一昨日(11日)に東京・大森の『キネカ大森』で映画『ひまわり』を見た。


その『第一報?』みたいなものは、既に書いているが、それだけでは何となく名残惜しい気分がするので、この映画を見て思い出したことなど、書いてみたい。

 

 

(なお、この日、映画を見た後に洗足池周辺を散策したが、それについては別の記事に書く予定。)

なお、以下、『ひまわり』の筋の一部について、やや『ネタバレ』気味の記述も含んでいる。
(ストレートに書くつもりはないが…。)

この映画、ある意味では、不思議な映画である。

 


最初のほうに、『若いころ?』の二人の主人公(アントニオとジョヴァンナ)の姿が登場する。
基本的に二人は『いちゃついて』ばかりいるのだが、彼らは妙に老けた感じもしていた。
(こんなマストロヤンニは見たことがない、という気さえした。)


ただし、歳月が流れて、彼ら二人が『老けた様子』で登場すると、これまた『一挙に老けすぎる』という印象があった。

実際は、このころ(1970年で計算)、マストロヤンニは46歳くらい、ソフィア・ローレンは(まだ)36歳くらいの実年齢である。
(今の私から見ると)十分、若い年齢なわけで、いくら『とんでもない経験をしてしまった』という設定であっても、ちょっと老け過ぎであった。

但し、その後の二人は、映画のなかでも、また(若さを取り戻し)、『ソフィア・ローレンの平常運転』のような(ある種の)妖艶さを発揮していた。


この映画が、どことなく『年寄り臭い?』雰囲気を漂わせているのは、監督のヴィットリオ・デ・シーカが(映画公開の4年後の)1974年に73歳で亡くなったのだが、この時点で既に、70歳くらいのはずで既に『老境』に達していたのかもしれない。

考えてみると、私は、デ・シーカ監督の映画というのは、あまり見ていない。


その代わりに、たくさんの作品を見て、しかも印象の強い(イタリアの)映画監督と言えば、フェデリコ・フェリーニ監督(1920年~1933年)である。
(もっとも、デ・シーカ監督は、1901年~1974年だったからこの二人は、『世代』を異にしている。)


特に、私が高校生の時に見たのだと思うが、映画『81/2』(当時は、<はっか にぶんのいち>と発音していた)は、強烈な印象を残した。
この映画は、日本では1965年に公開とネットで調べると出てくるが、私は新宿の『アートシアター』系の映画館で、見たと記憶している。
(イタリア・フランスの合作映画だったらしい。)

この映画では、『お祭り』(カーニバル)的なシーンがたくさんあって、同時に、主人公の映画監督が、『映画作り』に行き詰まり、また、妻と愛人?との間に揺れ動く、『初老の悩み』みたいなものが描かれている。
(ニーノ・ロータの哀愁漂う音楽が印象的でもある。)

この映画で、主人公の映画監督のグイドの役をやっていたのが、マルチェロ・マストロヤンニである。
私は、まだ高校生だったのだが、それでも『渋い』と思った。

これが、マストロヤンニとの最初の出会いだった。映画『甘い生活』(1960年初公開)も相前後して見たと思う。

だが、今になって思うと、マストロヤンニは(『81/2』撮影のころでも)まだ39歳か40歳になったばかりの年齢のはずだ。
彼は、結局、(意識的に)『老けた』演技をしていたのだった。


そのころ、私はイタリアの女優としては、ソフィア・ローレンよりも、クラウディア・カルディナーレのほう(彼女は、『81/2』にも出演していた)が、印象が強かった。

今、調べてみると(マストロヤンニは、1996年ととっくの昔に亡くなっているのに対して)ソフィア・ローレンもクラウディア・カルディナーレもまだ健在のようである。
(もちろん、マストロヤンニのほうが、10年くらい、生まれは早いのだが、それにしても『女性のほうが、生命力があって、たくましい』という気が何となくしてしまう。)

ソフィア・ローレンというと、ここ何年か、昔の日本映画を、映画館とか『国立映画アーカイブ』(東京・京橋)などで見ることが多いのだが、女優の池内淳子さんが、どことなくソフィア・ローレン似だという気がしている。
 

『色気』も感じさせるが、同時に『気風』がよくて『男っぽい』役も似合っていた。
池内淳子さんも、既に2010年に76歳で亡くなられている。

こういう昔の映画の話を書いていると、結局は、(ほとんど)みんな『故人』の話にばかりなってしまうのだが…。

しかし、古い映画を上映すると、スクリーンの中では生き続けているのだから、不思議なものである。
(もっとも、フィルムは劣化するし、いざデジタル版に修復しようとしても、『時、既に遅し』ということも多いようだ。)