昨日、アップしたこの記事の続きである。

 

 



在外邦人を『最高裁判官の国民審査』に参加させない現行制度を『違憲』と(15人の裁判官の)全員一致で判断した、今回の判決には、『裁判所の意地』のようなものが垣間見られる。


というのは、前回も触れたが、『国の主張』として、『国民審査は、民主主義の根幹をなす選挙とは位置づけが異なり、不可欠な制度とは言えない』と言っていたという。

もっとそのものずばりの露骨な表現はなかったのかと、『新聞紙面』等で探したが、判決も要旨しか掲載されておらず、わからなかった。

しかし、この間、我が国の行政(なかんずく内閣)がやってきたことを見ると、彼らの本音は明らかである。


まず『立法府』の衆議院議長や参議院議長には、こんな人たちがなっている。



現在の細田衆議院議長の『セクハラ・スキャンダル報道』あるいは元『クイズのおばさん』が参議院議長に成り上がって、ゼレンスキー・ウクライナ大統領のリモート演説の際に、『軍国少女』のような素っ頓狂な挨拶を行っていた山東昭子氏の言動にも象徴的なように、『重みのない人物』を実際の政治活動からまるで引退して、『名誉職の場』に送り込む、そのような恐ろしく『権威を喪失』した存在として、最近の『立法府』の長がある。

また、『司法の長』としての最高裁判所長官も、行政の一存で、自分たちが『好む人物、許容できる人物』をリストアップして、それを押し通していただけである。

かつては『憲法の番人』とされた『内閣法制局長官』を(安倍元首相の思いをそのまま表現してくれるような)小松一郎氏、横畠祐介氏らが第二次安倍内閣で就任して以降、『憲法解釈』はほとんど融通無碍のものになってしまった。


そして、その勢いで、東京高検検事長の黒川弘務氏を定年後も任期延長して、検事総長に据えようと2020年に試みて、それが世間の反発を受け、さらに『新聞記者たちとのマージャン賭博の常習疑惑』まで勃発して、頓挫してしまったのは記憶に新しい。
(これは、その後の、安倍晋三氏の2020年秋の突然の『辞意表明』のきっかけの一つであったことは間違いないだろう。)

このような『総理大臣の暴走』『行政権力の暴走』に対して、恐らく裁判所では大いに不満がたまっていたのであろう。

 


そもそも、『国民審査は大した意義があるものではない』と言わんばかりの国の主張は、『最高裁判事』などどうせ、行政権力が勝手に決められるものだから、『目下の存在に過ぎない』という彼らの本音が見え隠れするものだったと言えよう。

こうした風潮に対して、15人の最高裁の裁判官全員が『違憲』『NO』の判断を下したというのは、彼らの不満が爆発したもののように見える。

しかも、それだけでなく、(学者出身の)宇賀克也裁判官は、『ダメ押し』をするかのように、次のような『補足意見』を提出している。


これは、『情報通信技術の進展』を理由にして、<今の方法では、到底、印刷日数や郵送日数、回収日数など間に合わないではないか>という国の主張に対して、『投票の様式』を変えることも可能ではないか(外国での投票用紙の印刷とかインターネット利用による投票の実施)あるいは(海外の投票の分については)『投票日や結果の確定日について、国内の分と比べて若干の相違が生じても良いではないか』と広く柔軟に判断することを求めるような実務的な判断を書いている。

以上を見てもわかるように、今回の『最高裁判決』は何も『国民審査の違憲性』に関してのみならず、さまざまな問題に関して、今後、裁判所がより積極的な役割を果たしうることを示唆するようなものになっていると感じた。


これこそ、横暴を極める『行政権力』に対する『蜂の一刺し』であり、同時に、それに媚びたりしている(ようにも見える)現在の『メディア、マスコミ』のありように対して、覚醒を迫る?判決であったとも言えるのではなかろうか。