引き続き、3日(金・祝日)に『しんゆり映画祭』で見た2本目の映画を紹介したい。

午後5時45分から、川崎市アートセンターの『小劇場』で、松本優作監督・脚本(他に岸健太郎という人が、脚本に参加している)の映画(2023年・日本・製作委員会)『Winny』を見た。

(今回、『後篇』という形で、この記事をまとめようかと思ったが、考えてみるとかなり重たいテーマなので、『中篇』『後篇』の二回で書いて行くことにした。)

 

この『Winny』というファイル共有ソフトの事件は、『実話に基づいた物語』ということであるが、2004年にプログラマーの金子勇氏がこの事件で逮捕された(捜索を受けた?)ころのニュースは何となく覚えている。

(当時の報道の仕方の影響を受けたせいなのか、やはり、違法に映画等の著作物を閲覧可能にさせていた、『悪い奴』という印象が強かったと記憶する。)

 

そればかりでなく、後に金子さんが、裁判で『無罪』という判決を得たという報道も、見た記憶がある。

 

しかし、今回見た、この映画によると、事態の推移はかなり複雑である。

映画(とその後のトークショー)で得られた情報くらいしか、入手出来ていないため、(映画を見てから)時間が経過すればするほど、どういう話だったのか、よくわからなくなってくる。

 

金子勇さんは、1970年、栃木県都賀町(つがまち、現在は栃木市となる)出身、小学校のころからプログラム技術に関心を抱き、自分の好きなものの道に突き進んだ、(ある種の)天才・プログラマーということらしい。

 

この映画では、俳優の東出昌大さんが演じているが(どういうわけか、良く知らないが彼は『スキャンダラスな報道』で取り上げられることが多く、その影響か?)かなり『内向き』(引きこもり的な姿勢にも見える)で攻撃性を秘めた演技を見せている。

(また、映画上映後の『トークイベント』にも、『Zoom』みたいなアプリを介したリモート出演を選択していた。)

 

これは、私がそのような見方をしているのがいけないのかもしれないが、どことなく『腫物にさわる』ような司会者等との言葉のやりとりが感じられ、逆にこのような姿勢が、映画のなかの金子勇さんの役柄に『相互浸透』してしまうようなところがあって、妙な緊張感が会場全体に漂っているのを感じた。

 

 

この事件は、2003年11月に、『著作権法違反』(公衆送信権の侵害)容疑で、(金子勇さんが開発した、ファイル共有ソフト)Winny利用者である愛媛県松山市の無職少年と、群馬県高崎市の自営業男性の二人が逮捕されたことで、浮上した。

 

この二人は、それぞれゲームソフトのデータと映画の映像を(Winnyを利用して)ネット上に公開して、不特定多数がダウンロードできる状態にしたことが、罪を問われたようだ。

この時点では、金子さんは、事情聴取を受けただけのようだったが、翌年の2004年5月に、Winnyの開発者であり、その配布をネットを通して行っていた金子さんも、上記の著作権侵害行為をほう助した容疑で、逮捕された。

 

今回、この映画を通して学んだのだが、この法解釈にはかなり無理もあるようだ。

 

まず、仮に上記二人の行為が『著作権法違反』であると仮定しても、ファイル共有ソフトの開発者に過ぎない金子さんを、その『ほう助』容疑で、立件可能かどうかについては、相当、無理な法解釈もあったようだ。

(例えてみると、仮に、『包丁』が犯罪の手段として用いられたとしても、『包丁を使用しての傷害事件』などが起こったとしても、一般的にいって、『包丁の設計・製造』等をした人が、傷害事件のほう助者として罰せられることはない、と言えるだろう。)

 

 

その他、Winnyという『ファイル共有ソフト』の考え方には、P2P(ピアtoピア)技術(つまり、マスターとスレーブの関係を想定しない、対等な端末同士のネットワーク)の中心的な発想が含まれていて、これを刑事事件として立件し、弾圧をしてしまったことで、今日、もてはやされている(仮想通貨等の元にもなる?らしい)ブロックチェーン技術(と書いているが、私には全くわかっていないのだが)の日本での展開に『大きなブレーキをかけてしまった』という評価があるらしい。

(今回の映画は、そうした考え方を背骨にしながら作られた映画だといって良いだろう。)

 

特に、金子勇さんは、この『刑事裁判』の被告とされてしまい、一審が2006年12月に京都地裁で、罰金150万円の有罪判決(求刑は懲役1年)であったこともあって、『金子さん有罪』のイメージが強く刻印されてしまった。

 

結局、金子さんは、2009年に二審の大阪高裁で『無罪』の逆転勝利をし、また、最終的に2011年12月に最高裁で、『無罪』の確定判決を得ているのだが、日本のメディア等の報道体制は、二審以降はまともに報道しようとせず、一度、『有罪(ブラック)』の印象を貼り付けられてしまうと、それが人生を支配してしまうことが多い。

 

現に私も、そのように(後に)『無罪』になった記事を、どこかで見た記憶があったが、それはそんなに大きな報道ではなかったと思う。

(それにそのころ、私は中国で暮らす時間の方が長かったから、そのせいもあって、『無罪報道』の印象が薄いのかもしれない。)

 

しかも、金子さんは、この『無罪確定』から1年8カ月ほどしかたたない2013年7月に、『急性心不全』のために43歳という若さで『急死』を遂げてしまっている。

 

本来、『いまこそ、研究者、プログラマーとしての生活に全精力をつぎ込んで、失われた時間を取り戻すためにも頑張りたい』と思っていたであろうに、『実に気の毒だ』という印象を受けてしまう。

 

そういう意味では、この映画は、金子勇さんの『名誉回復』といった意味もあるような映画なのかなとも思う。

 

今回、私自身が、(自分自身の体験も含めて)この映画を見て改めて衝撃を受けたのも事実である。

(自分自身について、『うかつだった』という気がどうしてもしてしまった。)

 

私自身、それなりに1990年代から『著作権法』について関心を持っていたり、また、特に中国に住んでいたころ(2008年から2013年の初頭まで)は、既に、中国当局による『ネット監視』とか『ネットの遮断によるSNSへの妨害』に対して、『VPNソフト』などというものがあって、中国当局の監視網を潜り抜けるソフトが存在していることを知り(他のユーザーに教えてもらい)、わからないながらもこういうソフトの力を借りて、『監視網を潜り抜けた方法でのSNS接続』なども実際にはやっていたりしていた。

しかし、金子勇さんの事件とこうした事柄を結び付けて考えるようなことは、薄かった。

(つづく)