巨星墜つ-
 
超新星爆発で生まれた素粒子「ニュートリノ」を世界で初めて観測し、2002年にノーベル物理学賞を受賞された小柴昌俊先生が12日、亡くなられました。
 

地下1000mの深さに、3000トンもの純水をたたえ巨大な水槽を設置し、約1000個の光センサーを取り付けて素粒子をキャッチしよう。

 

そんな気宇壮大な実験装置「カミオカンデ」を自ら考案し、実際に建造してみようと思う、その“発想”がまずは桁外れですが、当時35000万円もの巨費がかかり各所から反対に次ぐ反対の嵐に晒されながらも結局は実現させてしまう、その卓抜した行動力、交渉力、パワー、エネルギーもまさに桁外れで、あらゆる面で破格の研究者でした。

 

 

レジリエンスの人》

 

小柴先生は旧制中学時代、ポリオ(小児まひ)にかかりその後遺症のため、幼い頃からの夢であった軍人か音楽家になるという道を諦めざるをえませんでした。

 

そんな小柴少年の病床を見舞ったのは、担任だった金子英夫先生。先生から贈られたアインシュタインとインフェルトによる『物理学はいかに創られたか』という本をきっかけに、研究の道を志すことになります。

 

病気が回復すると旧制一高(現在の東京大学教養学部)に進学しますが、職業軍人であった父が敗戦後に中国で捕虜となってしまったため家計を支えねばならず、家庭教師に加え米軍の荷揚げ作業や帳簿付けなどありとあらゆるアルバイトをしながら勉学を続けました。

 

逆境とも言える試練に幾度となく見舞われながらその都度跳ね返し,力に変えることで培われた不屈の人間力。

 

「カミオカンデ」の観測で、その力は遺憾なく発揮され、遂に花を咲かせます。

 

当初、カミオカンデはニュートリノではなく「陽子崩壊」の観測を目的に建造されましたが、4年近くあらゆる手を尽くしても、その現象を捉えることはできませんでした。

 

しかし、小柴先生は慌てることはありませんでした。

 

なぜなら、カミオカンデの実験開始から僅か数ヶ月しか経たない1983年、既に先生はニュートリノも観測できるように装置の改造を提案していたのです。

 

提案後に準備と改造工事を数年かけて行い、1987年の初頭から新たな観測が始まった直後の2月、大マゼラン星雲で383年ぶりの超新星爆発が起こり、これまでとは桁外れの大量のニュートリノが地球に降り注いだのです!

 

しかも、それは小柴先生が東京大学を退官するわずか1か月前。

 

「一念天に通ず」とはまさにこのことですが、世界で初めてニュートリノを観測した功績により、小柴先生はノーベル物理学賞を贈られます。

 

全ての逆境を跳ね返し“逆転満塁ホームラン”の如きノーベル賞を手にされた小柴先生に、「コロナという試練に人類はどう立ち向かうべきか」お話を是非 伺いたかったと、今、心からそう思います。

 

 

《後進を育てる達人》

 

偉大な研究者であった小柴先生は、「後進を育てる達人」でもありました。

 

2003年にはノーベル賞の賞金などをもとに「平成基礎科学財団」を設立。

 

「すべての国民が一人年間1円をわが国の基礎科学に」というスローガンを 打ち出し、多くの地方自治体に人口に相当する金額(例えば人口50万人なら50万円)を財団に寄付してもらうという画期的な呼びかけを行いました。

 

活動内容としては、基礎科学を理解してもらうため第一線の研究者らが講師となる「楽しむ科学教室」を全国各地で開催するとともに、理科教育に卓抜した 業績をあげた教育者や活動団体を対象に「小柴昌俊科学教育賞」を授与しました。

 

また物理学者を対象として、病のため亡くなったお弟子さんたちの名前を冠し「折戸周治賞」と「戸塚洋二賞」を創設し授与しました。

 

ノーベル賞受賞が決まった際も、「これからの夢は教え子がノーベル賞をもらうことかな」と記者会見で語り、その言葉通り、師弟関係にある梶田隆章 東京大学宇宙線研究所長が、ニュートリノ振動の発見で15年にノーベル賞を受賞されました。

 

 

 

そんな梶田先生にお会いするため、千葉県・柏市にある宇宙線研究所を訪ねた時のこと、小柴研究室から譲り受けたという木製の大机に出会いました。

 

置かれていたのは、研究所長室。

 

ただこの所長室、謙虚な梶田先生のお人柄そのままに、巨大な宇宙線研究所のトップの居室にしては驚くほど手狭で、ドアを開けるとドーンとその大机が部屋の半分を占めている、というような印象でした。

 

この机をはさんで梶田先生と面会させていただいたわけですが、机というよりはとびきり厚い一枚の“板”といった風体で、実に無骨で飾り気のない印象は、豪放磊落な小柴先生そのものでした。

 

梶田先生とお話しをしながら、チラチラ机の表面に目を落とすと、そこには無数の走り書きや数式、そして傷跡が刻まれています。

 

あぁ、きっとこの机の周りに小柴先生を囲んで、研究者たちが侃侃諤諤・自由闊達に日夜議論を闘わせていたんだろなぁ、と在りし日の熱気が剥き出しの 木肌から立ち上って来るようでした。

 

(世界で通用する研究者になるためには)自ら考えて解決策を模索する“能動的認識能力”こそが大きくものを言う

 

偉い先生が言うから、それに従うなんてのは、僕はおかしいと思う。自分がこうあるべきだと思うことをやらなきゃ

 

いずれも小柴先生の言葉です。

 

作新学院の教育方針の第一に掲げる「自学自習」とも重なるこれらの名言は、読み返すたび胸が熱くなります。

 

 

《志は引き継がれて》

 

小柴先生の「平成基礎科学財団」は残念ながら2017年に財政難と運営者の高齢化などのため活動を終えてしまいましたが、先生が台湾のノーベル化学賞受賞者である李遠哲先生と始められた「アジアサイエンスキャンプ」は今も活動を続けています。

 

このプログラムは、ノーベル賞受賞者や世界のトップレベルの研究者による講演、講演者がリードするディスカッションセッションなどにより、アジアからの参加学生が科学の面白さを体験し、学生同士の交流を深める場です。

 

ただ、今、日本では国から大学への研究投資が削減されたことにより、世界水準と認定された「卓越」研究者ですら若手は定職につけないため、研究力の源泉である博士号取得者がここ10年で13%も減少しています。

 

世界トップクラスの研究レベルを誇る梶田先生の研究室でも、大学院生の多くが既に外国人で、しかも日本ではポストがないので残りたくても研究室には残れないと、他国に流出してしまうとのことでした。

 

日本の研究力自体も海外諸国と比較し、ほぼすべての分野のほとんどの指標で低下し、かつての「科学技術立国・日本」は深い淵に沈みかけています。

 

最大の課題は、「基礎研究の興隆」と「若手研究者の育成」。

 

しかし政府は相変わらず、すぐに役に立ちそうな(つまり稼げそうな)研究分野に集中投資を繰り返し、イノベーションという実をつけるはずの木々を自ら枯らし、木を育てるべき土壌を細らせ続けています。

 

英科学誌『ネイチャー』も98日付の論説で、「科学研究から経済成長に必要なイノベーションを搾り取ろうとしたが、明確な成功はなかった」と、約7年半に亘る安倍政権の科学政策を統括しました。

 

「イノベーションは、収奪するものではなく、育てるもの」ということを、なぜ政府が理解してくれないのか、頭を抱えます。

 

ただ、そんな政府を嘆いていても、現状は何も変えられません。

 

人類がコロナという試練を与えられ、自分たちの生き方を大自然から問いただされている今、

 

私たちを取り巻く自然の姿は、究めれば究めるほど奥が深く、常に新たな発見と可能性の連続。その素晴らしさと醍醐味を一人でも多くの日本の若者に体感させたい。

 

という小柴先生の遺志を、すべての日本人が受け継いで行かねばと、強く強くそう思います。