先日から、フジテレビで昼間、名探偵(名刑事?)『古畑任三郎』の放送開始30周年記念の再放送がされている。

(これは、どうも地上波の関東ローカルの放送らしくて、今後、関西その他、全国各地での放送がされるかどうかは、あまり把握できていない。)

 

 

 

もっとも、その後、気が付いたのだが、CS放送の『日本映画専門チャンネル』でも同じ内容が放送されているようだ(私の場合、ケーブルテレビでまとめて、このチャンネルも契約しているので、こちらも見ることができた。別の内容かと思って楽しみにしていたら、まるで重複していたので、がっかりした。)

 

古畑任三郎というのは、田村正和主演、三谷幸喜脚本による倒叙型?のミステリーだ。

倒叙型というのは、最初から『犯人』がわかっているというスタイルのミステリーである。

(はっきり覚えていないが)昔、放送されていた『刑事コロンボ』というドラマも倒叙型だったような気がする。

 

 

古畑任三郎は、田村正和の癖のある(というか、わざと癖=スタイルを練り上げたのだろうが)演技が面白くて人気があった。

30年前に放送が開始され(最初は、テレビの連続ドラマシリーズとして)、その後、たびたび、『第?シリーズ』の作品が放送されたが、田村正和さん自身が、1921年4月に満77歳で亡くなられたので、その後の『新作製作』は不可能となってしまった。

 

2008年6月に放送された『古畑中学生』(古畑の中学生時代のエピソードをとりあげたもの)が最終作品らしいが、これはやや特別の作品らしい(見た記憶があまりないが…。)

 

普通の『古畑任三郎』ものでいうと、松嶋菜々子さんをゲスト(犯人でもある)とする2006年1月放送の『ラスト・ダンス』(42作品目)というのが、それこそ犯罪者が、輝いて見えることの多い古畑ものの(愛すべき)犯罪者の『ラスト・ダンス』であったようだ。

 

私は、『刑事コロンボ』も好きだったし、また『古畑任三郎もの』もよく見ていたという記憶がある。

ただし、放送されていた当時、生活面でいろいろ忙しかったもので、見ていなかった回も非常に多かった。

初期のころは、割合見ていたような気がするが、正直、こんなに長い間、このシリーズが続いていたこともあまり意識していなかった。

 

今回、(これまでだけで既に、10本以上、見ていると思うが)いくつか感慨を覚えた。

 

第一に、(これは、渥美清にとっての『寅さんシリーズ』に似ていたのかもしれないが)同じ役を演じ続け、そのため、イメージが固定化されてしまうことに対して、田村正和自身には『嫌悪』したり、『恐怖』したりするという感情もあったのではなかろうか。

 

第二に、やはり、時代性の制約ということもあったのだと思う。

今回、ドラマ放送の際に、(はっきりとは書いてないが)『原作者の意図』などを考慮して、そのまま当時、放送されたものをそのまま流すというような『言い訳』めいたことが書かれていた。

 

これは、(今年のドラマでいろいろ話題とされた)『不適切にもほどがある』にも共通するが、『放送禁止用語』とか『表現』など、『時代が変わると基準が変わってしまうこと』がいろいろあるためだろう。

 

 

今回の『古畑任三郎』でそのような表現がこれまで出てきたかどうか、はっきり覚えていないが、(私が、よく京橋の『国立映画アーカイブ』に見に出掛ける)古い日本映画では、『き××い』とか『き××いじみた』という表現がしばしば出てくる。

 

しかも、それは、いわゆる『紳士淑女』役の俳優の口から飛び出すのである。

(ご本人たちは、『悪い言葉』を使っているとは、全く思っていない。)

 

『古畑任三郎』で、こういう直接的な『不適切用語』がどの程度、出てきたか、よく覚えていないが、『不適切な設定』はたびたび登場する。

 

例えば、第35話(1999年6月1日放送)に『頭でっかちの殺人(放送時のタイトルは、完全すぎた殺人』という回がある。

 

これは、上記のようなストーリーであるが、主人公(犯人)は(企業に勤務する)化学研究員であるが、学生時代に事故のために、車椅子生活を送るようになったために、(その後、性格がねじれて?)学生時代からの『親友』と『自分の恋人』との間の仲を疑い、彼らをともに破滅させるために、爆弾を仕掛けてしまう人物という設定になっている。

 

これなどは、『電動車椅子』を操って、(表面的には)生き生きと活躍している主人公(福山雅治さんが演じている)を犯人であると設定することで、今となってみると、『身体障碍者』に対する偏見と差別に依拠した作品、という風に見えなくもない。

 

(もっとも、私は、とりたてて、この作品に対して『非難』を投げかける気はないが、ある意味では、ドラマ、特に犯罪ドラマとか、場合によっては、お笑い作品には、常にこのような『隠された問題点』がなくもないような気もしてくる。)

 

特に、この作品の特徴的な点は、恐らく、三谷幸喜氏が、ある種の『当て書き』(その役を誰が演じるかということを念頭に入れて、その役者の癖とか、特徴、イメージとかを含みこんで、キャラクター設定をしている)という点にあるのだろうと思う。

 

というのは、福山雅治という役者には、(私だけかもしれないが)どこか『格好をつけているのではないか』『本人は、全く異なる性格なのに、偽善的に良い人を演じているのではないのか』というイメージが付きまとう部分がある。

 

もっとも、ご本人もそれを(重々)承知しているようで、(わざと?)『偽善者』の役を引き受けていることが結構、あるようだ(こういうのを見ると、ご本人は、本当は、ものすごく『いい人なのかもしれない?』という気すらしてくる)。

 

このような『仕掛け』をいろいろ平気で設定できるのが、三谷幸喜氏の『強み?』『厚かましさ?』なのであろう。

 

なお、この『古畑任三郎』、最後に全部の謎の『謎解き』をやるわけでもなく、一番、犯人が『痛いと感じるところ』の矛盾をつくだけで終わるというパターンになっている。

 

そのため、私など、『これで、果たして全部の謎解きができているのだろうか?』と疑問に思うことも多々あるのだが、そんなことをいちいち、いうのは『野暮な奴』ということになってしまうのかもしれない。

 

それから、50近くを数える作品群のなかで、意外と同じネタというか、似たようなシチュエーションを使いまわしている作品が、あることも眼についた。

(もちろん、常に『売れっ子脚本家』であり続けた、三谷幸喜氏であったから、そうでもしないと自分自身がダウンしてしまいかねない、そのような『窮地?』もたびたびあったのかもしれないとも想像する。)