この記事の続きだ。

 

 

ともかく、初回の面談でもって、司馬遼太郎と李登輝の二人は打ち解けたようだった。

これは、(1993年?の)二月に初めて会ったらしいが、その後、四月の初めに再び、司馬は台湾を訪れ、李登輝と面会している。

 

この時には、李登輝は、(司馬が知らない)東海岸の山地を歩いて、(司馬が会いたがっている)山地人のところを『案内する』とまで言ったらしい。

 

『李登輝さん、あなたは大統領なんだから』と司馬はなだめたという。

(李登輝に案内されたのでは、向こうが見せたいものしか見られない、という気持ちも司馬にはあったようだ。この辺は、いかにも司馬らしい。)

 

これに対して、李登輝は、<『山地へゆくったって、歴史知らないじゃないか』

『知っているよ』とも言えず、ひたすらに閉口し、ともかくも善意のかたまりのようなこの巨人の家を辞去した。>と書いている。

 

李登輝にかかっては、後に(日本国内?で)『知の巨人』とメディアによって評された司馬もかたなしである。

『ふん、台湾人の哀しみ、ましてや俺自身の屈折など、全くわかっていない癖に』と李登輝は思っていたのかもしれない。

 

だが、この時点でも、李登輝は、単なる『善意のかたまり』だけで司馬を自ら案内しようとしたわけでもあるまい。

 

司馬が、日本国民の間でいかに人気があるかを承知し、また、台湾が中国と緊張関係を保持しながら、『台湾独自の道』を進み続けるためには、司馬を通して、日本の国民の間に『台湾ファン』を獲得していくことが、戦略的に見て、『非常に重要だ』という意識がどこかにあったからこそ、李登輝はこのような言動をとったような気がする。

 

その後、司馬も、李登輝がいかに、巧みに自らの権力を拡大して、『台湾の新たな道』を切り開こうとしているかを、知るに至って、『旧制高校の仲間』あるいは『陸軍の予備役士官教育の第十一期生』といった仲間意識を超えて、李登輝という人物に関心を抱き、その可能性に驚きの眼を向けるようになったのではないか。

 

李登輝は(ある意味では)蒋経国の意思に沿ったのか、それをも裏切ってしまったのか、それ自体、よくわからないが、誰も(中国の側も含めて)予想することが出来なかったような『大いなる、また急激な変化の道』へと台湾を導いていくという奇跡を実現するに至った。

 

それは必ずしも『美しい道』ばかりでなく、『裏切者』『変節漢』等呼ばわりされるような苛烈なものであった。

(国民党はもとより、民進党に近いような人たちであっても、李登輝に対して恨み、憎しみを隠さなかった政治家たちが、台湾には大勢いたのであろう。)

 

だが、『李登輝総統の時代』を経て、台湾が『中国とは別の歩み』を開始したこと、それはもはや『なかったこと』にすることが出来ないような巨大なステップだったことは、間違いない。

(このことを知らない人たちだけが、『一つの中国』などという、中国政府の『虚構』を擁護、あるいはそれに依拠しているのである。)

 

そして、その際、司馬遼太郎と二人で語り合ったこと、司馬が李登輝のなかに見出し、李登輝のほうも、司馬が日本人であるが故に語ることができたこと(客家=ハッカであること、その他にもあったことだろう。私は、李登輝が一時期、マルクス主義そのものであったかどうかは別にして、そのような思想とか運動とかの影響を受けた時期もあったのではないかと感じている。こうした事柄は、過去の台湾においては、十分、『肉体的抹殺』の根拠とされることのできるような『経歴』『履歴』になってしまう)があったことだろう。

 

もしかしたら、李登輝は、司馬遼太郎と『日本語まじり?』で語りあうことで、初めて、自分自身が背負っている『歴史的使命』のようなものを、自覚させられるに至ったのかもしれない。

 

そういう意味で、私は、司馬遼太郎というのは、面白い男だと思う。

人々は、司馬遼太郎の思想、著作を自分の好きなように切り取りたがるところがあるが、実際は、司馬遼太郎は他に比類を見ない『知りたがり屋』だったのだろう。

 

そして、同時に、自分が現場で見たこと、感じたことにこだわり、そうした感覚が『これまで読んできたこと、知識として知っていたこと』との間に乖離が生じた場合、むしろ、現場での感覚や直感のほうを取り入れ、自分自身の(書籍によって構成されてきた)既存の枠組みが、変容を余儀なくされたとしても、そのことを『恐れない』、そのような人だったという気がし始めた。

 

私たちが、今日において、真に学ぶべきは、むしろ司馬遼太郎のこのような『精神の在り方』なのではなかろうか?

 

そして、李登輝のほうでも、司馬遼太郎が書いた『李登輝の評価』というものを読んで、逆に自分自身が、そのような人物であろうとした、その姿を目指した――そのような側面もあったかもしれないとも思った。

 

以上で、今回の司馬遼太郎と李登輝に関する考察に区切りをつけたい。

そして、司馬遼太郎の『菜の花忌』シンポジウムの報告という形で書いてきた、この記事をここで(いちおう)終結させたい。