『今頃なんだ』と思われてしまうかもしれないが、昨日(6月12日)、ムービル横浜という横浜駅の近くにある(かなり古い)映画館で、『ゴジラ-1.0』(マイナス ワン、あるいは、マイナス一点ゼロと読むのが普通らしい)をようやく見ることができた。

 

(さすがに、古い映画館であることもあってか、映画館のそのスクリーンの入りは、1割~2割程度といった感じで、ひどくガラガラしていた。もっとも映画の画面の質自体は、そこが『映画の哀しさ』なのかもしれないが、特に問題はなかった。)

 

(ここは、かなり古い映画館である。まあ、そこで見ることが出来たので、文句はないが…。

しかも、ここには、これまでも来たことがあったことを徐々に思い出していた。)

 

この映画は、昨年の11月3日に公開のTOHOスタジオとROBOTの共同制作による日本映画である。

 

戦後間もない日本を舞台に描かれた、山崎貴氏によるVFX・脚本・監督による日本映画で、第96回アカデミー賞(3月10日、授賞式で発表)において、邦画・アジア映画史上初の『視覚効果賞』受賞ということで話題になった。

 

また、その直前(3月8日発表)の『第47回日本アカデミー賞』でも(本場のアカデミー賞における『旋風』を期待してのことなのだろうが)、『最優秀作品賞』をはじめとして、『脚本賞(山崎貴氏)』『助演女優賞(安藤サクラさん)』『撮影賞(柴崎幸三氏)』『照明賞(上田なりゆき氏)』『美術賞(上條安里氏)』『録音賞(竹内久史氏)』『編集賞(宮島竜治氏)』など8部門で『最優秀賞』を獲得した。

 

『監督賞(山崎貴氏』『主演男優賞(神木隆之介さん)』『主演女優賞(浜辺美波さん)』『音楽賞(佐藤直紀氏』など4部門では、『優秀賞』を獲得するなど、『日本アカデミー賞の授賞式』は、『ゴジラの進撃の日』だったといってもさしつかえないだろう。

 

私は、これまでこの映画を見ていなかったので、自分自身の評価を下すのを控えていたが、昨日、初めて見て(正直言って)やや『拍子抜け』した印象を感じてしまった。

 

なぜなら、(ここから先、『ネタバレ』的なことを書くので、『知りたくない』

という人は、ここで読むのをやめてほしいと思う!!!)

もっとも、細かな筋は書かないが、それでも、大体どんな感じの映画なのかがわかるようなことは記したい。

 

この映画を、『一体、どういう筋の展開なのだろうか?』全くわからずに見ていたのだが、『主役の神木隆之介は、(『命を守れ』そして『無事に、帰って来い』と言った母親?の教えを守って)、一度は『特攻攻撃に志願した身』という立場であるにもかかわらず、航空機の機体の『不調』を意識的に訴えて、『命を永らえることのできた、ある種の<死にぞこない>的な存在』であった。

(どこか、百田尚樹の小説『永遠の0(ゼロ)』を思わせる部分のある『キャラクター設定』ではある。)

 

そのような『元特攻隊員』が、戦後再び勃発した『ゴジラとの闘い』において、どのように身を処するかが、『注目の的』であるような映画だった。

(人によっては、『時代錯誤』的な映画だと思う人もいるかもしれない。)

 

ところが、この映画は、さかんに行われていた『予告編の上映』とか、断片的な情報の放出によって、(大方の人が予想していた?かもしれない)『映画のエンディング』とは全く異なっていた。

ずばり書いてしまうと(神木隆之介は)決して『特攻死』するわけではないのである。

 

たしか、このゴジラの唯一の『弱点』は、自分の体内からの攻撃に対しては、『弱いらしい』→『恐らく、神木隆之介は、意図的に機体ごと、ゴジラの体内に飛び込み、その内部で爆発を引き起こすことで、<ゴジラの死>を導き出すのであろう』という風に予想されていたから、これは大きな驚き?であった。

 

しかも、ゴジラが、最初に銀座の近くまでやってきたときに、『路面電車に乗っていたらしい』(浜辺美波さん演じる、神木=敷島浩一=の恋人)大石典子は、ゴジラの攻撃によって、『死亡したらしい』ということになっていたから、彼女が、全身、ケガをしていたらしかったが、最後に『命は無事で病院に入院している』ことがわかったときは、驚きであった。

 

つまり、この映画は、一応は、『ハッピーエンド』で終わっているのである。

(もっとも、ここで『一応』と断っているのは、映画の最後で、『ゴジラ』は死んだのではなく、ゴジラの細胞の一部が、深海のなかで『自己再生を図ろうとしているらしい』様子が映し出されていた。

つまり、『ゴジラは不死身』であり、何年かすれば、再び復活して、『暴れまわりだしそうな様子』が暗示されていた。

 

さらに、大石典子=浜辺美波=の首筋には、放射能による発症とも思われる『あざのようなもの』が映し出されており、今後、彼女が『白血病』等で倒れるという『哀しい未来』を予想させるものとして、画面に刻まれていた。)

 

注 この辺の記述に関しては、コメント欄で『みんけんひでさん』が詳しい注をつけてくださっている。

率直に言って、私は、『ゴジラ映画の経緯とか、情報』に関しては、素人のレベルなもので、それは素直に今後の『勉強の対象』とさせていただきたい、と思っている。

(詳しくは、コメント欄を見ていただきたい。)

 

しかし、このような『ハッピーエンドにならない未来』を暗示していたが、とりあえずは、、何となく『騙された』という印象の残る映画展開であった。

 

そもそも、この映画が(本場『アカデミー賞』の視覚効果部門賞を受賞した時)、なぜか、この映画は、映画『オッペンハイマー』とある種の『対をなす映画』であるかのような語り方が、日本のなかではされていた。

 

そしてたしかに、山崎貴監督自身が、映画『ゴジラ-1.0』が、『オッペンハイマー』で描かれた(ただし、その地上での惨事については、暗示的にしか表現されていなかった)広島と長崎への原爆投下に対する、(日本人の映画人の側からの)『返答のメッセージ』としての意味を込めたというようなことも、発言していたと記憶している。

 

私自身、こういった発言(必ずしも『アカデミー賞』=日本とアメリカの双方での=の授賞式以外の場でも、ネットの記事や、山崎監督の表現として)『自分としては、映画オッペンハイマーで投げつけられた問題提起』に対する回答として、新しい『ゴジラ映画』を作り続けていく、というような主張を口にしていたと記憶する。

 

だが、この映画の筋の展開、ある意味で意外な感じを受ける『ドンデン返し?』によって、さらに妙な感じをかみしめている。

この映画は、一体、何を主張しているのだろうか?

 

そもそも、この映画では、(1954年?のビキニ環礁における)第五福竜丸の被曝事件や、乗組員らの(放射能の後遺症による)死などの発生する前に、つまり、広島や長崎における原爆投下、それに向けた核兵器の製造過程や原爆投下実験において既に、『ゴジラが誕生』したことになっていた。

(これまでの『ゴジラ映画』では、どちらかというと、『日本において、広島や長崎の悲劇』が忘れ去られ、また、新たに『水爆の投下実験』などまで行われている状況のなかで、それに対する『異議申し立て』として、ゴジラは誕生し、暴れ始めたというような印象を受けていた。)

 

もし、ゴジラの出自来歴を、そうではないものとして描き出すというのであれば、それは『丁寧な説明』が必要なのではなかろうか、という気がしている。

 

また、『日本アカデミー賞』の授賞式においても、安藤サクラさんが、最優秀主演女優賞と最優秀助演女優賞の『W受賞』をしてしまって、本人自身が『びっくりしている』という印象を(授賞式の様子をテレビ等で見ながら)感じていた。

 

だが、今回、初めてこの映画を見ると、そもそも(安藤サクラさんの演じる)大田澄子という人の映画の中での役割というのは、極めて限られもののようである。

(あるいは映画の編集過程で、カットされたせりふとかシーンなどあったのかもしれないが…。また、私自身、昨日は、かなり『寝不足の状態』でこの映画を見ていたので、あるいは、『聞き逃し』たり、『とらえきれなかったストーリー展開』の部分もあったのかもしれない。

そういう意味では、本来、この映画は、もう一度、見直しても良さそうな気もしているが…。)

 

でも(やっぱり)彼女が『W受賞』したのは、ある意味では(本場『アカデミー賞』の授賞式に向けて)この映画を勢いづけるために、『ある種の演出』あるいは『アピールの手段』として行われたものに過ぎなかったのではなかろうか?というような気すらしてしまった。

(もちろん、彼女は、映画『怪物』などその他出演した映画で、十分、賞の受賞に値する演技を見せてくれていたのかもしれないが…。しかし、この映画の太田澄子役で『最優秀助演女優賞』も受賞というのは、ちょっとサービスが過ぎるのではないか?という気がした。

これは、かえって安藤サクラさんにとって、『重荷=負担』となりそうな予感もする。

ありがた迷惑な話なのかもしれない。

 

この辺が、常に『業界に対して内向き感覚の漂う』ことの多い、『日本アカデミー賞』の弱点なのかもしれない。)