それでは、ようやく『初日の一番、最後の記事』を書く(『後篇』という表現は、既に使い果たしてしまったので、『後篇のおまけ』と表記する)。

 

最後に向かったというか立ち寄ったのは、『千里ニュータウン』である。

(01)

 

私自身、横浜市の団地に住んでいて、そこでは(他の多くの古い団地と同様に)建物の老朽化と住民の老齢化と『二重苦』に悩んでいる。

 

本来、団地の『一括建て替え』(いったん、全体を取り壊して、新しい建物を土台から再構築する)などについて住民の合意を実現し、それをタイミング良く実施しなければならないのだが、それがなかなか難しい。

 

もともと、こうした団地やマンションなどが1960年代に建設されたとき、建物の寿命について考えていなかった(今では、信じられないような話だが…)というのが、本当のところらしい。

 

その後、いろんな地震とか、あるいは不良建築物の体験(事件等)をするにつれ、コンクリートの建物は『決して、永遠にもつ』というものではないらしい、ということが人々に認識され始めたらしい。

 

私は、大阪まで実際に来るまで、良く知らなかったのだが(おそらく、このころはまだ『大阪の日本全体における地位、ポジション』が今よりも高かったのだろう)、我が国における大規模団地、ニュータウンの建設は、首都圏におとらず、むしろ関西のほうで先行して開発されていたようである。

 

1970年の大阪万博の会場であった『千里ニュータウン』近辺は、そういう意味でも、当時の『日本の未来』を追求する地域だったらしい。

 

(02)

この日、私は、吹田市の『万博記念公園』から、さらにモノレールなどを乗り継いで『千里中央』駅(ここは千里ニュータウンの、中心的な位置にあるらしかった)などを通過した。、

 

ただ、外から(しかも、夜も暗くなりつつあった)なので、街の様子の詳細はわからないが、広大な敷地に、団地が存在していて(その後、テレビ番組などでも確認すると)、それぞれ若い世代を割安で入居させるなど、いろいろな工夫をして、『高齢化時代』のなかで街の存在価値を実現しようと、工夫をこらしているさまが伝わってくる。

 

(ただし、必ずしも『分譲』を基本とするような、団地ばかりでなく、『賃貸』が中心になっているところもある。

おまけに、詳しい話を聞いていくと、『入居した人は自治会加入が義務付けられている団地』などもあるというので、まさに状況はさまざまである。

 

こうした団地では、近くに立地している学生を大学との協定で割安で、入居させる。ただし、その期間、『自治会の行事などで裏方的仕事をすることを条件とする』などユニークなことを行っているところもあるらしい。これは学生にとっても、『社会性が身につく』自然に『異なる世代の大人と付き合うことができるようになる』など、学生にとってもメリット?があるのだという。)

 

こうしたことは、なかなか外から見ているだけではわからないが、『いろんなやり方』でもって、『新しいコミュニティづくり』が出来売る、ということを示しているようだ。

 

逆にいうと、そうした工夫なしに、ただ漫然としているだけでは、『団地のスラム化』といったことが進行してしまう危険性もかなりあるということだろう。

 

私は、今回、単に『千里ニュータウン』とか『万博会場』の周辺地域を回っただけだが、『大阪が東京と同等に活力があった時代が存在したこと』を感じ取ることが出来たような気がする。

 

しかし、言い換えると、これは、橋下大阪府知事(その後、大阪市長に転じるが)が誕生して、いわゆる『劇場型政治』というものを、2008年1月以降、展開するに至る『その必然性』ともいえる、『大阪の地盤沈下』『大阪の人々の焦り、願望』が生まれてくる、ある種の『根拠』でもあったのではないかという気がしている。

(私は、橋下徹氏の出現を単に、『ハシズム』などという表現で、矮小化し、ある種『見下す』ような『冷笑の対象』とするのは、その問題を本当の意味で認識し、対応していくことにつながらないのではという気が、し始めている。)

 

 

この記事では、もっと、『大阪旅行初日の体験』に沿った形で、書いて行こうかと思っていたのだが、次第に余裕がなくなってきた(いい加減、二日目の話にも入っていかねばならない)こともあって、やや『鳥瞰する』ような視点で、ここでは書いておきたい。

(結局、二日目の話、あるいは、APAホテルの内実を書く記事のなかで、このような感想を持つに至った事情について、補足していきたいと考えている。)