昨日(28日)の午前から午後にかけて行われた『第94回アカデミー賞授賞式』の模様をWOWOWの中継映像で見ていた。
すると思わぬ、『殴打(びんた?)事件』が発生。
とっさのことに、写真など撮っていなかった。
この『授賞式』の模様が、『字幕付き』で夜(午後10時から午前1時過ぎまで)また放送された。
この事件をどうまとめるのか、興味があったのでそれを見ていた。
途中、編集の関係によるものか、なかなか問題のシーンが放送されない。一瞬、『まずい映像』だからカットしてしまったのかとも考えた。
だが、ちょんと存在していた。
『視聴率』(というか動画再生回数というべきか)からいっても、これをカットしてしまえば、視聴率=再生回数の伸びは見込みにくいことだろう。
そういう意味では、『商売』『話題性』の観点からも、これを『没にしてしまう』ということは考えにくかった。
この部分、スマホを構えながら、映像を見ていた(ちなみに、WOWOWの録画機能はまだ申し込んでいない。申し込むとすれば、録画機を登録する分、料金がアップしてしまう)ので、要所要所で静止画が撮れた。
それを順番に並べてみる。

これが、問題のジョークをかましたところ。
ウィル・スミスは最初、穏やかに笑っているようにも見えるが、これは字幕表示とのタイミングのズレもあるので、前後を見ないと彼の反応は、いまいちわからないだろう。

クリス・ロックは二度、同じセリフを言ったのか?
ともかく、会場にウケルものと得意そうに、言葉を発している。
(このセリフ、彼のとっさのアドリブというよりも、構成作家というのか誰か台本を書く人がいて、あらかじめ準備されたものの性格が強いのだろう。)

このセリフの『暴力性』を確認するためには、(妻である)ジェイダのヘアスタイルがどのようなものか、知っておいたほうが、良いだろう。
彼女は、脱毛に苦しんでいて、そのためこのようなヘアスタイルにせざるを得なかったのだと、(映画通で)自身も、抗がん剤による脱毛症に苦しんだ(元フジテレビで、フリーの)笠井信輔アナウンサーは、SNSで発信しているという。
このような病気に苦しむ人に投げつける『ジョーク』の暴力性を知るべきだと主張している。

先の発言のあと、『ほんの冗談だよ』とクリスは言っている。
(その前に、会場の『笑い』の反応を受けて、いかにも得意そうな表情を浮かべていた。)

すると、つかつかとウィルが歩み寄る。
かなり、クリスはびびっていた。

この後、ウィルは『平手打ち』を浴びせる。

だが、クリスは『ウィル・スミスに思いきり殴られた』と悪びれない。
そして、『皆さんは、すごいのを目撃しちゃいましたね』というようなことを言っていたような記憶もある。
実際、似たようなことを、この後でも言っている。


ウィルは、自分の席から、なぜこんなことをしたのかの説明をするかのように、
『僕の妻の名前を口にするな』と叫んでいた。
(このほか、クリスに対する罵倒の言葉も言っていたようだ。例の『放送禁止用語』の類である。)
それに対して、クリスのほうはあくまでも軽い感じだ。
『おいおい ジョークだろう』とか、『わかったよ』『もういいだろう』などと言っている。
これも、台本に書かれたことを職業意識から言っているだけ、という気分ならこの程度の言葉しか出てこないだろう。
(台本では、ウィルが『平手打ち』をかますためにやってくるということは、想定していなかったようだから…。)

さらに、この後、『テレビ史に残る名シーンだった』とまで言っている(これも台本には出ていないはずだ)のだから、ある種の『確信犯』だと言っても良い。
だからと言って、『暴力はいけないのではないか?』と思う日本人も多いことだろう。
実際、日本でこんなことが起きたら、無条件で『暴力に走った人間』のほうが袋叩きにあうことだろう。
芸能界追放処分に合うことも、十分、予想できる。
しかし、私は、『日本の文化』と『アメリカの文化』は違っているという気がする。
アメリカでは、『公衆の面前で、恥をかかされた場合』には、その恥に対して毅然として反撃することは、必ずしも悪いことではない。
(同じような文化を持つ国は、アジアでもかなりあるようだ。)
多少の暴力を含んでいたとしても、むしろ、黙っていないで敢えて反応したことの方が称えられる可能性もある。
たしかに、『妻が侮辱された』場合、なぜ、『夫の方が相手に暴力を発するのか?』という問いはありうる。
これに対して、『妻(女性)を保護すべき存在ととらえているのではないか?』『妻を夫の付属物として考えているが故に、このような行動が称えられるのではないか?』それは『ハリウッドが今、推奨している価値観に反するのではないか?』といった批判が上がることは十分、考えられる。
実際、今回の事態に対して、そのように発言している日本のコメンテーターもいるようだ。
しかし、そういう風にいったら、そもそも『アカデミー賞』の各種のお定まりの光景自体が、矛盾している。
なぜ、あれだけ『ジェンダーによる定型的な区分け』に反対しておいて、なおかつ『レッドカーペット』の場面では、あのように女性のフォルムや男女のステレオタイプの区分を妙に強調するようなファッションの人たちが多いのだろうか?
まるっきり、矛盾することを平気でやっている。
私は、今回の『作品賞』の候補作、『パワー・オブ・ザ・ドッグ』をまだ視聴していないので、何とも言えない部分もあるのだが、ウィル・スミスが今回、披露したのは、伝統的な『マッチョ的な文化』『強い父親が家族のメンバーを外敵から守り、保護する』という考え方であろう。
結局、なんだかんだいって、このような『世界観』がアメリカには広く浸透しているようだ。
そして、『差別はいけない』などと言っても、実際は、『差別されている者同士』がお互いに、各種の『差別』を行っていることがしばしばある。
『非差別者よ、団結せよ』などと言ってみても、それはなかなか難しい。
『本音と建前のギャップ』はもちろん、日本に固有のものでは全くなくて、アメリカにはアメリカなりの『本音と建て前』が存在している。
それをうかがわせるような(まあ、多くの人が知っていることだが…)出来事だったような気がする。
もっとも、それを様々な形で問題にして、『記録に残そうとする』そういう点では、アメリカには、ある種の『強制力』と『規範』が存在しているようだ。
ところが日本のほうが、(『みんな同じ日本人?じゃないか』という妙な、共通性となれ合いが存在していて)圧倒的に『誤魔化しの文化』『水に流す文化』が強いということは、感ぜざるを得ない。
これが、日本に『新しい才能や意欲を持っている人々』が入ってきにくくさせている大きなハードルだとは思う。
