このような話題に興味がある人も(もしかすると)少ないかもしれないので、これはある種の『備忘録』(メモ)みたいな感じで書いてみたい。

 

映画『人間の壁』を東京・京橋の『国立映画アーカイブ』で見たのは、2月14日のことである。

 

 

 

この16日に書いた記事で、その感想を書いた。

 

タイトルにもあるように、山本薩夫監督の(1959年製作の)この映画では、佐賀県教職員組合の直面した退職勧奨、人員整理など『労働争議』の側面が強調されていたので、私は自分が体験した『沖電気争議』(1978年~1987年)のことなど思い出してしまい、そういう観点からこの記事を書いた(後篇と合わせて二回で書いた)。

 

ところが、その後、横浜市の図書館で、この映画の原作とされる、石川達三の新聞小説『人間の壁』を借りてきて、最近、ようやく読み終えた。

(最後の1週間くらいは、『WBC』の野球の試合まで見始めたので、ぽつんぽつんとしか読めず、ややダレ気味の読み方だった。)

 

これらの本は、(貸出延長をした上に)既に『延滞気味』なもので、できるだけ速やかにここらで、感想文みたいなことを書きあげて、本を図書館に返却しなければならない。

 

ということで、ややあわただしいが、『人間の壁』の映画と原作小説の比較みたいなことを書いてみたい。

 

<対象とする社会運動への作家の視線>

石川達三の長編小説『人間の壁』は、文庫本の最後に書かれている映画評論家の佐藤忠男さん(この人も、昨年3月17日に91歳でお亡くなりになってしまった)の解説にもあるように、1957年8月23日~1959年4月12日まで『朝日新聞』の朝刊に連載されたものである。

 

当時は、既にテレビ放送が始まっていたものの、まだその存在はそれほど大きなものではなく、『時代を代表する物語文化としては、「娯楽の王座」と呼ばれていた映画と、そして全国版の大新聞に載る新聞小説が圧倒的に大きな位置を占めていた』のだという。

 

石川達三という作家は、必ずしも当時、『リベラル』とか『進歩的』あるいは『民主的』な作家と思われていたわけではないようだ。

 

1935年の『蒼みん(「亡」扁に「民」と書く)』は第一回芥川賞を受けたり、またその後、華中の従軍を経て書いた「生きてゐる兵隊」が発禁処分を受けたものの、石川に対して(軍部や天皇制に対して屈服した)『転向作家』だとみなすような、非難も寄せられていた。

 

また、石川は戦後の人気作家の一人であり、特に『朝日新聞』にだけ書いていたわけではなく、『読売新聞』や『毎日新聞』などにも新聞小説を連載することもあった。

 

そういう彼が、この『人間の壁』を書いたので、読者も業界の人たち(?)もびっくりしたらしい。

というのは、この小説は、一般に『佐教組事件』と呼ばれる、1957年2月14日~16日の3日間にわたる佐賀県教職員組合の一斉休暇闘争とそれに対する刑事弾圧(組合幹部10名を逮捕、うち4名を起訴した)や行政処分(組合幹部11名を停職1カ月から6カ月とした)などの波紋を描いている。

 

いやこの運動の原点ともいえる、それ以前の教職員の定員削減や『希望退職の強要』(これらは、佐賀県の財政事情などをも理由として実施された。同時に、日教組全体に対する切り崩し攻撃の『先端』『先鋒』ともいうべき性格もあった)を巡る、佐賀県、教育委員会と教職員組合や政党、PTA、父母の会、地域の諸勢力の攻防としての意味もあったようだ。

 

石川達三は、この小説を書いた時点で、『やや中間的な作家』『左派に対する不満なども持っている作家』と見なされていたらしいので、こうした『佐教組事件』に関する小説なども、『教職員組合の側の問題点』と『行政や保守政党の問題点』を並列的に書いて、『どっちもどっち』的な書き方をするのではないかと見られていたようだ。

 

ところが、彼は基本的に、女主人公・志野田(尾崎)ふみ子(香川京子さんが演じている)の視点に立って、いわば『良心的な教師の苦悩と成長』を描いている。

(彼女は、次第に組合活動家に成長していくその姿が描かれている。)

 

それには、当時の読者たちも驚いたらしい。

 

しかし、驚きと同時に、石川達三が(当時の教師たちの生活と労働の実態を)描いたその内容に共鳴し、世間がこの『佐教組事件』において、教職員組合側に同情し、教職員の勤務評価の導入とか、教育委員会制度の形骸化などを通して、『戦後の民主化に対して歯止めをかけ、いわゆる逆コースに世の中を引っ張っていこうとする』そうした動きに対する抵抗の気分を社会全体の中に拡大していくうえでは、大いにこの小説は役立ったようである。

 

これは、石川達三が、『佐教組事件』において、実際に掲示弾圧や行政処分が下される、かなり前の段階から、石川はこの作品のための取材(『教研集会』など、当時の教師たちが、『授業の内容』とか『生徒に対する生活指導』を含めて、単に労働者というよりも『教師としての責任』を果たそうと、努力する様に石川は感銘を受けたらしい)をスタートさせていて、当時の教師の状況(今と違って、生徒が『ベビーブーム』などで爆発的に拡大していく状況で、教師たちは悪戦苦闘していたようである)について、石川は大いに同情していたようである。

 

また、この小説は当時の気分で言うと、あたかも『現実と小説が同時進行するかのような時間の流れ』を感じさせるもの(今のネット記事の感覚と近いと言っても良いのかもしれない)であったことが、大いに影響して、この小説は社会的反響を勝ち取ったようである。

 

<映画『人間の壁』との違い>

他方、山本薩夫監督の映画の方は、1959年10月公開であり、撮影・製作されたのは1958年~59年くらいのようである。

 

この映画は、『日教組のカンパ』で製作されたとも言われ、また製作会社である『山本プロダクション』は、東宝の大争議でレッドパージにあって、仕事の場を奪われた労働組合員らの新たな職場を獲得しようとして作られた、『自主プロダクション』『独立プロ』であった(山本薩夫自身が、東宝争議において活躍した、共産党系の映画人の代表的な存在であった)。

 

そのため、この映画では、わざと、主人公のふみ子が、同僚の女性教師に対する『退職勧奨』に抗議して、仲間の女性たちとともに校長室に抗議に押しかけるさまという(これから戦いが始まることを示す)シーンを、頂点にしながら、映画はエンディングを迎えていく構成になっていた。

 

つまり、その後の『弾圧されていくという部分は、ほとんど描かれていなかった』と記憶する。

(ただし、思い違いの可能性もある。この時、あまり全体の流れを理解できないままに、映画を見ていたので。)

 

また、逆に主人公のふみ子の性格として、映画では、完全に『確信を抱いて、決然と戦う若い女性(就職して間もない感じ)』というイメージで描かれていたが、小説の方を読むと、『くよくよ、いろんな点について絶えず、迷っているような、やや中年の域にさしかかろうとしている女性』として描かれている。

 

恐らく、香川京子という人の当時の年齢や雰囲気からすると、小説のなかのような役割はまだ無理だったのかという気もするが、ともかく、随分と違っていた。

(香川京子さんは、1931年12月生まれなので、映画公開の1959年10月時点でまだ27歳くらいであろう。

『生活苦』とか、『夫とわかれるかどうか』を悩み続けていた原作の主人公を等身大に描くには、まだ彼女は若過ぎたのかもしれない。また、彼女を『きっぱりとして闘う女性』のイメージで売ってゆきたいという興行側の意図もあったのかもしれない。)

(つづく)