昨日(11日)と同じ事件を取り上げる。

 

 

これは、『東京新聞』の11日付の記事(共通テストのカンニング事件に、『協力者』が存在していたという話)。

この内容が気になって、『朝日』『読売』『産経』の記事と比較してみた。
するとどうやら、『読売新聞』が最も詳しいようである。
(ある種の『スクープ』ということか…。)




『読売』は1面に上の記事を掲載するほか、28面(社会面)には、『不正受験』という囲み記事?も載せている。
(上)とあるので、少なくとも2回は続くのだろう。

しかし、この記事を読んでいくと、どうやら警察(検察も?)が犯行を行った『女子学生』にまんまと騙されていたというか、手玉に取られていた様子が浮かび上がってくる。


というのは、(以下、記事の内容にしたがってまとめていく)『女子学生』が突然、警視庁の捜査員に『協力者の存在』を打ち明けたのは、『任意の取り調べが始まってから数日後のことだった』と書かれている。

この『数日』間の間は、『女子学生』は逮捕されることもなく、『任意の取り調べ』を受けていたことになる。
 

つまり、彼女は、実家(母親と祖母の住む)に毎日帰ることを許され、『通勤』みたいな形で実家と、香川県丸亀警察署?の間を往復していたはずである。


(なお、彼女の実家の最寄りというか、本来の管轄の警察署は、高知県警なのだが彼女は、県をまたがったほうが、自分の『個人情報』が公開されてしまうことが少なかろうと計算して、わざわざ隣の県の警察署に出頭したというようなことを言っていると、前に報道されていた。

 

これが、本当の話だとすると、かなり『したたかな犯行者』であると言える。

あるいは、この種の『推理小説』『犯罪小説』の愛好者なのだろうか?)

そして、丸亀警察署?に警視庁から専門家?が派遣されて、今回の取り調べを行っていたという。

『読売』の記事によると、警視庁が女子学生を逮捕しなかったのは、『カンニングは受験の公平性を害するが、入試の主催者が失格にすれば十分で、本来は刑事事件にそぐわない』との考えがあったという。


また、『カンニングに対処するのは大学入試センターの本来業務の範囲内で、<業務妨害>に当たらないのではないか』との見方もあったという。

しかし、これは余りにも、(現実離れした)『甘すぎる見方』であろう。
 

この『女子学生』は協力者をも自身で調達して、この『組織犯罪』を敢行した。
決して、単なる『可哀そうな未成年の受験生』といった存在ではない。

彼女の犯行のレベルは、仮に(現状では)愚劣な低水準のものであったとしても、もしもこうした『組織犯罪』が『処罰の対象にならない』というようなことが、世の犯罪組織(いわゆる『特殊詐欺』、『還元金が受け取れる』とかさまざまな手口で、多額の金額を巻き上げる集団等)に知れ渡れば、彼らは間違いなく、『共通テスト』その他、各種の『資格試験』『入学試験』等々で『組織的カンニング』をビジネスとして展開していくことだろう。
(もしかしたら、既に、一部では実行されているのかもしれない。)

ちょっと考えただけでも、そもそも、この『女子学生』が逮捕されなかったのは、彼女が『証拠隠滅』とか『逃亡』の恐れがないと判断されたからであろう。
(そうでなければ、『逮捕』される筈だと思う。)

しかし、実際は『協力者』『共犯者』が存在したのであり、彼女が実際にそうしたかどうかわからないが、『帰宅を許されたその時間内』において、その共犯者に対して、ネット等を通して『証拠隠滅』の打ち合わせをしようとすることは、十分、可能だったのではないかと推測する。
 

(いずれにしても、『読売』の記事で、彼女が『協力者の存在』を打ち明けたとされるまでの数日間、彼女は、さまざまな『工作?』を行う自由を与えられていたのは間違いないことだろう。)

つまり、警察はドジを踏んだのであり、(この際)警察に代表される『社会の公共性』も踏みにじられたということになる。

(『単独犯行』を警察が容認して、『逮捕されない』ことがわかったときに、犯行者は『安堵の気持ち』を感じていたことだろう。)


なぜ、このようなことになるのだろうか?
 

『女子学生』に対するジェンダー差別(というか、一種の『見くびり?』)がそうさせるのかもしれない。

(しかし、『女子学生』であっても、実際には殺人などを行う者も存在している。

今後、ジェンダー間のギャップが縮小するとともに、恐らく女性による『殺人、傷害』事件なども増加していく可能性がある。)


いずれにしても、こうした『読売新聞』の記事からは、日本の警察機構の『この種の犯罪』に対する抵抗力のなさが、透けて見えている。

『共通テスト』のルールを無視し、破壊したことは、たしかに何かモノを盗んだわけでも、モノを破壊したわけでもない。
 

しかし、『共通テスト』のルールに代表されるものは、日本を支えている『暗黙のルール、システム』の一つであり、こうしたシステムが、無残にも破壊されてしまうことは、この社会を支える信頼装置?の一つを破壊することと同じである。

もちろん、現在、『共通テスト』等に対する信頼というか『信仰』は過剰すぎており、その欠陥が十分、把握されているとはいえないだろう。
しかし、だからと言って、何でも破壊しても良い、ということでもあるまい。

今、『デジタル化推進』とか、『デジタル・トランスフォーメーション(DX)』とか言葉ばかり踊っているが、肝心の中身の空洞化は、ますます進行しているという気がしてならない。
(最近の、新型コロナ、オミクロン株に対する対応を見ても、全く『デジタル化』が機能していない、むしろ間違った『デジタル化』がさらに事態の混乱を増幅させているといった姿を見ることもできる。)