。大不況下にあった本国からは渡航者が殺到、華北地方からも漢人がやってきて、昭和5年の満州の人口は、日露戦直後22年で70%増加します。産業面でも、例えば大豆は5倍に、石炭生産は6倍に達します。

 

 

当初、日本は満州軍閥・張作霖に満州の統治をさせようとします。しかし、張作霖配下の郭松齢がソ連に買収されて反乱を起こしたため関東軍が出動し平定、その後も日本は引き続き張作霖を支援します。ところが、1928年(昭和3年)6月4日、張作霖は奉天近郊を列車で移動中、爆殺されます。

 

この事件に関しては、これまで犯人は日本軍の河本大佐ではないと言われてきました。が、当日の現場には張作霖の通過ということから、申し出により日本軍に代わって奉天軍50人が護衛に着いていたこと、列車が現場に近づいたときだけ時速10キロ程度に落としていたこと、回収した破片から爆弾がロシア製だったこと等から疑問が持たれてきました。

 

実際、張作霖爆殺事件は、「スターリンの命令にもとづいてロシア人・ナウム・エイティンゴンが計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだ」とロシアの歴史作家・ドミトリー・プロホロフが語っており、また2005年に邦訳が出版された「誰も知らなかった毛沢東(ユン・チアン)」でも紹介されています。

 

 

ところが、この事件をきっかけに、父・張作霖との関係がうまくいっていなかった息子の張学良がソ連の支援の下、激しい排日運動を展開。このため、軍部は満州及び関東軍の建て直しを図るべく昭和4年に石原を特務参謀として送り込みます。

 

 

しかし、激しくなる排日運動の中、国際法によって認められた在留邦人の生活が脅かされ、内地に帰る者も続出するに至ります。石原は「やはりこの満蒙は支那人では駄目だ。彼らには国作りの理想もなくソ連の思うツボ。ここは日本が軍政を布いて治安を維持し、産業を発展させる必要がある」と確信。

 

本国に四個師団の増派を要請しますが、ソ連を刺激したくない軍中央は増派を承認しません。そんな折「万宝山事件」「鉄道併行線建設問題」「中村震太郎大尉殺害事件」が起きます。

 

しかし、張側が曖昧な対応に終始したため、板垣征四郎参謀長、本庄繁関東軍司令官と共に単独行動を決断。

 

 

昭和6年9月18日、柳条湖付近の線路を爆破し、これをきっかけに張学良軍22万人を、わずか1万2千人の兵力で撃破、満州各地の軍閥を3ヶ月で平定します。

 

この後、石原は「新国家建設論」を発表。「八紘一宇」の精神を背景にした「王道楽土」「五族協和」をスローガンとして、満蒙領有論から満蒙独立論を主張。日本人も国籍を離脱して満州人になるべきだといい、日本及び支那を父母とした「満州合衆国(東洋のアメリカ)」の建国を目指します。

 

ちなみに、1912年に成立した中華民国の理念でもあった「五族協和」の「五族」とは、東亜細亜の古代の歴史や各民族のルーツに鑑み、一般には日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人を指すと言われきました。しかし、世界最古の歴史書「竹内文書」などに登場する「五色人」を表しているという説があります。

 

それによると、「五色人」とは「黄金人」である日本人から分かれた「黄人」「白人」「黒人」「赤人(ユダヤ人)」「青人(スカンジナビア人)」を意味し、「黄金人」である日本の古代天皇が世界を統治していた(万国天皇)としています。これを縮図化し再現するのが理想の国"満州国"だったのです。

 

 

新国家・満州国のリーダーには清朝末裔の宣統帝溥儀が担がれますが、治安維持など問題山積の状態に本国からの干渉が激しくなり、石原は日本に返されます。しかし、本国で「満蒙開拓移民計画」を立て、日産の鮎川義介を説得して「満州重工業開発計画」の実現や「建国大学」の創立に奔走。

 

2)「八紘一宇」とは何だったか

 

 

ここで、石原らの根本思想にあった「八紘一宇」について説明しますと、「八紘」は「すべての方向」「世界全体」を意味し、「一宇」は「一つの屋根」「一つの家」で、「八紘一宇」は「天皇家の下、世界全体を一つにまとめる」という意味を持ったスローガンです。

 

原典は「日本書紀」(巻の三)の「六合を兼ねて以って都を開き、八紘を掩いて而して宇と為す」で、大正時代に日蓮宗系国柱会を興した田中智学の造語と言われています。

 

まず八紘一宇を理解するには「皇国史観」を知らなければいけませんが、これは日本の歴史を國軆の発展としてとらえる史観で、1930年半ばごろから確立されます。その内容は(1)日本は神国であり、皇祖天照大神の神勅を奉じ、三種の神器を受け継いできた万世一系の天皇が統治してきたとします。

 

(2)また、日本国民は臣民として、古来より忠孝の美徳をもって天皇に仕え、国運の発展に努めてきたとし、(3)こうした国柄の精華は、日本だけにとどめておくのではなく全世界にあまねく及ばされなければならない(神武東征の天業恢弘…てんぎょうかいこう)、とします。

 

田中は『日本国体の研究』で、「人種も風俗も一つにするのではなく、白人黒人東風西俗色とりどりの天地の文はそのままで、国家も領土も民族も人種も、各々その所で各自の特色を発揮し、燦然たる天地の大文を織り成して、中心の一大生命に趨帰し統一する」としています。これを一言で言うと、「違いを認めて一つに帰る(差異と帰一の共創原理)です。

 

田中は大正12年、立憲養正會を創設し各種選挙に候補を擁立、「天皇の大命を拝し、合法的に国体主義の政治を興立する」ことを目標とし、一時は地方議会を合わせて100人を超す議員が所属しました。しかし、新体制運動や大政翼賛会を批判していたため昭和18年3月に解散に追い込まれます。

 

 

ちなみに、昭和11年に発生した二・二六事件では、反乱部隊がしたためた「蹶起趣意書」に、「謹んで惟るに、我が神洲たる所以は、万世一系たる天皇陛下御統帥の下に挙国一体生成化育を遂げ、八紘一宇を完うするの国体に存す。

 

此の国体の尊厳秀絶は天祖肇国神武建国より明治維新を経て益々体制を整へ、今や万邦に向つて開顕進展を遂ぐべきの秋なり」とあります。この事件に参加した皇道派は粛清されますが、日露戦争以降の「興亜論」から発展した「アジア・モンロー主義」を進める当時の日本政府の政策標語として使用されます。

 

ちなみに、「アジア・モンロー主義」とは、亜細亜主義の一種で、米国のモンロー主義のように、アジアにおける排他的な覇権(自給自足圏)を確立することによって、亜細亜諸国の独立と日本の経済的自立を図ろうとするものを指し、「東亜新秩序・大東亜共栄圏」の基礎となります。

 

それは、第一次世界大戦後のパリ講和会議で、日本が提唱した「人種平等法案」が否決され、また1924年(大正13年)に「排日移民法案」が米国議会を通過したことで湧き上がった「亜細亜同盟で米英に対処すべし」との国民世論を背景にした考え方です。

 

さらに、1924年11月には、孫文が神戸で「大亜細亜主義」の講義を行ったことで新しい展開が生まれ、英国によるインドへの圧政に対する反発と、その後の欧米列強による「ブロック経済」による日本への圧迫が、「八紘一宇」の思想を具現化させた「アジア・モンロー主義」を誕生させました。

 

 

3)石原莞爾と「世界最終戦争論」

 

そうした中、昭和11年2月、二・二六事件の反乱軍鎮圧司令部の任に巻き込まれて、これを不満とした石原は進退伺いを出して自宅に閉じこもってしまいます。この間、「東亜連盟」を結成、全国で持論を展開。人類の最終戦争は米国と日本による総力戦になると説きます(世界最終戦争論)。

 

即ち、「最終戦争では航空機や大量破壊兵器によって殲滅戦略が実施されることになる。戦う国としては欧州、ソビエト連邦、東亜連盟、南北アメリカ連合だ。日本の天皇を盟主とする東亜連盟と、ヒトラーを中心とした欧州対南北アメリカ連合と、中立のようだがアメリカ寄りのソ連の対立となる。

 

しかし、欧州は諸国が密集しているためまとまらず、ソ連はスターリンの死後は内部崩壊する。その結果、東亜連盟と南北アメリカ連合の決戦となり、この「世界最終戦争」に勝った国を中心に世界はまとまる。これは東洋の王道と西洋の覇道のどちらが世界統一原理となるか決定する戦争となる」と。

 

そのため石原は、不必要な戦線の拡大に反対し(「十年不戦論」)、また「日満重要産業五ヵ年計画」を進めて満州を基盤にして国力を養い、軍備を強化するべきだと主張します。

 

ところが、昭和12年(1937)7月、北京郊外の盧溝橋で、ソ連の支援を受けた支那共産党の工作による日本軍と支那軍との軍事衝突が起こります。当時、参謀本部作戦部長であった石原はもちろん戦線不拡大方針でした。

 

理由は、日露戦争には勝ったもののとても勝利と言えるものではなく、ソ連(ロシア)との最終決着は未だついておらず、「新五カ年計画」で国力を増強したソ連は再び南侵してくるとの確信がありました。そのため今、支那戦線の拡大は得策ではない。

 

また来るべき世界最終戦争では、支那と協力して米国と対抗しなければならないと考えていたからです。また蒋介石自身も元々、日本と戦う気はなく、ソ連の息のかかった支那共産党への危機感を募らせていました。実際、孫文も「満州は日本に譲る」といっています。

 

しかし、現地部隊は、満州事変が3ヵ月で終わった経緯から短期間で中国全土を制圧でき、命令に反しても結果さえ良ければ処罰されないと考え、また蒋介石も「西安事件」で毛沢東に拉致され、やむなく「国共合作」で日本と戦うことを約束させられます。この結果、事変は全面戦争へと拡大します。

 

そんな中、石原は昭和15年7月の大阪会議で陸相の東条と激突。海軍の南進にあわせて陸軍を派遣するという計画に「まだ支那事変が解決していないのに戦局を広げるとは何事か、先ず蒋介石と講和してからだ」と噛み付いたため昭和16年3月、石原は60歳の定年を前に52歳で軍を追われます。

 

終戦後は、既に引退していたとはいえ石原も東京裁判に召喚されます。が、「ペリーを呼べ」「トルーマンこそが第1級の戦犯である」等と証言、一切連合国に媚びず、逆に糾弾します。そのためか、マッカーサーも世界的に名の知れた石原を戦犯にできませんでした。

 

4)なぜ満州で油田を発見できなかったのか

 

ところで、「満州」といえば、多くの資源が埋蔵され、実際、戦後「大慶油田」「遼河油田」などが開発されています。したがって、これらを戦前の段階で発見、開発していれば、南方の資源地帯確保を目的にした「大東亜戦争」も起こす必要はなかったはずです。

 

 

実際、戦前の日本は、昭和7年の満州国建国以前に少なくとも2回、建国後にも4回、ソ満国境に近い満州東南部のジャライノールと満州南部の「阜新」で石油探査を行っています。とくに「阜新」は、戦後発見された「遼河油田」から山ひとつ越えたところにあったため、昭和12年11月からボーリング調査が始まり、昭和15年5月には深度100mほどのところで約20ℓほどの石油が出ています。またその約1年の間に、ロータリー式で11坑、綱式掘削機で17抗、ダイヤモンドボーリングで18抗の合計47抗程度の試掘を行いました。

 

が、この結果がどうであったのかは秘密のまま、昭和16年以降、開戦により南方資源地帯確保ができたためか、なぜか突然、満州での探鉱作業は全て中止されます。

 

もし技術的な問題があったのだとすれば、開戦前に米国の専門会社に依頼して「遼河油田」でボーリング調査をしていたら、昭和16年前半までに本格生産が始まっていた可能性があり、また時期がずれたとしても、少なくとも南方と繋がる制海権を失ってからも安定した石油供給を確保できたはずです。

 

一方、日本と同じく資源小国だったドイツは、第二次大戦を石炭からの合成ガソリンという「代替燃料」で戦います。この石炭から合成ガソリンを作る精製技術「FT法」は、日本へも1939年に米国スタンダード石油のロックフェラ―からライセンス供与されています。

 

しかし、問題は、精製の核心技術はライセンスして貰えなかったのと、当時の日本の技術者が、革新技術の存在に気付かなかった点にあります。もしこの事に気づけば、日本人の技術力で開発に成功していた可能性は高いといわれていますが、ライセンスされなかったことの背景にはもちろんオイルメジャーによる妨害があったことは想像するに難くありません。

 

そして、問題はそれだけにとどまらず、背後に満州での石油開発を中止させることで、日本を対米開戦に追い込みたい国内勢力の存在が垣間見えてきます。

 

5)密かに進められた日本の原爆開発

 

さて、戦前の満州では最先端の科学研究が行われていました。もちろん、その多くは兵器開発を最終目的にしたものですが、当時の最先端の秘密兵器といえば「原子爆弾(以下、原爆)」でした。

 

戦時中、理化研の仁科芳雄、湯川秀樹、朝永振一郎博士らが、六フッ化ウランの製造、ウラン235の臨界量の計算、熱拡散法によるウラン235の分離装置の開発に成功していました(二号計画)。しかし、遡る1924年に東大の長岡半太郎博士、1934年には東北大の彦坂忠義博士によって、世界で初めて「原爆の原理」が発明されていました。

 


 
しかし、その後、原爆開発は、「こんな悲惨な兵器は作ってはならぬ」という昭和天皇の命令で一旦中止され、技術はナチスドイツに譲渡されたことになっていました。が、米国のマンハッタン計画を知り、焦った陸軍の杉山元・参謀総長は原爆開発を理化学研究所に依頼し、密かに再開されます。

 

一方、海軍も京大の荒勝文策博士に依頼(F計画)、その証拠に、ウラン濃縮に使うための遠心分離機の図面が関係者の遺品から発見されています。

 

 

その図面は、荒勝教授が独自に設計したものと、制作を依頼された東京計器制作所が作ったものの2点で、このうち東京計器制作所が作った図面には、終戦の4日後の「昭和20年8月19日完成」という字が明記されています。

 

この結果、原爆製造の技術は完成しましたが、燃料の濃縮ウランやプルトニュウムがありませんでした。 そこで軍部はドイツに依頼してウランを入手しようと計画、2隻の潜水艦がウランを積んでドイツから日本に向け出向しますが、1隻はマレー沖で米軍に撃沈され、残る1隻は消息不明とされます。

 

しかし、児玉機関の創設者・岩田幸雄氏の証言によると、不明の1隻は無事呉軍港に到着していました。 岩田氏が杉山陸軍大臣に報告すると狂喜乱舞して喜び、「航空機搭載可能な伊四百型潜水艦を使ってハワイに投下し戦局の逆転を図る」と告げたといいます。 

 

 

ところが、このことを知った昭和天皇は、東條首相と杉山陸相を呼び、「数か国が開発を競っているということだが、日本が最初に開発し使用すれば、他国も全力を挙げ開発し使ってくるだろう。それは全人類を滅亡させることになりかねないが、それでは日本が人類滅亡の悪の宗家になるではないか。」

 

「またハワイに投下する計画ということだが、ハワイには日本人の同胞が多く移住し、現地人と共に苦労し今日を築きあげたところである。そんな所に原爆を使うことは許さぬ!」 と厳命したと言います。

 

昭和天皇のこの発言によって、「陛下の意思を無視することはできない」という東条首相と、「敗戦となっては日本は滅びて元も子もなくなるから使用すべきだ」という杉山陸相が対立。が、結局、杉山陸相は陸相を辞任し野に下ります。 

 

 

ところが、昭和19年7月、東条内閣が総辞職すると杉山は再び陸相として復活、自分の責任で原爆開発を進めさせます。今回は長距離噴進砲(ロケット)に搭載しての使用を進めますが、その燃料製造過程で誤爆事故が発生して再び昭和天皇が知るところとなり、天皇は激怒、「まだやっていたのか!」と怒りを顕わにしたといいます。 

 

 

そんな中、日本での開発が遅れた原爆を世界で一番早く完成させたのは、日本の技術をベースにしたドイツでした。しかし、英米と内通していたと言われ、実際、「ヒトラー暗殺計画未遂事件」で処刑された反ヒトラー派のロンメル将軍の裏切りによって米軍の手に渡り、皮肉にも広島、長崎に使用されたと言われています。

 

広島、長崎への原爆投下を受け、焦った日本も米国への報復を示唆するため、陸軍が終戦の3日前の昭和20年8月12日、現在の北朝鮮・金策市(当時の名称は城津)で日本初の原爆実験を行ったと思われる人工地震の記録が、米国公文書に残っています。

 

ともあれ、その後まもなく米国が完成(入手?)させていたことを考えると、天皇が原爆開発を中止させなければ、その命令に反してまで日本軍が実際に使用したかはさておき、報復を恐れた米国が使用に躊躇し、広島、長崎がなかった可能性があることは否定できません(核均衡抑止論)。

 

6)完成していた日本の原爆

 

話を戦後に進めますが、北朝鮮の「金策市」に残された日本軍の"置き土産"ともいうべき技術が、現在の北の核開発のベースにもなっています。ちなみに、「金策」とは、金日成と並び称される抗日戦線の英雄にして金正日の本当の父親であり、本名・「畑中理」という名の中野学校出身の日本人の陸軍特務大尉です。

 

 

また、金日成は4人いて、最初の3人はそれぞれ「金成柱」「金聖柱」「金一星」という日本陸軍が送り込んだ工作員で、彼らが抗日戦線の英雄となれたのは、日本の陸軍士官学校や陸軍中野学校を卒業し、日本軍の戦術を熟知していたためでした。しかし、公式には3人とも抗日戦で戦死し、金策も朝鮮戦争で戦死したこととされていますが、奥の深い話なので別項で詳述します。

 

一方、日本国内での核開発の方も戦後、密かに継続されます。また54基の原発(軽水炉)を20年近く稼働させると結果的に核兵器燃料であるプルトニウムは勿論、濃縮度が違うだけの濃縮ウランもできてしまうわけです。原発には軽水炉以外にもありますが、軽水炉が普及したのはウラン濃縮とプルトニウム生成が可能だからです。
 

その結果、日本の核開発もその後進行し、1996年、フランスに委託した仏領ポリネシアでの核実験を最後に最終段階を迎え、更には、すでに核兵器は完成しており、「日米原子力委員会」でも日本の中距離核ミサイルに限っては保有が認められていると仄聞しています。

 

実際、日本には核爆弾の運搬手段である長距離ミサイル転用可能な世界最高レベルの「MV」もあり、また「激光XⅡ」という核融合装置もあるため、コンピュータによる模擬実験も可能です。 

 

 

また、米国マサチューセッツ工科大学での原子力の学位を持つ大前研一氏も、2005年2月25日、韓国のマスコミからの「北朝鮮の核保有が最終確認された場合、日本も核武装に動くのか」という質問に対して、「その可能性は大きい。日本はその気になれば90日以内に核爆弾を製造し、ミサイルに搭載できる技術的能力を持っている。」

 

「我々はすでに大陸間弾道弾(ICBM)水準のミサイル(ロケット)も保有しており、核爆弾2,000基を製造できる分量に相当する50トン以上のプルトニウムを備蓄している。」と語っています。

 

 

ところで、原爆の他、戦前、すでに開発されていた秘密兵器に「電磁波兵器」があります。敵のレーダーを使用不能にすることを目的に、甘粕機関下の神坂新太郎博士とドイツのラインホルト博士が満州で共同開発していました。戦後も国内でさらなる開発が進められ、現在は「HAARP(統合地球物理学兵器)」と呼ばれ、世界に7か所、日本にも滋賀、長野、青森に施設が置かれています。

 

 

「HAARP」は、地球上空に向けて照射された電磁波を、電離層で反射させて地上に戻し、電子レンジに似た原理で地殻深部にある水分子を振動させ、温度を急上昇させることで地下水を一気に膨張させ爆発力を生み出す兵器で、その威力は、例えば、電子レンジで加熱した銀杏を見れば明らかです。


 

7)撃墜された「日航123便」

 

戦後、原子力発電所を含む日本の核開発は、公式には昭和40年代から着手されますが、"脱石油"を目指し、これを進めた田中角栄は米国の逆鱗に触れ、ロッキード事件で失脚させられます。が、もう一人の推進者だった中曽根康弘は米国に協力したため逃げ切ります。

 

ところで、1985年8月に「日航123便・御巣鷹山事故」がありました。墜落原因について、一般報道では「圧力隔壁のボルトが緩んで…」などと言っていますが、実際は、韓国から飛来しボディを黒く塗りつぶした、当時最新鋭の熱探知ミサイルを搭載した米空軍F-106による撃墜だという説があります。

 

 

実際、これを裏付けるように、近年では雨で浸食された墜落現場の一角から、米軍パイロットの腕時計が発見されています。公式には、「123便は医療用アイソトープを運搬していた」ということになっていますが、わざわざ旅客機を使ったこと、自衛隊出身の機長を使ったことなどから、様々な憶測が流れて来ました。

 

事故調査に当たった自衛隊の報告書の中に、「欠けた垂直尾翼にオレンジ色の塗料の跡がある」との記述があり、また機長のボイスレコーダーの中にも「オレンジエアー(=ミサイル)」という言葉が2回記録されています→https://www.youtube.com/watch?v=4v0EnkhYlHQ 

 

これに関して、2010年5月16日には、江戸東京博物館で「御巣鷹山事件・真相解明シンポジウム」が開催され、❶民間現場到着第一号の方の貴重な目撃証言、❷この戦闘行為の目的、❸123便の飛行計画、❹123便搭乗者の内訳(日独のドル切下げ反対論者)、❺123便の積載物と現場の核反応、❻事件後に現場に出来た揚水ダムと東電疑惑、❼御巣鷹山事故後に急転直下のプラザ合意(ドル大幅切り下げ)がなされたこと、❽中曽根康弘と瀬島龍三(伊藤忠商事会長)、などが紹介され、結論として、「123便には、核兵器(或いはその燃料)が積載されていた」とされました

 

ところで、現在の中国の発展の背景には、田中内閣以来の経済・技術援助にあるとされていますが、123便が搭載した"荷物"も、最終的には中国に運ぶ予定になっていたとされます。また、1970年の「よど号ハイジャック事件」も、日航機に積載した核爆弾原料を北朝鮮経由で中国に渡す為だったという説もあります。

 

確かにこの時期、白血病で亡くなった女優・夏目雅子らが、人気TV番組「西遊記」の撮影を、核実験が頻繁に行われたゴビ砂漠で長期間にわたり行っていたことからも、中国が原爆開発を最重要課題にしていたことが窺われます。

 

御巣鷹山上空では、米軍と自衛隊が交戦し、米軍はグァムから偵察機も飛ばしていたようですが、日本の核開発に関して、正反対の利害関係を持つ勢力が背景にいたことを物語っているようです。そしてひょっとしたら「3・11(フクシマ)」も、こうした大きな枠組みの中で起きた事件として捉えることが出来るかもしれません。


8)本格的な日中戦争へ

 

ところで、満州国建国については、国際連盟から派遣されたリットン調査団によって、「日本軍の行動は自衛的行為とは言い難く、満州国は地元住民の自発的な意志による独立とは言い難い」と発表します。が、同時に「満州に日本が持つ条約に基づく権益、居住権は尊重されるべきで、

 

居留民の安全を目的とした治外法権はその成果により見直せばよく、日支両国は不可侵条約、通商条約を結ぶべき」としたため、これを受けた日支両国は昭和7年(1933年)5月、「塘沽停戦協定」を締結。列車相互乗入れや郵便事業などを開始して、蒋介石政権は事実上満州国を承認します。

 

 

この結果、日支間の満州問題を決着させた蒋介石は「共産党殲滅作戦」を本格化したため、支那共産党は「長征」と称して辺境の地・延安に後退、兵力も21万人から7万人にまで減少した上、支配地域も陝西省・甘粛省の2省に追い詰められます。

 

そして1936年10月、蒋介石は共産党との決着を付けるべくその根拠地に対する総攻撃を決意、張学良に攻撃を命じますがなかなか攻撃を始めません。このため蒋介石は、督戦するため12月4日に西安を訪れます。しかし、死亡した張作霖と不仲だった張学良は、父と違って日本に対して敵対的でした。

 

 

それどころか裏で共産党と繫がり蒋介石を逮捕・監禁してしまいます。そして、釈放の条件として支那共産党と共に抗日戦線を結成することを合意させます(西安事件)。このため蒋介石(国民党軍)は、日本と戦わざるをを得ない立場に置かされるのです。

 

この事件は、抗日戦線の形成に成功した共産党勢力が、さらに進んで蒋介石と日本とを全面的に武力衝突させ、"漁父の利"を得ようという陰謀だったのです。実際、ソ連およびコミンテルンも、「局地解決を避け、日中の全面的衝突に導かなければならぬ」という指令を発していました。

 

そして、昭和12年(1938年)7月7日、北京郊外の盧溝橋で夜間演習中の日本軍に支那側から不法射撃が浴びせられます(盧溝橋事件)。

 

当時、北京郊外には、日本軍のほかに米国、英国、フランス、イタリアの軍隊が駐屯していました。というのは、1901年の義和団事件で清国軍が在留外国人を襲撃した事件があったことから、「北京議定書」によって各国とも自国民保護のために自国軍を駐屯する権利を認められていたからです。

 

支那共産党は、当初「盧溝橋で最初に発砲したのは日本軍だ」と主張しましたが、戦後になって「7・7事変(盧溝橋事件)」は、劉少奇同志(後の支那国家主席)の指揮する抗日救国学生の一隊が、決死的行動を以て党中央の指令を実行したもの」と公式表明しています。

 

そのため、一時は国民党政府と華北にあった地方政府・冀察政務委員会が日本側と本格的に講和しようとしましたが、支那共産党は7月23日、「第二次宣言」を発して日本提出の講和三条件の拒否を発表、抗日戦争の徹底を国民党政府に改めて強く迫ります。

 

そしてその後、停戦協定が何度結ばれても支那側の発砲で破られ武力衝突が頻発。さらに「通州事件」では民間人である日本人男女223人が惨殺されたことから、戦線不拡大方針だった日本政府もついに増援軍の派遣を決断、支那共産党の思惑通り、日本と蒋介石(国民党政府)は全面戦争に突入します。

 

ちなみに、7月27日におこったこの「通州事件」でも、支那共産党が盧溝橋事件で日本軍と衝突した国民党第29軍と冀東防共自治政府保安隊に張慶餘と張硯田などの抗日分子を浸透させていたことから、中共の謀略である可能性が高いと言われています。

 

 

9)「2・26事件」の背景と陸軍皇道派と統制派

 

ところで、ここで国内に目を転じますと、昭和初期においては海軍の「艦隊派」と「条約派」と似た対立が陸軍内部にも生まれます。これが「皇道派」と「統制派」の対立で、2・26事件等の思想的、力学的背景となります。

 

「皇道派」は「天皇親政」による国家改造を求め、上原勇作などの反長州の流れを汲んで、荒木貞夫や真崎甚三郎をリーダーとして青年将校たちに支持されます。これに対し陸軍省や参謀本部の非長州の幕僚将校たちは「統制派」を形成、軍中央の一元的統制の下に「国家総力戦体制」の構築を目指します。

 

 

皇道派の思想的背景には、戦争の現場で命を賭ける以上、天皇への一体的、絶対的な信仰が必要だとの考えと、また、貧困にあえぐ農村出身の下士官兵などからわき上がる軍閥、政治家、財閥、元老などへの不満があったと言われています。

 

「皇道派」と「統制派」の思想的対立は「天皇機関説問題」に表れます。「天皇機関説」とは、明治憲法下で確立された学説で、統治権は法人たる国家にあり、天皇はその最高機関として内閣等の他の機関からの輔弼(ほひつ)を得ながら統治権を行使するという説で、美濃部達吉らが主張しました。

 

 

これに対し、青年将校ら皇道派は、国家主権たる統治権は天皇にあるとの「天皇主権説」を唱えました。このため、軍の統帥権も天皇に直属し、国事においては軍事が優先されるべきで、予算削減などの他の国家機関からの干渉は受けないと主張します。

 

ただ、天皇機関説においても、現憲法下での国会と同様の国家意思の最高決定権としての主権は天皇にあると考えており、天皇の政治上の権限が否定されているわけではありません。

 

が、こういった天皇さえ憲法の下に拘束されるという「立憲君主制」の考え方は大衆には浸透せず、一連の騒動以後は天皇主権説が有力になり、その論者は「立憲君主制は西洋由来の学説の無批判な受け入れであると断じました(「國體の本義」)。

 

ちなみに、昭和天皇自身は天皇機関説に賛成で、美濃部の排撃で学問の自由が侵害されることを憂いていました。このような「国体明徴運動」に対しては軍部に不信感を持ち、「安心が出來ぬと云ふ事になる」と言っていました(「本庄繁日記」)。また鈴木貫太郎侍従長には次のように話しています。

 

「主權が君主にあるか国家にあるかを論ずるならばまだ事が判るけど、ただ機關説がよいとか悪いとかいう論議をすることは頗る無茶な話である。自分からいえば寧ろそれよりも国家主權の方がよいと思うが、日本の様な君国同一の国ならどうでもよいじゃないか(「西園寺公と政局」)」

 

このような対立の中、昭和11年2月に「2・26事件」が勃発します。磯部浅一元中尉らは、統制派の渡辺教育総監の他に、海軍出身の斎藤実や岡田 啓介、政治家では牧野伸顕、幣原喜重郎、若槻礼次郎、財界では池田成彬(三井)、岩崎小弥太(三菱)、そして英米派の黒幕・西園寺公望を狙います。

 

 

当初は、川島陸相、香椎戒厳司令官らも皇道派だったため決起部隊の行動を認める様な反応をします。が、昭和天皇が「決起部隊は叛乱部隊」としたことで決着。

 

この背景として、昭和天皇はこの時期すでに英米派の西園寺ら"君側の奸"に囲まれ、感化されていたことが考えられます。

 

この結果、「満州以外の支那大陸には戦線を拡大させずに戦力を温存し、北のソ連との決戦に備えるべき」とする皇道派は一掃され、「支那戦線の拡大と、さらに南方資源地帯への進出を図り、米英との戦いも辞さない」とする東條英機ら統制派が実権を握ります。

 

なお、よく「薩長が軍部を支配、主導して日本を戦争に追い込み破滅させた」などという俗説がありますが、以上の経緯を見てわかるように、大東亜戦争当時の軍中枢からは薩長の有力軍閥は一掃されており、中枢を占めていたのは旧佐幕派の"東北、北陸出身者"だったことを附言しておきます。