一昨日(29日)、逃亡犯の『桐島聡』と見られる男が、鎌倉市内の病院で『末期がん』と思われる症状で亡くなったという。

 

これが、『桐島聡』の指名手配の写真だ。

仮に本人のいうように、真に『桐島聡』であったとすると、70歳(1954年1月が誕生日)だったということになる。

 

この事件に関しては、(大きく分けて)二つの見方があるようだ。

一つは、過激派の爆弾男の逃亡劇であり、組織的な支援を受け続けていたのに決まっている。『怖い』あるいは『許せない』というものである。

 

本人が生きている間に、厳重な取り調べを行って、彼をかくまっていた『仲間』などの共犯関係をすべて吐かせるべきだったというもの。

 

もう一つは、彼らは、1960年代、70年代の青年たちの闘いの延長にあったものであり、『爆弾闘争』など一部で間違いを犯したにせよ、『帝国主義』深部の『兵器メーカー』などの本社機構を攻めたのは、『正しく?』、その精神は忘れるべきでないといったもの(こうした戦いを行った先輩?たちが昔、たしかに存在したことは忘れるべきでないといった、ある種、変形パターンの声もあるかもしれない)。

 

まあ、後者の意見をストレートにいう者は少ないかもしれないが、現在の日本の若者たちの状況と比較して、『昔は良かった?』と思う者は、それなりにいそうだ。

 

しかし、私は、どちらも間違っていると思う(というか、どちらの意見にも『強い違和感』を覚える)。

 

というのは、第一に、この人物が『桐島聡』であったとすれば、彼らは『東アジア反日武装戦線』と名乗っていたグループの一部で、桐島が直接、参加していたグループ(さそり?)は、1975年4月に、東京都中央区にあった『韓国産業経済研究所』というところを爆破している。

 

詳細は、わからないが、(韓国産業経済研究所では)特に大けがを負わせた人もいないようなので、少し皮肉っていうと、どこかに『爆竹』を仕掛けたような話に過ぎない。

(もちろん、もっと重大な爆発物だったのかもしれない。)

 

1975年5月と言えば、既に『東大安田講堂』は1969年に落城?し、1972年2月には、『浅間山荘事件』が起き、その後、逮捕された者たちの供述により、『連合赤軍』の仲間たち殺し、集団リンチ殺人事件という凄惨な犯行が明らかになった後だった。

 

この事件は、当時、『新左翼』というものに対して(一方では、中核派と革マル派のリンチ殺人事件、さらに革労協・解放派などもまじえた血みどろのリンチ殺人事件が展開されていた)かろうじて、一部の人たちが抱いていた幻想、希望、期待が粉々に打ち砕かれた事件だったと言えよう。

(何しろ、仲間の一部に対して、いじめ、リンチを加える者たちが、『出世していく?』という異様な世界である。)

 

さらに、あの三島由紀夫も、既に1970年11月に、市ヶ谷の陸上自衛隊で蹶起、自決しているから、それから5年近くが経過してもいる。

 

『左翼』といったもの総体に対して、嫌悪感を隠さぬ者たちが、圧倒的多数というような状況で、爆弾闘争を行っていた彼らは、当時でも、絶対的な少数者であり、『孤立した存在』だったのだろう。

 

そういう意味では、1975年の時点で、なぜあのような『戦い方』をしたのか、あの時点でも、何らかの事情があって、あるいは『人脈』とか『断ち切れない人的関係のしばり』か何かで、その場から『逃げ出せなかったのか?』と問わざるを得ないような状況である。

 

実際に、『桐島聡』と目される人物が、何を考えていたのかは、もちろんわからない。

しかし、彼は『時間のエアポケット』にでも落ち込んでしまったかのように、『東アジア反日武装戦線』というおどろおどろしいグループ(もっとも、実態としては、大した数の人間が参加していた訳でもないのだろう)の一員として、指名手配されっぱなしで、この50年近くを生きてきた。

 

ここから、先は、もちろん、私の『思い』を含めての感想であるが、彼はもっと早くつかまれば良かったのに、というのがむしろ『正論』であろう。

 

なぜなら、『東日本反日武装戦線』というのは、1974年8月30日にも三菱重工業東京本社ビルで爆弾を爆破させ、8名を死亡させ、376名が負傷したというが、これなどはまだしも『犯人』と『犯行』の関係が割合、明確なような気がしている。

 

なぜなら、昔、連合赤軍事件で連座して逮捕された吉野雅邦という男がいたが、彼などは父親が三菱地所に勤務していた。

その他にも、たしか、親が三菱重工等の幹部であるというような人たちがいたように記憶する。

 

彼らにとっては、自分の父親の勤務する企業が『敵』であり、自分はそこのおこぼれを得て、生活を営んできた『否定されるべき存在』という(ある種、文学的?な)図式になる。

 

こういう関係であれば、『父』と『帝国主義』と『自分自身』ということで、否定されるべき存在が、ある意味でわかりやすく、『爆弾闘争』=ある種の自爆という、奇妙な図式を簡単に描くことが出来る。

(なお、吉野の場合は、連合赤軍の残党たちのリンチ、殺人事件にもろに巻き込まれてしまい、仲間でもあった、自分の妻と、彼女の胎内にあった実子までも、処刑することに加担させられるという、恐ろしい体験をさせられることになる。)

 

しかし、『桐島聡』にとって、果たして自分自身はそのような存在だったのだろうか?

むしろ、その中からあがいてでも、逃げ出し、『自分一人ででも生き残るべき』そうした存在ではなかったのだろうか?という気がしないでもない。

 

たしかに、彼は、1975年の時点で自分たちの闘争が『失敗した』と思われた時点で、さっさとつかまってしまい、その後、判決を受け、罪を償ってしまえば良かったのである。

 

もちろん、裁判所あるいは検事の側の判断もあるので、断定はできないが、彼が直接関与した『韓国産業経済研究所』の罪状だけで、判決を受けたとすれば、恐らく長くとも5年か7年か?そこら、刑務所に入っていれば、『前科一犯』はついてしまうかもしれないが、それで法的には『罪を償った』という扱いを受けていたことだろう。

 

なぜ、そうしなかったのか?

そうならなかったのか?

(つづく)