1、世界の元つ国日本

 

 

①真の日本史を知るには世界最古の哲学書「カタカムナ文献」や世界最古歴史書「竹内文書」等の古史古伝が必要です。カタカムナ文献で語る世界が「潜像界(目に見えない世界)」とすると竹内文書で語る世界は「現象界(目に見える世界)」で

 

宇宙は二つの世界で成り立っています。また、神道では、日本列島は上向き下向き二匹の「龍」が重なり合った形をしているとします。また台湾まで入れると、世界の五大陸が凝縮された形になっているとも言います(陰陽五行)。つまり、日本は世界の"元つ国"であり、ひな形なのです。

 

 

ツインドラゴン

 

また、創建1万5千年の熊本県・幣立神宮の「日文石板」は、炭素測定の結果約20〜30万年前のものとされ、そこには「大量の糸の原料となる真麻欄を採取し、それから取った細い糸を紡いで衣料を整え、強い兵士を大量に育成せよ。そうすれば敵は彼方に退散する」となるとされています。  

 

幣立神宮

ひふみ石板

 

更に、全国約800カ所からは阿比留草文字、出雲文字、秀真文字、守恒文字、アイヌ文字等約54種類のペトログラフ(岩絵文字)が発見されています。注目すべきは海外で見つかったペトログラフが絵画中心なのに対し、日本のものは文字が中心である点です。

 

一方、これらペトログラフからはムー文明の記憶が見られます。まず下関市彦島や角島、北九州にある沖の島、出雲の日ノ御碕沖等に与那国島海底遺跡と類似する神殿跡やペトログラフがあることから西日本を中心にムーの生き残り「メネフネ族(先住日本人の海人族)」がいたことが推測されます。

 

与那国島海底遺跡

 

2、神代文字の世界的伝播

 

ところで、「竹内文書」「宮下文書」「九鬼文書」等によると、太古の昔、天から天之御中主大神が降臨して国を開き世界を統治し、また日本人から黄人、白人、黒人、赤人(ユダヤ人)、青人(スカンジナビア人)ら世界の「五色人種」が分かれたとされています。 

 

 

五色人種

 

実際、スイスの考古学者デニケンが、エクアドルの古代地下都市跡で日本の縄文土器と「アンデスの黄金版」を発見、これを出雲文字で解読した結果、「マヤやインカ文明を作ったのは、日本の古代海洋民である」と公表しています。

 

一方、インド、エジプト、南米、アフリカなどの古代遺跡で日本の神代文字を発見している日本学術探検協会の高橋良典氏によると、豊国文字とハングルの類似性から「古代朝鮮も日本と同じ文字を使用しており、少なくとも約6000年以前から日本にあった豊国文字を参考にして作った」と指摘しています。 

 

神代文字

 

さらに、約2000年前に書かれた中国の「契丹古伝」によると、「漢字以前の文字を天字といい天字以前をト字、ト字というのは殷字であり、殷は元これ倭国(日本)」とあります。

 

ちなみに、「アジア」とは、古日本語の「アジナ」が訛ったもので、「アジナ」とは"分家"を意味し、当時、ユーラシア最大の領土を占めた支那(シナ)を意識していたものと言われています。

 

なお、本稿では中国の呼称を「支那」としますが、これは、はじめての統一王朝を作った「秦(しん)」に由来し、英語のChina(チャイナ)に相当する正式な呼称だと判断したからです。

 

また、インドでも、インダス文明の遺跡モヘンジョダロにある仏塔の刻印をトヨクニ文字で読むと「ユニコーンカムイ(ユニコーン神)」と読め、"象の洞窟"の入り口付近でも「阿比留草文字」と豊国文字を発見、風化が激しい中「……マツラバヤ(祭らばや)」と。

 

㉑さらに、キリストが日本で習得し故国に持ち帰ったのが「イスキリ文字」、釈迦が持ち帰ったのが「梵字」そして「サンスクリット語」となり、これらがローマ字になったといわれています。

 

3、大和先行王朝と神武以前の古天皇

 

㉒そして先述のペトログラフや古史古伝によると、大和朝と神武天皇以前にも先行王朝やスメラミコト(古天皇)がいたことが記されています。これを神々と王朝、天皇の関係で整理すると、

 

"元無極躰主(母止津和太良世)"に始まる「造化準備時代」、"天津身光"に始まる「造化時代」、"天之御中主"に始まる「修理個成時代(白山王朝)」、"国常立"に始まる「万国統治時代(富士王朝)」、"饒速日命"に始まる「鵜芽葺不合朝」、"天照"に始まる「神倭(大和)朝」となります。 

 

竹内文書1

 

㉔但し、スメラミコトが「天皇」と記されているのは、初代・天之御中主天皇、高木天皇(高御産巣日神)、天地明玉主照天皇、国之常立男天皇、大斗能地王天皇、大綱手彦天皇、弥広殿造天皇、造化氣万男身光天皇、富金足中置天皇、神心伝物部建天皇、伊邪那岐天皇、天疎日向津比売天皇などです。

 

㉕ちなみにスメラミコトはシュメール語で「シュメールの王」、即ちスサダミコ(スサノオ)を意味します。また「スサノオ」の息子が「饒速日命(ニギハヤヒ)」、義理の息子(末娘の夫)が「大国主」、そして妻が九州の地方豪族「倭国(安曇氏)」の「卑弥呼(後の天照)」となります。

 

㉖まず神々が降臨し天皇として姿を現した修理固成時代の「白山王朝」ですが竹内文書などによると、国名を「天之越根中津国」といい、富山県婦負郡久郷村御皇城山に歴代の皇祖皇大神宮が置かれていたそうです。スメラミコトのスメラは「皇」ですが、「白」と「王」からなっています。

 

㉗そこでは、おびただしい神代資料が発見され、とくに酒井勝軍によって発見、翻訳された神足別豊耡天皇からモーゼに与えられたという表裏二つの「モーゼの十戒石」の写し石は刮目すべきです。裏十戒石には、宗教、国家、人種を越え、天下万民が遵守すべき律法が書かれています。  

 

モーゼの十戒石

 

㉘ちなみに、聖書では、モーゼはシナイ山で十戒を授かったといわれていますが、竹内文書では、アカバ湾から船に乗って来日し、皇祖皇大神宮で41日間修行をし、石川県の宝達山で天皇から十戒を賜り帰国、ユダヤ民衆に与えたとあります。つまり、ユダヤ教の発祥地は日本の「高天原」ということです。

 

㉙次に、豊後国の大守だった大伴能直が「山窩(サンカ)」の伝承を記録した「上記(うえつふみ)」によると、「鵜芽葺不合王朝の第二十五代、二十六代天皇は、皇子たちを世界に派遣し文字を伝えた。富金足中置天皇は一万五千四百八十五年前に、四百六十年間に渡って治世した」と有り、 

 

山窩

 

㉚これらは大分県国東半島で発見された巨石上のペトログラフ豊国文字にも記録されています。また秦の始皇帝が不死の薬を求めて日本に派遣した物部系古代ユダヤ人徐福が富士山麓で書き残した「宮下文書」をもとに三輪義煕が編纂した「神皇記」によると、

 

㉛神武以前に先行王朝が三つあり、初めは富士山麓にあった「富士高天原王朝」で、「大陸から九州方面に大軍が押し寄せて来たため、附地見島(九州)に海佐知毘古を元帥として送り、海軍を編成、王朝も阿蘇切枝間に移し千五百日目に全島の鎮圧を完了した(阿蘇豊国王朝)」とあります。

 

4、緩やかな連合国家「鵜芽葺不合王朝」

 

㉜その後、近畿地方で長髄彦(ナガスネヒコ)が反乱を起こしたため日高佐野王が海路から久真野に上陸、湯野崎水門近くの二高の宮を行宮として賊軍を討ち、大和国橿原宮で即位、鵜芽葺不合王朝が始まったと記述されています。  

 

㉝が、この点に関して「記紀」によると長髄彦と戦ったのは磐余彦(神武天皇…神倭朝=大和朝)であり、一方、神皇記のいう「日高佐野王」は"日高"とあることから「富士王朝」ないし「日高見王朝」の天皇である可能性が高く、また日高佐野王=神武天皇とすると、不合王朝初代天皇となって矛盾します。 

 

㉞そこで、「白山王朝」→「富士王朝」→「不合王朝」→「神倭朝(大和朝)」という流れから考えると、富士山の爆発で阿祖山大神宮(富士王朝)は一旦崩壊した後、関東に都を移し「日高見王朝(後の東日本"日之本王朝")」を建てたと考えられます。    

 

㉟実際、他の文書によると「不合朝」傘下には、北から「荒覇覇吐国」「日高国」「蔵王国」「飛騨国」「熊野国」「吉備国」「出雲国」「不弥 国」「投馬国」「伊都国」「奴国」「熊襲国」などがあり、緩やかな連合体を形成していたが、最終的に「神倭(大和)朝」に統一されたとされています。 

 

古代の諸王朝地図

 

㊱だとすれば、次に問題となるのは、「神倭朝」の前の「不合王朝」の中心はどのような部族だったか、という点です。結論から言えば、島嶼国である日本人の50%を占める海人族(海洋民族"港川原人")を中心にしたものだったのではないか、ということです。  

 

㊲勿論、その後も他民族の流入があったので日本人のルーツは、1)南アジア(4万5千年前)、2)南西諸島(3万5千年前)、3)シベリア(2万年前)、4)華南、南西諸島(7千年前)、5)華北、蒙古、半島、シベリア(2千年前)となります。

 

5、太古の歴史とユダヤ人の出戻り 

 

(前回からの続き…)㊳太古の歴史を紐解くとノアの大洪水などの地殻変動で人々の大移動が行われたようです。この事は竹内文書等の古史古伝の他に聖書、ギルガメシュ叙述詩、マハーバラータにも記されています

㊴更に地球が氷河期に入ったことで、食糧難に喘ぐ日本列島に居住していた原初日本人の多くは、食料を求めて世界各地に移動して行ったと推測されます。例えば、太平洋を海流に乗って島伝いに東に移動したのが「クル族」、ユーラシア大陸を西に進んだのが「カラ族」です。 

 

日本人の移動のイラスト

 

㊵実際、日本人が東に移動した痕跡が見つかっています。日本ペトログラフ協会の吉田信啓氏によると、熊本県芦北地方には「曽畑式水人がいて、約6500年前、北海道から沖縄に至るまで生活の痕跡を残しており、さらにベーリング海を渡って北米にも生活圏を拡大した可能性が高いと指摘しています。  

 

㊶この説は米国ブロンスウィック大学のレ・クイナー教授も唱えており「アメリカインディアンが日本人と同じ習俗、語彙、顔を持つ事から彼らの多くは太平洋の西からきたモンゴロイド海洋民族である」と主張。これには、スミソニアン博物館やハワイ大学等も同様の見解を発表しています。

 

㊷一方ユーラシア大陸を西に移動した「カラ族」は、現在のエジプトやパレスチナにまで達しました。当時のユーラシアの真ん中にはカスピ海のような大海があり、また現在の華中、華南地域はほとんど湿地帯で、華北以北も寒冷地化していたため定住に適しさなかったと考えられます。 

 

㊸が、西ヨーロッパを起点に東へ展開してきた「アーリア人(アトランティスの生き残り)」が勢力を増してカラ族と衝突、カラ族はメソポタミア(シュメール)、インダスと東に移動して最終的には日本を拠点にした「東大国(ティルムン)」を作ったことが中国の古文書「契丹古伝」に記されています。 

 

アーリア人のイラスト

 

㊹ともあれ、カラ族が最後に到達したのが”故郷"日本で、この中には物部氏(山窩…サンカ)、海部氏(海窩)、安部(安倍)氏、忌部氏、斎部氏、乙部氏、綾部氏、卜部氏、蘇我氏、秦(羽田、羽田野、畑中)氏らユダヤ十支族も含まれていました。つまり、彼らの渡来は日本への"出戻り”だったのです。  

㊺彼らの帰国は縄文から弥生、古墳時代にかけてさみだれ式に行われます。が、大きくわけて大陸方面を南下してきた「前期出戻り組」の物部氏(山渡人)、ペルシャ、南アジア、東南アジアを海伝いにやってきた海部氏(海渡人)らと、「後期出戻り組」の蘇我氏、秦氏の二つに整理できます

 

秦氏の移動のイラスト

 

㊻このうち「前期出戻り組」は「日本列島居残り先住民」の海人族(安曇氏)やアイヌ族(阿蘇部)とは穏やかに合流を果たしたようです。理由は「聖櫃アーク」や伊勢神宮、熱田神宮に保管されている「三種の神器」と対の関係の「ユダヤ三種の神器」が同族の証として示されたからです。 

 

㊼なお、古代日本と古代ユダヤとの関係を示す傍証としては、例えば、仁徳天皇陵等の古墳は、古代ユダヤ三種の神器の「マナの壺」の形をしており、丸い部分が女性性、角い部分が男性性を表し、両者で男女という"二元性の融合"を表していると言われています。 

 

㊽また伊雑の宮にはキリストの罪状板が安置され、さらに伊勢神宮の内宮の下ではキリストの血が付いた「聖十字架」も発見されています。伊勢神宮で先祖代々宮大工をしている人の話では、西宮市に「萬谷」という明治天皇の御落胤がいて、知人(中野学校出身特務将校)と共に神殿に入って確認したそうです 

 

㊾そのほか、エルサレム宮殿の門には「十六菊花紋」が、一方、青森県の三内丸山遺跡からは「六芒星(ダビデの星)」が、同じく青森県新郷村(旧戸来村…ヘブライ村)にはキリストの墓があります。

 

㊿遺伝子的にも日本人の45%に見られ、中韓人には見られない「Y染色体ハブロD系遺伝子」は、世界に分散した古代ユダヤ10支族とその末裔のチベット人や中南米のインディオなどに見られるE系統と同類であることが証明されており、とすれば大和先行王朝だった鵜芽葺不合朝の中心部族は物部系だった 

 

 Y染色体 

 

6、ピラミッドは日本が発祥地

 

フランスの考古学者・ヴァレン博士はピラミッドを研究、興味深い見解を発表しています。「この建造物は地球上の大聖者が他の進化した天体の神々と交信するための場、つまり、地球よりも遥かに進歩した神人と、

 

人類を救済するために地球に降臨した天孫族をつなぐ神殿である」。さらに、東方に向かって座するスフィンクスの左足の下を掘り下げ、石碑を発見。そこには「光は東方より来る。東方の一小国より、全人類の滅亡を救う大救世主が現れる」との記された碑文を発見,解読しました。 

 

ちなみに、竹内文書でも、「3月16日、吉備津根本国に詔す。大綱手彦(鵜芽葺不合王朝12代弥広殿作天皇(イヤヒロトノツクリ)の叔父)、天皇霊廟、亦名メシア、日の神、月の神、造主神、日来神宮」とあるが、この「日来神宮」が世界最古のピラミッドを指すとされています。 

 

そして日本のピラミッド研究者である酒井勝軍によると、実際、青森の黒又山、岩手の五葉山、富山の尖山、長野の皆神山、京都の日室ヶ獄、徳島の剣山など、聖地とされる兵庫県の八幡山を中心に16等分、つまり、16菊花紋の角度で分割された方向にピラミッドが存在しています。 

 

また、同じく竹内文書によると「上古第二代・造化氣万男身光(つくりのしきよろずおみひかる)天皇の時、15人の息子と1人の皇女を16の国に遣わし、日本を中心にした16放射の形を作って定め、天皇の十六菊花紋とした」とあります。 

 

十六菊花紋のイラスト

 

「十六菊花紋」は、バビロンのイシュタル門、スペインのアルハンブラ宮殿、アッシリアのニムルド遺跡の石像、古代エジプトのラムセス二世の妻の胸像、プスセンネス一世とツタンカーメン王のサンダル、アフリカ西部ペナンの古代石板、マヤ遺跡の石像、エルサレムの嘆きの壁などにも刻まれています。 

 

7、関東日之本王朝

 

①先回「磐余彦(神武天皇)」と長髄彦が大和で戦ったと述べましたが、「記紀(古事記・日本書紀)」によると長髄彦は戦いに強く神武の三人の兄を倒した後、「饒速日(ニギハヤヒ)」の裏切りで殺されたとされていますが、饒速日は物部氏の祖神であり、実在性は低いと考えられます  

 

その後も長髄彦尊は生き続け、大和国(邪馬台国)を放棄した後「日高見国」に移り、関東を拠点にした「日本王朝」を成立させます。「日本」とは、日の出に近い場所、つまり関東地方を意味しており、埼玉古墳群では「三種の神器」が発見されています。

 

日本王朝

 

また、支那の唐代の古文書「旧唐書」によると、「倭国と日本国は別の国」とあり、当時、日本には「倭国(大和朝)」とは別の王朝があったことを記しています。

 

ただその後、「和田家文書(東日流外三郡誌)」によると、「日之本王国」は内部分裂から大和朝の分断工作と侵攻を受け、一部は大和朝の傘下に(内物部)、長髄彦らは東北地方、さらには津軽地方に逃れ、「荒覇覇吐王国」に合流、後の「安倍(安東)王国」の土台を作ります(外物部)。 

 

ここにいう「安倍(安東)王国」は、その後も続いた大和朝との戦いの末の懐柔策として授けられた「安倍」姓が元になっており、最終的には安倍一族の一部は大和朝廷の中にも入り、安倍晴明、そして肥前国(水軍松浦党)、長門国へと落ちた安倍季任(安倍総理の祖先)に至ります。  

 

埼玉博物館にある「三種の神器」の写真。

 

8、神武天皇と聖徳太子に関する仮説

 

⑦一方、こちらも謎の多い神武天皇についてですが、神武天皇はモーゼ、聖徳太子(厩戸皇子…うまやどのおうじ)はイエス・キリストという奇説があります。前述したように青森県の戸来(ヘライ)村にはキリストと弟イスキリの墓が現存しています 

 

   

   

キリストの墓写真

 

竹内文書によると、キリストは18歳のとき来日、皇祖皇太神宮の神主・武雄心親王から5年間、歴史や天文学、神業などを学び、狭野尊天日嗣天皇から「向こうで死んではならぬぞよ」との命を受けエルサレムに戻りました。が、迫害に会い再び来日、百十八歳まで生きたと書かれています。   

 

一方、モーゼですが、神武天皇の正式名称は「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラミコト」ですが、ヘブライ語では「カム・ヤマトウ・イブリ・ベコ・シュメロン・マクト」と発音し、意味は十支族の一つのエフライム族の王=サマリアの王です。  

 

またヘブライ語の「モー・シェ」はエジプト語では反対に読み「セ・モー」→「ゼ・モー」「ジ・ムー(ムー人)」「ジンム」と転訛したものと、イスラエルのユダヤ民族研究家ヨセフ・アイデルバーグ博士やアビグドール・シャハン博士が指摘しています モーゼは日本に帰国し理想の国づくりを目指しました。このためモーゼは物部系でしたがつつがなく先住海人族と合流、天孫族(蘇我氏、秦氏)が中心になった大和朝においても"共通の偉人"として尊崇の対象になったと考えられます。支那共産党と国民党の双方から崇められる孫文のような位置づけです。 

 

ちなみに、釈迦は、皇祖皇大神宮で天之越根尊より指導を受け、インドに戻り仏教を説いたが、52歳で涅槃に入るとみせて日本に再度来日、天寿を全うしたといいます。釈迦の墓は青森県の梵珠山にあり、実際、古くから不思議な発光現象の目撃談が伝わっています。  

 

9、欠史八代と秦氏

 

第二代綏靖天皇から第九代開化天皇までのいわゆる「欠史八代」については、物部系海人族による政権が続いており、後に主流を占める「騎馬民族秦氏系北朝皇統」からは"都合が悪い"として詳細を封印されたものと推測されます。

 

この物部系海人族による政権の中心は「出雲系」と「邪馬台系」でしたが(不合朝?)、記紀によると「国譲り」によって「大和王朝」として平和的に統合されます。が、後に古代ユダヤ教の"牛の生贄"を神事とした物部氏は、後から帰国した殺生を禁じる仏教を重視する「蘇我氏」と対立、抗争になります

 

その結果、物部氏は破れ一部は各地に離散、「山窩(サンカ)」となり田布施などに隠れ住みました(外物部)。同和地区に精肉業や皮革製品業が多い所以です。一方、一部は大和朝廷内で残り(内物部)海人族大海人皇子(天武天皇)が勝利した壬申の乱で復権、後の「海人系南朝皇統」の始まりとなります  
 

なお、大海人皇子(天武天皇)が海人族だったという事実は、「壬申の乱」の際、拠点だった吉野で海人族(熊野族)から黄金での資金援助を受け、伊勢、尾張、美濃などへ迂回しながら東国から軍勢を集めたこと、天武天皇以降、正式な国名を「日本」にしたこと等から窺えます。  

 

天武天皇

 

一方、秦氏ですが、日本では第15代応神天皇のとき、最後の古代ユダヤ十支族として渡来(帰国)します。この秦氏は「騎馬民族説」の発端となった一族ですが、秦始皇帝の末裔と言われているスキタイ+アーリア系の古代ユダヤ人で、秦朝滅亡後は現在のウイグル近辺に「弓月」と言う国を作っていました。 

 

が、朝鮮の「好太王碑碑文」によると、漢から万里の長城造営などの苦役を強いられたため朝鮮半島に逃れ「秦韓」を建国。が、その後,大和朝による半島で の"奉迎工作"で派遣された孝元天皇の皇子・彦太尊などの縄文海人族と民族的に交雑、数代後のホムダワケが「応神天皇」として迎えられます。 

 

応神天皇

 

この時、ホムダワケは100万人から150万人を率いて来日(帰国)、養蚕、治水などの高度な技術をもたらすなど、我国のインフラ整備等に大いに貢献しました。が、その勢力拡大の一方で、先行渡来していた蘇我、物部系先住日本人との間で覇権争いが起こり、

 

秦氏系の中大兄皇子(天智天皇)と藤原氏(中臣鎌足)による蘇我氏追い落としが行われます(乙巳の変=大化の改新)。ちなみに、藤原氏ですが、そのルーツは朝鮮半島(騎馬民族系)という説があります(中臣鎌足=百済王・豊章説)が、詳細は別項で述べます。  

 

日本語とヘブライ語の類似性イラスト

 

「君が代」のヘブライ語による翻訳。クムガヨワ=立ち上がれ、テヨニ=シオンの民、ヤチヨニ=神に選ばれし者。サッサリード=喜べ、人類を救う民として。イワオトナリタ=神の予言が成就する、コカノムシュマッテ=全地で語り、鳴り響け。http://www.youtube.com/watch?v=hMlZygKsCgQ#t=13 

 

かごめ唄のヘブライ語訳;カグメ(誰が護るのか)カグノエナカノトリー(固く閉ざされたものを出せ)イツイディユゥー(箱に安置された神器を取り出せ)ヤーアカパニシティ(代わりにお守りを作った)ツルカメスーベシタ(荒野に水を引き)ウーシラショーメンダラ(その土地を統治せよ) 

 

さくら唄のヘブライ語訳;さくらさくらやよいのそらは(神は隠れてしまった。唯一の神が迫害を受け耐え忍んで)みわたすかぎりかすみかくもか(生け贄となり、取り上げられた)においぞいずる(すばらしい神の計画である)いざやいざや(神の救い)みにいかん(捧げ物が成就した)   

 

10、二元性原理に貫かれた日本史(前回から続き)①以上、日本の古代史は大きく「海人族系(居残り先住民)」と「騎馬民族系(出戻り日本人)」の対立構造になっています。この構造は壬申の乱を経て平清盛と藤原家の抗争、源平合戦、南北朝対立、さらには時代を経た明治維新の真相にも繋がっています

   

天智天皇と天武天皇イラスト

 

例えば奥州、蝦夷に逃げて生き残り、"奥州・琉球連合"で頼朝への対抗を画策した源義経。鎌倉幕府以降、騎馬系天皇(北朝)が主導権を握った後に起こった南北朝の動乱と、その中で生き残り" 裏天皇"になった海人系南朝・大塔宮・護良親王。

 

 

キリシタン信長を討ち果たした後、家康の側近・ 南光坊天海となった明智光秀。明治天皇(護良親王の末裔で長州・大室寅之祐)の擁立で果たされた南朝皇統の復活。廃藩置県で失業、不満を抱えた旧武士団を歴史から消すのに一役買い、ロシアに亡命した西郷隆盛等は南朝系です。

 

南光坊天海イラスト

 

「真方衆(まがたしゅう)」という諜報機関(九州八咫烏)のトップだった西郷隆盛の本当の写真

 

④この中の「義経伝説」についてですが、定説によると、沖縄の歴史は、1429年に琉球の豪族であった尚巴志が王朝を築いたことに始まるとされています。が、実は、その200年以上前に、源氏が作っていたという説があります。

 

日本本土では、平安時代末期の1156年に「保元の乱」が起こり、源頼朝、義経の父・義朝と、その弟の為朝が対立し、破れた源氏一の豪傑・源為朝は伊豆大島に流罪になりました。が、為朝は大島から船で一か八かの脱出を図り、黒潮の逆方向の海流に乗り、なんと琉球に辿り着いたのでした。 

 

1650年に編纂された琉球王国の正史「中山世鑑」によると、琉球の初代王は「舜天」といいますが、この「舜天」は"源為朝"の子供であると書かれています。また、鎌倉幕府が建てた京都・建仁寺の文献にも、源為朝が琉球に渡り、建国の主となったと記述されています。  

 

源為朝の琉球上陸の碑

 

源氏がその圧倒的な強さで琉球を統一できたのは、戦において棒や石を使うのが一般的だった当時の琉球で、鉄製の武器を持っていたからです。ちなみに、船戦に強い平家が海人族なのに対し源氏が騎馬戦に強いのは、源新羅三郎義光の名にもみられるように騎馬民族だからといわれています。

 

 

更に驚くべきことには、為朝の背後には、同じく頼朝と対立していた源義経がいたということです。どういうことかというと、当時、奥州では、頼朝に追われた義経がいったん蝦夷(北海道)に逃れ、その後、アイヌの財力、武力をもって、打倒頼朝で動いていたからです。  

 

定説によると、義経は頼朝に追われ、奥州藤原氏とともに討たれたことになっています。が、実は蝦夷に逃れ、同じく奥州にいた為朝の子・為頼が仲立ちすることで、連携を図っていました。奥州と琉球の交流を示す証拠として、平泉・中尊寺の金色堂には夜光貝が使われています。 

 

為朝は琉球の力を背景に南から、義経はアイヌの力を背景に北から鎌倉幕府を挟撃しようと謀ります。この流れは南北朝時代に引き継がれ、鎌倉北朝に対し義経の末裔と琉球は平家の残党とともに南朝に味方。が、その後これが原因で北朝側の島津氏に睨まれその支配下に置かれることとなります

 

 

 

参照:「世界文明の起源は日本だった(上森三郎)」「超古代、最先端文明は日本だった(吉田信啓)」「日本とユダヤ運命の遺伝子(久保有政)」「日本、日本民族の起源(小谷部全一郎)」「キリストは日本で死んだ(山根キク)」「謎の竹内文書(佐治芳彦)」「謎の九神文書(佐治芳彦)」「超真相・東日流外三郡誌(佐治芳彦)」「富士王朝の謎と宮下文書(伊集院卿)」「日本教の聖者・西郷隆盛と天皇制社会主義(落合莞爾)」「天皇とワンワールド(落合莞爾)」等。