このプログは、私が読んだ『小説』の紹介なども対象にしている。

軽い小説など、それこそ一晩で、どんどん読んでいけるものだが(ただし、そうして読み飛ばしたものは、内容を忘れるのもはやいという気もする)、今回、取り上げる小説は、結構、骨が折れた。

 

逢坂冬馬(あいさか・とうま)という作家の書いた、『同志少女よ、敵を撃て』という何とも、大昔のもののような肩ひじを張ったタイトルの小説がそれである。

 

ページも402ページまである(本文のほか、いろいろ資料みたいなものが付いているせいもあるが…)。

 

この本の表紙には、『本屋大賞ノミネート』と帯に書かれているが、全国の書店の店員が、『自分が最も売りたい(お客さんにお薦めしたい)本』を投票で選ぶという、(今年で19回目となる)『本屋大賞』に選出されたのが、この『同志少女』である。

(4月6日に、『結果』が発表された。)

 

また帯には、『第166回直木賞候補作』ともあったが、実際、このように候補作5冊のなかに含まれていた。

(ただし、直木賞は芥川賞とともに、1月19日に発表になったが、今村翔吾氏の『塞王の楯』と米澤穂信氏の『黒牢城』が受賞している。)

 

さらに、裏表紙の帯には、『第11回 アガサ・クリスティー賞受賞』ともあるが、本自体のなかにも、次のように、『第12回アガサ・クリスティー賞 作品募集のお知らせ』とか、この本が受賞した時の選評などが収録されていた。

 

アガサ・クリスティーというのは、高校とか学生のころに、いろいろ推理小説などを読んだときに、『推理小説の女王』と呼ばれるような女性(その頃、既に『おばあさん』みたいなイメージがあったが)であることを知っていた。

(彼女の生年と没年は、1890年~1976年ということであるから、私が、比較的そういったものを読んでいた、1960年代には、既にやはりかなりの年齢になっていたわけだ。)

 

しかも、彼女は、実にいろんな小説を書いていたので、この『アガサ・クリスティー賞』というのは、広義のミステリを対象としており、本格ミステリをはじめ、冒険小説、スパイ小説、サスペンスなど、何でもありに近いものらしい。

 

なお、この『同志少女』に詳しく、『アガサ・クリスティー賞』のことが掲載されているのは、この賞を運営しているのが、本を出版している早川書房だから、という理由からのようだ。

 

 

このように、この本は、『面白い、面白い』というイメージを盛んに発散しているが、実は、その固いタイトル(一昔前の『プロレタリア文学』の作品のタイトルみたいだ)でも、うかがわれるように、結構、とっつきにくいところがある。

 

この本の冒頭には、このような地図と、主な登場人物の紹介が書かれている。

 

 

主人公は、セラフィマとあり、『1924年生まれの少女。狩りの名手。愛称フィーマ』と短く書かれている。

 

しかし、本のなかでは、彼女の名前は、『セラフィマ・マルコヴナ・アルスカヤ』であることが明かされている。

 

昔、トルストイやドストエフスキーに挑戦した時は、その中に、実に大勢の人物が登場し、しかもその名前が、これと同じ感じで、長ったらしく(大抵、『愛称』というのが、また別にある)覚えにくいのにとまどったものである。

 

トルストイの場合は、それ以外に、やけに自然描写が細かくて、(今では、歳のせいかいろんな植物に興味を感じるようになっているが)さまざまな樹木の様子が書かれた描写の部分は、まるで『お経を読む』ような、ちんぷんかんぷんの気分であった。

(ドストエフスキーは、それ以上にまたややこしいことが書かれていたと記憶する。『カラマーゾフの兄弟』など最初から読み通すことをあきらめていた。)

 

 

この本には、このような『独ソ戦』におけるナチス・ドイツとソ連の攻防のさまをまとめた図も掲載されている。

 

このような(結構)面倒な本にもかかわらず、この本は、良く売れているようだ。

 

というのは、1941年~1945年に闘われた『独ソ戦』の中のある種の『エピソード』を描いたとも考えられる、この小説が、現在の『ロシアのウクライナ侵攻』の裏側に潜む状況を描いたものとして、とらえられているからのようだ。

(むしろ、そのように宣伝していると言っても良い。)

 

しかし、私がこの本を買ったのは、たしか4月だったけれど、読み始めるまでにかなりの時間が経過し、そして、読み始めて以降も(一時期、多少中断したりして)一週間以上はかかってしまったと記憶する。

 

一見すると、一晩か二晩で読めそうな雰囲気を漂わせているが、実際、読み始めるとひっかかってしまうところが、結構あったのだ。

 

その理由(言い訳?)を多少、挙げてみよう。

 

この本の書き出しは、16歳の少女が登場人物であるため、まるで『童話』のような書き出しである。

 

そして、文体も、少年少女向けの小説のような雰囲気を漂わせていて、容易に読破出来そうな気がしてくる。

 

しかし、読み進むと、妙に『銃のこと』、『その撃ち方等々』(後半では、『戦車』に関する詳しい記述が登場する)について、ある種の『兵器オタク』のように詳しく書かれていると感じる。

 

 

私は、いまだにこれを書いた逢坂冬馬という人の経歴などを良く知らないが、『自衛隊あがりの人』(自衛隊などで武器の訓練を受けたことのある人)なのかしら?と思ったほどである。

 

さらに、この主人公(愛称は、フィーマ)は、親・兄弟等の仇(ソ連に侵略してきた、ドイツ兵によって殺害された)を撃とうとして、『女狙撃兵』になることを志願していくのだが、途中からは、まるで『殺人マシン』か『AIロボット』のような心の持ち主に転化してしまうのである。

(女版ゴルゴ・サーティーンと言っても良い。)

 

 

それで、独ソ戦の攻防が、『ソ連の側』から描かれているというのだが、『これがロシアのウクライナ侵攻を考えるに参考となる小説と言えるのか?』と(正直)非常に疑問も感じた。

(登場人物のなかに、『ウクライナ出身者』も出てくることは出てくるが、それほど『ウクライナ』という要素が重視されているわけではない。)

 

この本に掲載された『アガサ・クリスティー賞』の4人の選者の『選評』はどれも、やたらにこの本を褒めているものばかりである。

 

しかし、私が時々、読んだりする『芥川賞の選評』というのは、結構、多くの場合、けちょんけちょんにけなす人が、何人もいたりして、評価が割れるのが普通であった。

 

だから、『みんながみんな褒めている』ような選評を読むと、『一体、アガサ・クリスティー賞というのは、どの程度のものなのか?』という気がしてくるところもある。

 

まあ、そんなこんなで、この『同志少女よ…』というのは、たくさん本は売れているようだが、(ひょっよすると)最後まで読み通している人の比率は、意外と低いのではないか、という気もしていた。

 

最後まで、この逢坂さんの文体は、『ひどく固い部分』と、『漫画』か『少年少女向けの小説』みたいに妙に砕け過ぎた部分とが、同居しているのが気になっていた。

(つづく)