本項では、「乙巳の変(後の大化の改新)」、「白村江の戦い」、「壬申の乱」という古代日本の重大事件を、各豪族の背景、関係を中心に描き、国史「日本書紀」の信憑性に疑問を投げかけます。

 

1、古代における天皇家と半島の関係 

 

既に述べたように、海洋国家である日本には太古よりシベリアはもとより操船技術によって太平洋、東南アジア、中東等から多くの民族が渡来しています。このため、日本民族の特徴は「海人民族性」にありますが、特に大和朝以降の古代史を語る上では、朝鮮半島との関わりは避けて通れません。

 

まず、「スキタイ系騎馬民族」で古代ユダヤ十支族の秦氏は、秦朝滅亡後、中央アジアに「弓月」という国を作っていました。が、漢による万里の長城造営などの苦役を受けたため、これを逃れるため大和朝の半島国家「任那」の影響下にあった朝鮮半島に移住、「秦(辰)韓」を建てます。

 

 

一方、半島進出を目論む「アーリア系騎馬民族」の漢による脅威に対処するための民族融和工作として、大和朝の孝昭天皇(縄文海人族)は、古代ユダヤ人海部(物部)氏と合族した海人族・安曇氏が作った九州の支国・倭国の姫を「任那」に派遣、秦氏らとの部族間交雑を図ります。

 

その結果生まれたのが、"任那族"の王子「イニエ」で、孝元天皇から息子・開化天皇の第一皇子として迎えられ、崇神天皇として即位します(第一次奉迎工作…落合莞爾)

 

同様に、「スキタイ系騎馬民族(扶余族)」の集結地だった豆満江河口付近の羅津には、孝元天皇の皇子「彦太(ヒコフトニ)」を派遣、同じく縄文海人族とスキタイ系騎馬民族との交雑を図り、その結果生まれたのが"八幡(ヤハタ)族"で、数代後の「ホムダワケ」が応神天皇として迎えられます(第二次奉迎工作)。

 

これらの"奉迎工作"には、スキタイ系騎馬民族の持つ優れた技術を取り入れる一方で、アーリア系騎馬民族に対抗できる海人族を育て「海人族の騎馬民族化」、また、 「カラ族」の子孫であるスキタイ族が各地の河口付近で集めたり、傭兵をやって稼いだ莫大な砂金を譲り受けるという目的もありました(後の"黄金の百合")。

 

なおその後の高句麗の強勢化をきっかけに、百済を朝鮮半島における日本の最後の緩衝国家とすべく、大和朝は"八幡族"ホムダワケ(応神天皇)の数代後の「オホド」を送り「武寧王」としますが、本家大和朝の後継者問題から帰国、「継体天皇」となったことはすでに述べた通りです。

 

 

2、秦氏とは 

 

既に一部紹介した古代ユダヤ十支族の「秦氏」ですが、改めてその事跡と政治的な関わりについて詳述すると、まず、最初に渡来した九州の「豊国秦氏」は、人材確保のため高句麗、新羅、百済から数十万単位の技術者、労働者を呼び、大和朝の財政をテコ入れし掌握、養蚕・紡績の技術も活用して産業振興に貢献し、各地に大型の古墳を造営します。これはまさに昨今話題となっている「外国人材の活用」の先駆的事例と言えます。

 

また、秦氏の一部は山城国へ移住したため、丹波は養蚕や服飾の中心地となります。また、6世紀の「秦河勝」は聖徳太子や蘇我氏と密接になり仏教を推進しました。さらに、山城国に平安京を誘致し、先住の賀茂氏や山城紀氏などとともに上賀茂神社や伏見稲荷社、松尾大社を建立します。

 

ただし、秦氏の中央での政治的影響力は、海人系第二十四代武烈天皇の代に大きく後退、その後は、地方豪族として産業振興に専念し、古代の華僑としての手腕を発揮します。というのは、海人族・橘氏に支援された「彦太尊(ヒコフトニ)」が、第二十五代「継体天皇」となったためです。

 

その後、継体崩御から四代後の欽明天皇の即位に至るまで、朝鮮半島政策を巡って全国的な内乱が続きます。その最大のものが六百四十五年の乙巳の変(後の大化の改新)」で、これを契機に百済色が大和朝廷に浸透、それが天智天皇まで続きます。

 

3、聖徳太子の実像と蘇我氏の謎

 

次に、「乙巳の変」への伏線となる「聖徳太子」と「蘇我氏」の実像に迫ります。

 

日本書記の論理では、「"聖者"聖徳太子が進めようとした律令制等の諸改革に抵抗し、太子の子である山背大兄(やましろのおおえの)王ら一族を殺害した悪人・蘇我一族を滅ぼした中大兄皇子と中臣鎌足こそが古代日本の英雄である」というものです。

 

 

まず、聖徳太子ですが、その実在性を含め、「厩戸(うまやどの)皇子」=「蘇我馬(うま)子」=「キリスト(我、馬小屋で蘇る)」等の奇説もあります。一方、日本書紀には、用明天皇と穴穂部間人皇女(蘇我稲目の孫)との間の子と書かれていますが、推古天皇の子「竹田皇子」という説も有力です。

 

中には、「聖徳太子不存在説」などの邪説もありますが、蘇我馬子が建てた元興寺(飛鳥寺)の「元興寺縁起」にも、「推古天皇は池辺天皇の子・等与刀弥弥大王(聖徳太子)、および蘇我馬子に仏法の興盛を促し…、元興を建てさせた」とあることから実在したことは確実です。

 

ところで、聖徳太子が"聖者"とされた理由は、「律令制」「冠位十二階制」「十七条憲法」「仏教の国教化」「随との国交樹立」等が偉業とされるためです。「律令制」は、各豪族から領地を取り上げ一旦朝廷のものとし、その見返りに「冠位十二階」を授け、「十七条憲法」で天皇を最高の地位に位置づけ、

 

東アジア情勢の不安定化に対応できる強固な國體を作る。一方で、当時、国際教養として広がりつつあった「仏教」の普及を通じて各地の豪族の融和を図りながら、最大の脅威であった「随との国交」を平和裏に樹立することでした。

 

しかし、これらの偉業は聖徳太子自身によって成し遂げられたものではなく、外交は小野妹子、経済は秦河勝、内政は蘇我馬子らによるものです。ただし、明治維新の際の「廃藩置県」に匹敵し、有力豪族の抵抗が強かった「律令制」については未完成のままでした。

 

 

にもかかわらず、日本書紀で聖徳太子の存在が過剰なまでに"カリスマ化"されているのは、「だから太子の一族を滅ぼした蘇我入鹿は悪人で、それを討った中大兄皇子と中臣鎌足は英雄だ」と誘導したい、編纂者の思惑が透けて見えてきます。

 

ちなみに、聖徳太子に関して語るとき、太子の建てた法隆寺の「再建・非再建論争」が有名です。非再建説は、法隆寺の西院伽藍の建物は創建以来一度も火災に遭っておらず、飛鳥時代に聖徳太子の建立したものがそのまま残っているという主張。

 

これに対し再建説は、「日本書紀・天智9年(670年)4月30日条」にある「夜半之後、法隆寺に災けり、一屋も余ること無し」との記述等を根拠にし、さらに哲学者の梅原猛は「聖徳太子一族を滅ぼした藤原氏が、その怨念を恐れて供養のために再建した鎮魂の寺(隠された十字架)」と述べています。

 

しかし、平成十六年に国立奈良文化財研究所は、金堂の屋根裏に使われている木材をデジタルカメラで撮影し、そこから建立年輪年代を測定。それによると、部材が650年代末から669年までの間の伐採で、日本書紀がいう炎上の670年よりも前の伐採だと発表。ここでも日本書紀の矛盾が指摘されました。

 

一方、聖徳太子の子であることが"常識"とされている悲劇の"聖者"山背大兄王ですが、実は、日本書紀を含め太子の子だったという記録はなく、まためぼしい業績も残っておらず、さらに聖徳太子が作った法隆寺にも祀った形跡がなく、果たして日本書紀が持ち上げる程の"聖者”だったのか疑問です。

 

それどころか、「上宮記」「法王帝説」によると、山背大兄王の母は蘇我馬子の娘・「刀自古郎女」とあります。

 

むしろ、蘇我氏は、物部氏と同じ古代ユダヤ十支族である"海人族(出雲族=カラ族)"で、日本書紀の編纂者である藤原一族からは疎ましい一族だったと考えられます。ちなみに、「蘇我」は「宗我」ともいわれ、物部一族の「長宗我部」氏との関係も窺われます。 

 

4、日本を乗っ取る名門一族(?)藤原氏の正体

 

そして、645年、「乙巳の変(大化の改新)」が起こります。日本書紀によると「蘇我入鹿が律令制度導入に抵抗する等、専横を極めたため暗殺された」とされていますが、これは後に日本書紀の編纂に関わった藤原不比等による改ざんの可能性があります。

 

むしろ真実は、混乱が続く国内をまとめ、随(後に唐)などのアーリア系騎馬民族の脅威に対抗できる強固な國體を作るために、聖徳太子と蘇我馬子、秦河勝らが進めていた「十七条憲法制定」「律令制の導入」などの大改革に抵抗したのは中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)の方だったという見方もあります。

 

また、当時の日本と唐の国力比から言って勝ち目のない、したがって日本国を重大な危機に陥れる危険があった「白村江」に、"百済救援"という名目で、現代の人口比でいえば約200〜300万人にも上るという大軍を送ることを天智天皇に執拗に迫ったのは中臣鎌足でした。

 

 

実は、その背景には鎌足の出自にまつわる謎があります。まず、唐・新羅の圧迫を受け、崩壊した百済の君臣は囚われの身になりました。が、鬼室福信という武将が百済王家を復興しようと立ち上がり、660年9月に使者を立て、救援とともに「人質として日本に居た百済王子・豊章(ほうしょう)を召喚し王にしたい」との要請をします。

 

豊章は帰国して百済王になりますが、人気の高かった鬼室福信を嫌い謀反の疑いで殺害。知将を失った百済は白村江の戦いで大敗、日本の大軍に守られていた豊章は「行方知れず」とされています。一方、天智天皇の側近である鎌足についてのこの時期の記述が、日本書記から完全に欠落しています。

 

 

このようなことを考えると、中臣(藤原)鎌足の出自についてはかなり怪しいものがあり、鎌足は"百済王・豊章"だったのではないかとの説が説得力を帯びてくるのです。

 

ところで、鎌足が称した「中臣姓」ですが、中臣本宗家は、古代の日本において忌部氏とともに神事・祭祀をつかさどった海人系豪族でした。が、物部氏とともに仏教受容問題で蘇我氏と対立したために没落、白川家が神祇伯を世襲するようになると歴史の舞台から消滅しました。

 

また、中大兄皇子と異母兄弟だったが、蘇我入鹿によって皇太子になった古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)は、鎌足によって入鹿が殺されるのを見て自邸に逃げ帰ったときに、「韓人(からびと)が入鹿を殺した。私は心が痛む」と漏らしたとの記録があります。「韓人」とは「朝鮮半島地方の人」という意味があります。

 

 

さらに、鎌足は「乙巳の変」などの一連の改革の最大功労者であるにも拘らず、臨時職である「内臣(うちつおみ)」になったただけで、内大臣、左大臣という高位に就けず、不比等についても律令制の完成者と言われながら、最高位の左大臣にはなれませんでした。これは「国籍条項」があったためと言われています。

 

一時は、「壬申の乱」によって陰に追いやられ、鳴りを潜めていたた藤原氏でしたが、天武天皇の崩御後、不比等が復活します。そして、あれだけ抵抗していた律令制などの諸改革に対する姿勢も変え、「大宝律令」を発する等して完成させます。

 

が、諸改革を実質的に成功させたのは天武天皇であり、流れに敏な不比等はその後「律令」の解釈権を独占。例えば、「皇后」の資格についても明確な規定がなかったため、それまでの「皇族から選ぶ」という慣習を無視して自家から輩出、"天皇家への浸透"を進めました。

 

そしてその後、天武天皇系の「長屋王」、藤原氏に抵抗した聖武天皇の子「安積親王」を暗殺、藤原一族による横暴に危機感を抱き改革を進めていた「菅原道真」の追い落としなど、藤原一族は海人族の復権を阻止しながら朝廷内での絶対的な支配権を確立します。

 

以上の経緯に鑑みるとき、日本の"名門一族"と称される一方で、巧に権力を掌握した狡猾な藤原一族は"百済人"であった可能性が見えてきます。なお、後年、藤原氏の末裔・近衛文麿(戦前のスパイ事件・ゾルゲ事件の中心人物)は、昭和天皇と会話するとき足を組んで椅子に座っていたといいます。

 

5、民衆から非難されていた天智天皇(中大兄皇子)

 

最後に、中臣鎌足が担いだ「中大兄皇子」について考察しますと、実は「白村江の戦い」の前後、中大兄皇子に対する民衆の不満は頂点に達していたようです。

 

当時の斉明天皇(女帝)は、飛鳥周辺で大規模な土木工事を開始。飛鳥の天香具山の西側から石上山(いそのかみやま)に至る長い水路を掘り、舟二百艘を使って石上山の石を積んで、宮の東の山に石垣を構築します。が、当時の実権は、すでに中大兄皇子と中臣鎌足に移っていました。

 

中大兄皇子が飛鳥の東側に巨大な石垣を造ったのはもっぱら軍事目的で、それは中大兄皇子、中臣鎌足が目論む百済遠征中に飛鳥で不穏な事態が生じたときのための布石にほかなりませんでした。 

 

民衆が不満を抱いたのも、中大兄皇子、中臣鎌足が進める"百済救援策”を無謀と判断していたからで、そのため、遷都や大土木工事も反発を招き、民衆は各地で暴徒と化したと言われています。

 

6、天武天皇と対立していた中臣鎌足

 

加えて、「壬申の乱」の前後には、中臣鎌足と「大海人皇子(後の天武天皇)」との間にも確執があり、当時、天智天皇自身も、皇位を弟の大海人皇子ではなく、自分の子の大友皇子に譲りたいと思っていました。そして、鎌足も大海人皇子の即位を阻止するために暗躍していたようです。

 

実際、漢詩集「懐風藻」によると、来日していた唐の劉徳高が夢を見て、大友皇子が皇位を継承しようとすると、邪魔者が横取りしてしまったと鎌足に話すと鎌足は、「天道親なし、ただ善をのみこれ輔(たす)く」といい、皇子が徳を修める限り、皇位はかならず転がり込むと、大友皇子を持ち上げています。

 

そして、ここにいう邪魔者が大海人皇子であることからすると、鎌足が大海人皇子の廃太子を願っていたと考えることできます。鎌足は壬申の乱の直前に亡くなりますが、その子・藤原不比等も、父にならって大友皇子側についたため、敗戦の憂き目にあいます。

 

事実、藤原不比等は天武天皇在位中は、まったく日の目を見ず、歴史に登場するのは天武天皇崩御後のことです。この間、不比等は朝廷から干されていた可能性が高く、とするならば、不比等が天武朝を美化するような歴史書・日本書紀の編纂をおもしろく思っていたはずはありません。

 

逆に、天武天皇の存在を抹殺しようと企んだ疑いさえあり、日本書紀のなかで天武天皇の前半生がまったく空白なのはそのためだとも言われています。

 

7、「壬申の乱」へ

 

ともあれ、「乙巳の変(大化の改新)」により主導権を握った天智天皇は白村江へ派兵しますが大敗、日本は重大な危機に直面します。この事態を憂慮した尾張氏、県犬養氏、安曇氏ら"縄文海人族"は「大海人皇子」を立て「壬申の乱」を起こします。

 

その結果、東国方面の海人勢力に支援された大海人皇子が勝利、天智天皇派と中臣派(後の北朝皇統を形成)から主導権を取り戻し、東アジア情勢の不安定化に対応できる強力な"海人族中心"の天武政権を樹立します。

 

 

大海人皇子は「天武天皇」として即位(後の南朝皇統を形成)、「古事記」を編纂させて国家神道を立てます。ただ、教義の根本を"天孫史観(騎馬民族史観)"に置いたのは、身内同様の海部氏の海部神道とニギハヤヒの物部神道を基本にしつつも、他方で残存の天智系騎馬民族派との融和も図ったからと考えられます。

 

海人政権が復活した天武天皇以後、称徳天皇までが海人族の時代でした。が、天智の孫の白壁王が皇位を継ぎ、その後、文武、聖武王朝などで百済色が復活し て海人勢力の後退が明らかになります。この間、かつて朝廷に影響力を持った秦氏に代わって藤原氏が再び暗躍し始めます。

 

8、日本書紀は”偽書"?

 

 

54、以上見てきたところからすると、日本書紀の内容には疑問が持たれます。正式な国史書となると、時の権力を掌握する者にとって執政の有力な武器となります。実際、洋の東西を問わず、時の権力者が自らに都合良く編纂、改ざんするのが世の常です。

 

例えば、「白山菊理(ククリ)姫」は、大和王朝の三代前の「白山王朝」の祖神ですが、「古事記」にはいっさい登場せず、また「日本書紀」でも、伊奘諾(イザナギ)が黄泉の国で見てはならない伊邪那美(イザナミ)の姿を見て揉めた時、菊理媛が伊奘諾に言葉をかけて収める話に僅かに現われるだけです。

 

日本書紀の編纂者にとっては都合の悪い存在、あるいは夫婦喧嘩を仲裁してしまうぐらいの上位の神だったのではないかと推測される所以です。

 

この他、平清盛の時代に、常陸国から「第三次修正日本書紀」という勧学院派の九世紀のものが多賀城にあったと献納にきた者がいました。が、それば藤原氏を"天孫族"とし、唐や朝鮮からの大陸人を"良"とし、それ以外は"賎"としていたため清盛は激怒、

 

 

58、その者を斬首にした上で書き直し、「天(あま)とは、古代アラブの水の意味で、大船団で熊野に入ってきた平家一門こそ、天の一門なり」とさせて、第三次日本書紀を焚書した事は、兵庫県西宮の荒深道太郎氏が「綜合古事記純正講本」で発表しています。

 

さらに、この清盛によって改められた第四次日本書紀は、「壇の浦合戦」で安徳天皇の御座船にあったのを梶原源太が入手して北条政子に奉ったところ、旧平家でも新平家でなく、紀元前から漂着していた古平家の系統にある政子が、改めて「古平家日本書紀」として大江広元に編纂させましたが、「元寇」の際、異国を刺激する危険性があるとして焚書されました。

 

結論として、「日本書紀」は幾度となく時の権力者によって内容が改変されたことが窺われ、例えば、「大化の"改新"」と称して、蘇我入鹿を倒した天智天皇、中臣(藤原)鎌足を英雄扱いし、他方で「壬申の"乱"」と称して、天武天皇を大きくは扱っていないなど、真実を歪曲した”偽書"である可能性が出てきます。