昨日(15日)は妙に天気が良くて、気温が20度を超えていたという。

私は、久しぶりに東京・京橋の『国立映画アーカイブ』に古い映画を見に出掛けた。

 

現在は、2月6日~3月24日まで、『日本の女性映画人(2) 1970-80年代』という企画での上映特集をやっている。

 

今は、『女性の時代』というか、前に向かってポジティブなことをやっているのは、(むしろ)男性よりも女性のほうが多いという雰囲気を感じている。

 

この企画では、1970、80年代を扱っているので、だいぶ時代は古いのだが、それでもこのころから、生きのいい女性が映画界にもいて、そういう人たちが、プラスのエネルギーを持ち込んでいたのだと今更ながら、感じる。しかし、映画界自体は、いろいろ制約も多くて、数少ない女性たちは苦労をしたことだろう。

 

さて、昨日、『国立映画アーカイブ』で見た映画は、『二十歳の原点』という題名である。

私と同年配の人(そろそろ『後期高齢者』とやらに分類されてしまう世代だ)であれば、このタイトルに記憶があるかもしれない。

 

これは、高野悦子さんという方の書いたものである。

彼女は、1969年6月24日未明、京都府内で貨物列車の線路内に立ち入って、死亡した。『自殺』とみられている。

 

彼女は、当時、立命館大学文学部史学科日本史学専攻の学生だった。彼女は中学生のころから日記を付けていた。

その日記を、遺族が読んで、『自分たちが把握しきれず、その結果、自殺を遂げるのを止められなかった。せめて、彼女の思い、生きた軌跡を本にしてみんなに読んでもらいたい』という気持ちで刊行したのが、この『二十歳の原点』(『はたちのげんてん』ではなく『にじゅっさいのげんてん』と読むらしい)である。

 

当時、全共闘運動などの学生運動、大学闘争が、全国的に吹き荒れ、しかもそれが1969年1月の『安田講堂の攻防戦』をいわば、頂点として『敗北の季節』に入っていた。

(もともと、どことなく『決戦』めいた雰囲気が漂っており、『最後の抵抗』という色合いが濃く、しかも、諸党派の宣伝のためのものという印象すら受けてしまうような『安田講堂での戦い』ではあったが…。)

 

そういうなかで、高野悦子さんは、もちろん、本人の性格とか気質、これまでの生き方も影響していると思うが、『闘争の意義』について生真面目に考え、この時点で『授業を受けること』は『スト破り』だと考えたのかもしれない。

また、『学生をやめて、別の生き方をする』ことも出来なかった。

 

親に『授業料』を払ってもらいながら、彼女は授業を受けることなく、さらには『授業料』には手を付けることなく(その金額は銀行に預けたままだったらしい)、『学生』でありながら、『授業』にも出ず、(生活のために)アルバイトをしながら、その合間に、改めて『マルクス』の本を読んだり、一人でいろんな書物を勉強しようとするというような、不器用な生活を続けていた。

 

彼女は『立命館大学』に在学していたから、ここは、民青=共産党系も強く、彼らは『全共闘』を批判しながら、『封鎖解除』などの、これもまた別の形の『暴力=実力闘争』を展開していたはずである。

(さらに、それ以外の例えば、中核対革マルといった別の形の『内ゲバ』も起こっていたのかもしれない。)

 

そういえば、今、有名な(日本共産党の)田村智子委員長なども、かつて早稲田大学の民青として活躍していたころ、もしかしたら、民青の全国的拠点の一つであったはずの『立命館大学』などに応援に出掛けたこともあったのかもしれない。

 

もっとも1965年生まれの田村さんは、この映画が舞台としている時代には、まだ小学生のはずで、(タイムマシンでもない限り)この映画に登場することもなく、『高野悦子さん』との直接の接点がありようはずもないのだが…。

 

実は、私も、この『二十歳の原点』(当時、ベストセラーにもなった)を若いころに読んだ記憶があるし、もしかしたら、何冊か続編(というか、もっと若い時代の高野さんの日記にさらにさかのぼっていくというような出版の仕方だった)を読んだのかもしれなかった。

しかし、発行された全部を読んだということはなかったと断言できる。

 

なぜなら、読めば読むほど、読んでいるこちらも苦しくなってしまうようなことが書かれていたからだ。

 

この映画は、冒頭部分を最初見た時は、(やや、『軽い』印象を受けるシーンが続いていたので)『かなり、興味本位に作られた映画なのだろうか』とも思ったが、そうではなく、描いている内容としては、恐らく、日記に書かれていたことをそのまま、映画の画像にしていった部分が多かったのだろう。

 

しかし、だからこそ、見ていて非常に苦しい思いがする。

彼女のような仕方で、傷つき、苦しむ必要はなかったはずだ。

 

あるいは、大学において、(かつて)戦っていた仲間たちが逃亡し、『安楽な生活』に逃げ込んでいく、また学生たちの糾弾に対して、ひたすら逃げるばかりだった(進歩的)『教授たちのイメージも失墜』して、最早講義を聴くことすら苦痛であるというのなら、それこそ大学をやめてしまえば良かったのだろう。

(もっとも、私自身も、時期は少し異なるが、『闘争が終焉した後』も授業を受ける気がせず、無為な生活を送り続けていたのだから、高野悦子を笑うことなど、到底、出来ない。)

 

いずれにせよ、この映画を見ていると、彼女がどのように悩み、絶望にとらわれていったのかがわかるような気がする。

 

この映画は、彼女が、睡眠薬みたいなものを飲み、朦朧とした状態で、貨物線の線路上を歩いて行く様子(むこうから、貨物列車が迫ってくるシーン)を最後にして、終わってしまう。

 

それ以上、断りも何もない。

(彼女の死が伝えられるのは、むしろ、『映画の冒頭部分』においてだった。つまり、この映画は循環構造をなしている。)

 

そういう意味で、『やり場のない怒り』というか、『不満足・不本意な気持ち』をどこにぶつけてよいのかわからないような状態に、観客を放置してしまうかのような映画の終わり方である。

 

昨日は、午後4時からの上映開始の回だった(しかも入りはあまり良くない・3分の1も入っていなかったと思う。まあ、こんなテーマであれば、無理もないが)ので、映画上映が終わった時点で、何とも言えない重苦しい雰囲気が場内には漂っていた。

 

ただ、なぜかわからないが、会場内のやや後方で、一人、熱烈な拍手をする人物がいた(ようだ)。

 

その人物は、誰も呼応する者がいなくて、明らかに一人で拍手をしていたのに、周りの無反応をものともせずに、(むしろ、それに逆らうかのように)しばらく、一人で拍手を続けていた。

 

私は、心のなかで、思わず『ばかやろー』と叫んでいた。

 

 

あの時代を知らない若者が、『あの時代』に対するあこがれ?を含めて『拍手』をするのなら、まだしもわからないでもない。しかし、もしこの人物が、(私、あるいは高野さん自身と)同じ世代の者であるならば、『無責任(に見えてしまうよう)な拍手』などするべきではない、と思った。

 

なぜなら、もしそういう者が拍手を送るのであれば、むしろ『お前はなぜ、これまで高野さんのように自殺をせずに、生き続けてきたのか』という思い(これ自身も『理不尽な怒り』かもしれないが…)がしてしまうからである。

 

どちらにしても、『高野悦子さん』(ちなみに、『岩波ホール』を主宰していたのも高野悦子さんというが、これは『同姓同名』の別人である)のことは、もっと知りたくなり、昔買ったことがあるに決まっている本なのだが、近所の書店で『二十歳の原点』の文庫本が置いてあったので、ついつい購入してしまった。

(最後まで読むことが出来るのかどうか、わからないのだが…。)