先週の水曜日(8日)、東京・京橋の『国立映画アーカイブ』で原爆に関する昔の映画を二本見た。

 

これは、私が、12月3日から、およそ50年ぶりに長崎に行く(原爆資料館などを見る予定)ための、(一種の)予備学習みたいなものである。

(なお、この記事は、一週間前にほぼ完成していたのだが、どういう訳かそのままにしてあった。)

 

前にも書いたように、私の母は長崎の被爆者である(ただし、長い間、私たち二人の息子たちに、その話をしたことはなかった)。

既に2016年に満91歳で亡くなっている。私は、1948年生まれなので、原爆が落とされたときに胎児だったわけではないが、いちおう、『被爆二世』ということになるのだろう。

 

映画で描く世界が現実と異なっていることは、十分、承知しているつもりだが、今回、『国立映画アーカイブ』の特集『月丘夢路・井上梅次100年祭』で、たまたま?『長崎の鐘』と『ひろしま』を一日で両方上映していたので、見ることにした。

(どちらも、月丘夢路が出演しているということで、同じ日に上映したのだろう。なお、月丘夢路=女優と井上梅次=映画監督は夫婦で、日本あるいは彼らが移り住んだ香港等で多くの作品を作り上げたということで、日本映画史に残るアップルになっている。現在、『国立映画アーカイブ』で映画の上映と、記念の企画展示が行われている。)

 

 

さて、今回は、先に見た『長崎の鐘』のほうの感想を書く。

これは、映画を見た直後に、近所のコーヒーショップでPCに打ち込んだもので、比較的、生の感想に近い。

 

『この映画、以前見たことがあるのかどうか、どうもはっきりと思い出せない。

ややみっともないが、自分のブログの記事を検索すれば、(見た映画すべてについて書いているわけではないが)この手の映画であれば、少しは取り上げている可能性が高い。

 

以下、生の感想。

どうも、『わからないことだらけ』の不思議な映画だという感想を抱いた。

もちろん、これは1950年製作・公開の映画だから、そのころの社会状況の制約もあるだろうとは思う。

 

GHQの力が、まだ強いころであろうから、(露骨にいうと)『言論弾圧』というか米軍あるいはGHQに対しての批判的な内容の映画は、許されなかったはずである。

 

この映画、筋を書いてしまうと、著名な永井隆博士のことを取り上げている。

といっても、私は『永井博士が何をした人なのか』わかっているわけではない。

 

ここにも書かれているように、永井博士は、長崎医科大学(今の長崎大学医学部)で放射線の研究をしていたが、妻(月丘夢路が演じている)が原爆の犠牲者となる。

 

永井博士は、長崎市浦上にある、夫人の実家に下宿していたことが縁で、妻・緑と結婚するに至る。

永井博士自身は、もともとキリスト教徒ではなかったが、緑の実家が、カトリックの信者だった(と言った感じに描かれていた)。

 

永井博士も、戦争に従軍し、『世の中の矛盾』『人の命のはかなさ』を感じるにつれ、科学者としての確信は保ちながらも、『信仰の道』に対して、心が揺れるようになる。

 

感じた疑問の第一は、まず、この映画では、長崎のカトリック教会は戦争に対しては反対と言わなくとも、批判的な立場をとることなく、むしろそれを受け入れているように描いている。

また、長崎市の周辺住民も、カトリックに対して、『警戒心』をもつことなく、『戦争や愛国心と信仰』が矛盾するとも思わないような描き方である。

はたして、そうだったのか?

(多分、当時のGHQの立場と矛盾することがないように、また日本人をいたずらに刺激しないように、問題となりそうな点は、『ぼんやりとさせる』という手法で、この映画を作り上げたのであろう。)

 

疑問の第二は、(映画の中で)永井博士は、いろいろな偶然から、放射線に対する研究を自分の専攻分野にするに至るが、この映画では、『原爆』と『放射線研究』の矛盾というものが描かれていない。(つまり、原爆治療にも資する?ような)『放射線研究』は良いという視点で描かれているが、そもそも『原爆』に対するストレートな批判は描かれていない(気がする)。

 

疑問の第三は、永井博士は、(カトリック教徒である)妻との結婚に至る過程で、自身もカトリックの信仰に入っていくように描かれている。

そして、妻は、原爆の犠牲者となってしまうのだが、そのことに際して、『原爆に対する憎しみ』というか『米軍に対す反発』などというものは、一切、描かれていない。

(ある意味、このころの世相を考えると当然なのかもしれないが…。)

 

疑問の第四は、永井博士は、原爆が投下される以前に、放射線の研究の犠牲者として、『白血病により余命が三年』と宣告されていたことになっている。

しかし、原爆が投下されて以降、永井博士が、自身の専門分野との関係で、一体、何を研究していたのか、それがほとんど示されていない。

 

疑問の第五は、この映画では、すべてが『ただ運命』のように展開していくという流れになっていて、永井博士は、自分が死んだ後に、遺児となる二人(息子と娘)がどのように育っていくのかばかり心配している。

 

そして、もっぱら、地域のカトリックの信者などを励ましながら、『復興』とか『天主堂の再建』などに力を入れているように描かれている。

(また、放射能は残存しているが、やがて、『生き物は再び繁殖?するだろう』というか、むしろ放射能の被害は『大したことはない』というような印象を受けるようなことばかり言っている。)

 

果たして、永井博士の残したメッセージというものは、そのようなものであったのだろうか?

 

 

もちろん、『占領下で初めて原爆を題材として製作されたメロドラマ』であれば、大きな制約があること(むしろ制約だらけといっても良いだろう)は了解できる。

 

しかし、どのような経緯でこの映画が作られ、また、この映画がどのように当時、世間で受け止められたのか、その後、長崎の原爆に関するどのような映画が作られたり、運動が展開されるようになったのか、むしろ、この映画を見ていて、ますます疑問がわいてくるような映画であった。

それも、そもそも私が長崎の原爆に関して知らないことばかりであるためなのだけど…。

(そういう意味では、『長崎訪問』の前のこの時期に、この映画を見たのは、『良い刺激剤』になったともいえる。)

 

なお、この映画を『メロドラマ』として見ると、相当、ストレスを感じる。

というのは、永井博士は、『優等生』過ぎて面白味がない。

 

(これは別の映画のいちシーンからだけど)

 

永井博士に対して、(大学で博士の助手的な仕事をしている、看護婦?の)津島恵子が片思いをしているのであるが、永井博士は(下宿先の)カトリック信者の娘と結婚してしまう。(恐らく、津島恵子が演じるこの娘は、『メロドラマ』にするために作られた役なのではないか、という気がしている。)

 

その後、妻である『緑』(月丘夢路)が原爆であっという間に死んでしまう。

その死にざまもほとんど描かれていないので、『死んだというのは誤報でないか』とも思うほどだったが、やはり死んだらしい。

 

この妻が亡くなった後も、『片思い状態』が解けない津島恵子は、独身を貫き、永井博士に対して、身辺のお世話をさせてくれというのだが、ケンもほろろに、断わられる。

あまりにも、ストレートな振られ役なので、いっそ、津島恵子がかわいそうに感じられてくる。

 

映画の最後は、ローマ法王の『右腕』とされるような人物が、長崎を訪れ、信者たちが大集会で迎える状況(記録映画みたいに見えるような創り方である)で、映画は終わりのマークが出る。

(カトリック信者以外の長崎の被爆者たちなど、こういう状況があったとしたら、決して『おだやかな気持ち』ではなかったのではないかもと想像されてしまうのだが…。)

こういう(今から見ると、少し=かなり?)変な映画である。

 

(もちろん、最初、歌っていたころはずっと若々しかったはずだ)

 

『長崎の鐘』というと、藤山一郎の歌(この映画の中でも歌っている)、古関裕而の曲、サトウハチローの作詞などで有名だ(2020年の『朝ドラ』=『エール』でもこの曲を巡るエピソードが取り上げられていたと記憶する)。

 

だが、あまりにも『美しい曲』の背景にどのような惨禍があったのか、あまり知られていないという気もする。

この映画と現実との間には、ギャップがあるというのは承知しているが、今回の長崎旅行で、永井博士を巡るストーリーがどのようなものであったのか、知りたいという気がしている。