~映画・「父ちゃんのポーが聞える」~ | 自炊・電子書籍化応援ブログ

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 小学校の頃、僕ら世代(現50歳代)は何度か学校内にある講堂や体育館で映画鑑賞会を経験したことはないでしょうか!?。
「学校で映画が観れるぅ~」、「午後は授業がないぞぉ~…なんて感じでとぉ~っても嬉しかったことを憶えています。
(不謹慎な発言!、平にご容赦下さいませぇ~~~~~~~~~~

そんな映画鑑賞会の中でも特に印象に残っている1本があります。
タイトルは「父ちゃんのポーが聞える」で、主演が今は亡き名優・小林桂樹さんと当時のアイドル的俳優・吉沢京子さんでした。
なんせ小学校の時に観た映画なので記憶だけで細部まで書くのは無理があるため、チョコっとネットで調べましたぁ~(ご、ごめんなさい

【ストーリーの概要】
蒸気機関車の運転手を務める杉本隆
(小林桂樹さん)は再婚した妻・初江(司葉子)、長女・恵子(森るみ子)、次女・則子(吉沢京子)の四人で慎ましくも平和な暮らしを営んでいました。
そんな日常の中、次女の則子はなぜかよく転び、余りにも生傷が絶えないことを心配した父・隆は自分が勤める国鉄の鉄道病院に則子を連れていきます。診察の結果、偏平足が原因によるバランス不均衡ということで隆も則子もひと安心するのですが…………
ところがその後、則子の体は少しずつ手足の自由が効かなくなり認知機能までも低下、ついには学校の勉強にもついていけなくなります。則子の異常に父の隆と妻・初江は則子を市民病院に連れていきます。……診断の結果、則子は病院内にある肢体不自由児の治療と教育が受けられる‘こまどり学園‘に移ることになります。
…これまで普通の生活を送ってきた則子には突然の学園生活がとてもショックに思え彼女の明るさは影を潜めてしまいます。
そんな沈みがちな日々を送る則子を父・隆は度々訪問し励まします。やがて父の励ましに支えられ則子は少しずつ明るさを取り戻していきます。それに加え絵の指導に来るようになった青年・道夫
(佐々木勝彦)の訪問も彼女に元気をあたえるのです。
…しかしそんな則子の病状は日増しに悪化していたのです。この頃になると則子の病名ははっきりし、治療方法が確立していない難病・
ハンチントン舞踊病(現在も不治の病)であることが分かります。……その結果、則子は重症患者として人里離れた越山療養所への転院を余儀なくされるのです。
越山療養所の病室に一人横たわる則子、訪問に来た父・隆は則子に線香花火を見せ元気づけようとします。しかし花火はかえって心に寂しさを溢れさせ、則子は「家に帰りたい!」と泣き叫ぶのでした。隆は必死の思いで則子を説き伏せ、自分が機関車を走らせる時は療養所下を通る度、汽笛で合図を送るよと約束するのです
病室に動かない体で汽笛を待つ則子、やがて隆の機関車から「ポーッ!ポーッ!」と送られる則子への挨拶、「あっ!父ちゃんのポーだ!!」…言葉すら発することができなくなっていた則子は心の中で叫ぶのでした。
……………そんな隆の機関車にトラックが衝突!!……………
病院で気がついた隆に妻・初江から届けられた知らせは、一人さびしく亡くなった則子の訃報でした。

僕が記憶していたのは主人公の少女が重い病に侵されつつも、機関車の運転手だった父の愛情に励まされ、その命が終わる瞬間まで必死で生きていたということ……また最後の場面で彼女が父の鳴らす汽笛に声も出せずに涙を流すシーン、さらにその後すぐに彼女をひどい苦痛が襲い、苦しみにながらナース・コールのスイッチを探す彼女の手……でもその手がスイッチに届くことはなく、彼女はこの世去ってしまう…………
小学だった僕には本当に衝撃的なラストでした。僕も、クラスのみんなも、いや映画を見ていた全員がおそらく涙を流していたと思います。
…それとずっと後になってから知ったことですが、この映画の原作は実在の人物の闘病手記をまとめたものであり、本当にあった話しだと知った時には更に心が痛みました。

主人公が患っていた病・
ハンチントン舞踊病(今日ではハンチントン病と呼ぶ)は総じて手足の運動機能に障害をきたし、精神症状・認知機能障害を引き起こします。若年層ほど進行は早く5~6年で寝たきりになる症例も報告されているようです。……今もって治療方法が確立されていないため不治の病と言っても過言ではないと思いますし、世界から日本から、不治の病は多く存在し僕たちが知らない病気も無数にあるようです。

……僕は「父ちゃんのポーが聞える」を思い出す度に現在も難病で苦しむ人達、また難病なのに認定すらしてもらえず大変な思いをされている人達のことを思い出さずにはいられません。