今日は、1月5日。

昨日(4日)からゴミの収集が始まったし、今日(5日)からは団地の管理組合事務所も活動を開始した。

 

私は、現在、管理組合の理事の一人に(順番で)なってしまっているので、いろいろ『理事も立ち会え』ということで連絡が来たりする。

 

能登半島の大地震があったせいで、それに影響を受けたわけでもなかろうが、団地内の住民から設備の不具合の申し立てなど、いろいろ来ているようだ。

(何しろ、古い団地なので、建物や設備も老朽化しているし、なかに住んでいる人間も老齢化している。しょっちゅう、問題が発生するのも、やむを得ないところもある。)

 

今回の能登大地震は、衝撃的な出来事ではあるが、新聞記事など読んでみると、お金が足りなくて、『耐震建築』にすることができない。また、1年前?の地震によって既に、建物にガタが来ていたらしいなど、私自身の住んでいる団地にも共通するかもしれない要素があったりする。

(それに被災者の情報なども、なかなか把握しきれていないようだが、私の住んでいる団地でも、最近では『個人情報であるから』という名目で、情報をオープンにしたがらない傾向が強く、年末年始など、実際に居住している人たちがどのくらいいるのか、把握しきれないところも多いのだと思う。

一般的にいうと、地方であれば、そうした要因は少ないのではと思われがちだが、意外と昔と比べると、町内会とか行政などで人々の情報を把握する能力も低下してしまっている可能性がある。)

 

今回、(カミさんと一緒に)大阪旅行に行くことになって、調べてみると、1970年の大阪万博が開催された千里ニュータウン(という名称だったと思うが)など、大阪の郊外には、ニュータウンとか団地とかの名称で呼ばれた巨大な集団住宅が、多数、存在していたことがわかってきた。

 

これまで、私が住んでいる団地(1500戸くらいがある)は『かなりの大型団地』だと(周りもそういうので)思い込んでいたのだが、実は、関東にももっと大規模な団地があるし(板橋区の高島平とか、横浜市の洋光台団地その他)、関西のほうには、さらに規模の大きな団地が、早い時期から建設されていたようである。

 

そういえば、1970年の大阪万博のときは、こうした『団地生活』とか『ニュータウン』での生活が、あたかも『未来の夢の生活』であるかのように、描かれていたという記憶がある。

こうした団地、ニュータウンが、現在では、ある種の『ゴーストタウン化、スラム化の未来像』をいろいろ心配されているというのは、周知の事実だと思う。

 

今回、急に大阪に行くことになって、いろいろと調べ始めたが、考えてみると私は、大阪についてはほとんど知らなかった。

 

特に、問題?なのは、橋下徹が(突然、立候補して)大阪府知事にあっという間に当選してしまったのが2007年12月~2008年1月にかけてのこと(投開票日は2008年1年27日だった)らしいのだが、そのころ、私は2008年の8月から中国に(当初は、『語学留学』と称して)住むことになっていた。

 

その結果、それ以降は中国に住んでいて、当時は日本の情報がなかなかオンラインで入ってくるような状況ではなかった(今のように、日本の新聞の電子版の情報で、ニュースがすべてわかるということもなかった)。

 

それに、私は、どちらにしてもやはり、『東京目線』というか『首都圏目線』であって、大阪の地方行政のことなど、あまり関心がなかったのだと思う。

 

だから、当時、大阪の人々が、『関西圏の地盤沈下に対して、どのような危機感を感じていたか』、なぜ、橋下知事がある種の『熱狂』をもって(すべてではないにしても)多くの大阪の人々に迎えられたのかは、わからなかったであろうと思う。

 

考えてみると、そもそも、私は、『民主党政権誕生』の時点(2009年9月)においても、既に中国に住んでいたので、日本で何が起こっているかわからなかった。

(民主党政権を蛇蝎のように嫌う人たちが、いまでも存在しているのは、周知のとおりだが、私は、そのころから既に『民主党』になど期待を寄せる気がしていなかった。

そのため、人々が『民主党政権』にどのような期待を寄せ、それが『混乱の拡大』によって、どれだけ人々を失望させたのか、ほとんど『実感』として理解できていない。)

 

それに中国に行ったら、行ったで、いかに強権的な政権(政治体制)で、危なっかしい要素をたくさん抱えている国であるかは(当時は、まだ胡錦涛氏が権力トップの時代であったが)、しばらくしたらさまざまな点で感じ取ることができるようになった。

 

そのころは、むしろ、『尖閣問題』に関する扱いなど、あの石原慎太郎さんと当時の民主党政権(野田佳彦首相)とが、結果的に妙な『連係プレー』をしてしまって、かえって中国に付け入るスキを与えてしまっていると感じた。

だから、基本的に『民主党政権』というのは一体なんなんだ、という思いがしていた。

(当時、中国に滞在していた多くの日本人の間、特に『ブログ』などやっている人たちの間で、そのような『失望感』『危機感』が共有されていたような気すらしている。)

 

 

今回、たまたま大阪に行くことになって、橋下氏が(2008年1月に)大阪府知事に当選して以降の出来事などについて読み始めているが、橋下氏は何となく民主党政権が中央でやっていた(初期の段階の)政策の見直し、『官僚のつるし上げ?』みたいなことを、多少、(先取りするような形で)大阪で暴れまくっていたような印象を受けている。

 

まだ、(こうした本を)少ししか読んでいないし、果たして、大阪に到着するまでにどれだけ『予習する?』ことができるかすらわからない。

 

しかし、大阪には(大阪にも、というべきか)地域の『地盤沈下』という切実な問題を抱えていて、(おそらくこれは、東京の『反橋下』を標榜する人たちには、理解が届かなかったような感情であるのかもしれない)それを意外にも、『民主党政権』とどこか似たようなスタイルで(先行的に)血祭をあげていたのが、橋下徹だったのではないかという気が、しはじめている。

 

もっとも、橋下氏の場合は、当初から、大阪府における『公的セクターの肥大化、非効率』(これは、橋下氏の前任者である、太田房江知事=2000年~2008年=時代の政策の責任もあるようだし、もちろん、彼女は、自民党・公明党を軸として、共産党をのぞくオール与党化路線を推進するような知事でもあったのだが)を問題にしていて、『公務員を叩く』『公的セクターの縮小をはかる』『公務員を民間並みに働かせる』ということに情熱を傾けていたようである。

 

その結果、それに反対する側も、(一時期は)自民党から共産党までが手を結ぶという、『よくわからない状況』にまで突き進んだ。

 

橋下徹氏の路線は、『府と市の行政を維新に任せればうまく行くという宣伝戦』→『大阪都構想の二度にわたる住民投票での否決という結果』(その結果としての橋下氏の政界引退)など、ある種の曲がり角を迎えているのは、事実だろう。

 

しかし、それも、もしかしたら、堺屋太一氏といった、もともとの『アイデアを提供していたブレーン』が2019年に亡くなったりして、『橋下氏または維新の路線』が不明確(羅針盤喪失の事態)になっていったことに問題があるのかもしれない。

 

橋下徹氏の大阪における『劇場的な自己演出』がなぜ、『ある程度の成功』を勝ち取り、その後、彼が政界を引退せざるを得なくなる(しかもその後も、『復活』の兆候は見えてこない)ようになったのか、その辺は、今回の大阪旅行を一つのきっかけにして、考えていきたいというような気がしている。

(いずれにしても、永年の間、私が『大阪』に対して関心を向けてこなかったのは、『うかつだった』というような気がしている。)

 

大阪旅行で、こうした疑問について考えるきっかけが(何か)つかめれば良いな、と思っている。