今日は、『小説』のネタで書いてみる。

 

なお、この記事には、『横道世之介』のネタバレ部分を含んでいます。それを知りたくない人は、読むのをやめてください。注意!注意!注意!

 

もっとも、この小説では、第二章に相当する部分(『五月 ゴールデンウィーク』の後半)で既に、それを暗示する記述がされています。

(かなり、こった筋立てで、途中から登場人物たちのその後=何十年後かの=展開などが少しずつ織り込まれたりしていて、ある意味ではドラマ『不適切にもほどがある』にも似て、タイムトラベル的な感覚を味わえるようになっている。)

 

これが、この小説(文春文庫)のカバー、その他の情報である。

 

 

この著者の経歴でも、ある程度わかるが、吉田修一は、少し作家としては経歴が変わっている。

写真を見ても、精悍で若々しい顔つきであり、多くの作家たちとは違って、身体を動かしたり、身体を健康に保つことに対するこだわりが感じられる。

 

横道世之介という作品に、自分自身の青春の一部が投影されているとすると、そこで身体を動かすことの喜びが(世之介の恋人となる、祥子とか)登場人物でスポーツを好む女性たちが多いことでもうかがえる。

 

また、吉田さんの経歴のなかで、スイミングスクールのインストラクターをしていたとあることも、他の作家ではあまりないことだし、その他、精神と肉体を統一してとらえようとするような記述が作品のなかでも

見られる。

 

私自身は、最近、『ゴールデン・ウイーク』などというものがあったせいもあって(というか、75歳で仕事もしていないもので、もともと『毎日が休日・祝日』状態なのだが…、それがよりヒドイことになって)昼と夜とがひっくり返ったような生活をしている。

 

一昨日くらいから読み始めて(というのは、他に『小説』とか『小説以外のもの』で読み続けているものもあるため)、ようやく先ほど、読み終えたのがこの『横道世之介』である。

 

この『横道世之介』というのは、作家・吉田修一さんが、2008年から2009年にかけて『毎日新聞』に連載した『新聞小説』である。

 

後に単行本が、ヒットして(当時、まだ第三回目に過ぎなかった)『書店員が選ぶベストセラー』の『本屋大賞』(第三位)を受賞して、さらに売り上げを伸ばしたようだ。

2013年には、映画化され、2月23日から全国公開された(という)。

 

私は、(このころ、つまり、2008年~2012年春くらいまでは中国に住んでいたりしたので、どうもはっきり覚えていないのだが)どこかでこの小説を読んで、そのときは、(どういう筋の展開か全く知らなずに読み始めたもので)かなり強い印象を受けた。映画を見たのか、見なかったのか、どうもその辺もはっきりしない。

 

この小説は、一般読者に対しても強い印象を与えたようで、吉田修一氏は、この小説の続篇と続々篇その後、書いている。

(たしか、『続編』のほうも、読んだようなおぼろげな記憶がある。ただし、『横道世之介』のなかで、既に、彼がどのような死に方をしたのかが明らかにされていたので、『続篇』『続々篇』のほうは、かなり苦労してまとめられたのではなかったかと思う。

 

ネタバレ注意

ネタバレ注意

 

ここで、『ネタバレ』ついでに書いてしまうと、2001年1月26日に、山手線新大久保駅で乗客転落事故が発生し、プラットフォームから線路内に転落した泥酔客(とネット記事には記述されている)を救出しようとして、日本人カメラマンと韓国人留学生が線路に飛び込んだが、3人とも死亡してしまった。

 

この『横道世之介』では、『日本人カメラマン』が(その後の)『横道世之介』であったという設定になっており、また、韓国人留学生も、世之介の『友達の友達』で事故に巻き込まれた(というよりも、『転落した乗客を助けようとして、飛び込んだが、残念ながら、救出が間に合わなかった』ポジティブな若者たちとして描かれている。

 

私が、この本を(もう一度)読んだのは、最近、(名古屋市内に住んでいる)孫娘二人が大学と高校にそろって進学したのだが、特に上のほうが、『志望していた大学』に入学できたのだが、『知り合い』とか『友達』とかがまだ出来ていないし、(まるで、いわゆる)『五月病』みたいなものにかかってしまったようで、(少しまたはかなり)『憂鬱』そうなメッセージを4月段階で発していた。

 

それで、この孫娘を励ますには、どうしたらいいかななどと思っていたのだが、この本のことを思い出して、今回、自分自身でも読みなおしたくなってしまった、そういう流れである。

 

というのは、この小説では、(マンモス)大学(どうやら吉田氏自身が入学した、法政大学をモデルにしているようだ)に入学して、そこで右往左往する若者たちの青春群像が、ここには描かれている。

 

ただし、入学したての学生たちが、同棲したり、あるいは『女子学生』のほうが、早々と妊娠してしまって、結局は、学生の夫婦ともども、『中途退学してしまうというようなストーリー展開』の小説を紹介するのは、さすがにまずいだろうという気がして、その後、『この本を孫娘に薦める』などということは一切、考えていない。

 

それだけでなく、『横道世之介』という主人公の名前自体、井原西鶴の『好色一代男』の主人公と同じらしくて、『理想の生き方を追い求めた男の名前からとったもの』であり、主人公も中学時代から、定年退職間近の『稲爺』と呼ばれる助平そうな、国語教師からさんざん(遊女、遊郭の説明から始まって)エロ講義を延々と展開されて、あげくの果てに(もちろん、小説の中のことではあるが)『クラス委員の女子が抗議し、男子は喝采』するという、まさに、最近のテレビドラマ『不適切にもほどがある…』以上の修羅場が、展開されているのだから、恐れ入る。

 

(同じ『毎日新聞』であっても、2008年や2009年には、こうした新聞小説の連載ができたということなのかもしれない。

もっとも、この小説、同性愛志向の登場人物も出てくるが、『横道世之介』のほうは、一切、そうしたことを気にしない、『差別しない』という先進性?というか、多様性の持ち主でもあるのだが…。)

 

この『横道世之介』という作品は、その後、『続篇』『続々篇』が書かれたように、読者たちには非常に愛されているようだし、また読者の年齢層もかなり広いみたいだ。

 

さらに、『映画』の方も、(見たのかどうか記憶していなくて、多分、『見ていないのではないのか』という気がしているのだが)そのキャストなどを見ると、『いかにも面白そうだ』という印象もうける。

 

そこで、『孫娘に云々』というのは、いちおう、『一切、考えない』ことにして、今回、これを読み直した次第である。

 

 

案の定、面白くて、まるで自分自身の『若いころ』の右往左往のありさまを読んでいる思いもする。

 

ただし、『横道世之介』がなんだかんだ言いながら、『結局、女性たちにも男性たちにも強い印象を残していて、プチ・ヒーロー的な活躍をしてしまう』のは、『やはり、小説ならでは…』という気もする。そこは、爽快感を感じさせる書き方になっている。

 

あたかも、『現代版・ぼっちゃん』というか『現代版・三四郎』という印象がある。

(いろんなタイプの『マドンナ』あるいは『ミステリアスな女』が出てくるし…。)

 

もちろん、この『爽快感』こそが、『横道世之介』が愛され、また、吉田修一という作家が、今や、『映画化』『ドラマ化』される作品が非常に多い作家になっているその『秘訣』なのだろうけど…。

 

それに、爽快感だけでなく、『複雑なストーリー展開』、群像劇あるいは集団を描く巧みさといったことも、吉田氏の『得意技』なのであろう。

(もっとも、最近の『映画化』あるいは『ドラマ化』される作品においては、もっとヤバく、身を滅ぼし、また周囲をも滅ぼすような『悪』をも描いているのかもしれないが…。あまり見ていないので何とも言えない。その後、思い出してみたら、結構、この人の小説とかそれが元になった映画とかドラマを、既に見ていたことに気が付きつつある。)