古い黒澤映画を、DVDで見ている。
今東京・京橋の『国立映画アーカイブ』で、原節子、山口淑子などの映画女優の『生誕100年』を記念した上映特集が行なわれている。

だが、コロナ禍のせいでカミさんの(不要不急の外出に対する)監視?なども『強度』を増しており、私自身も、政府や小池都知事などのやっていることに、『一抹の不安』を感じているので、購入済みの前売りチケットの権利は放棄して、『TSUTAYA』のレンタルDVDなどを借りてみている。
(もちろん、DVD化されていない作品も多数あり、それらはこういう方法では見ることは出来ない。)

前の記事にも書いたが、こんなのを見ている。


これは、1947年公開の黒澤明監督の『素晴らしき日曜日』というもの。
実は、『国立映画アーカイブ』の原節子や山口淑子特集には入っていなかった。

だが、『TSUTAYA』で『わが青春に悔なし』という同じく黒澤明監督作品を借りに最寄りの店に行ったら、それが置いてなくて、代わりにこの『素晴らしき日曜日』というのがあったので、ついでに借りてきてしまった。
(『素晴らしき日曜日』は、『TSUTAYA』の別の店にあることがその後、わかったので、そこまで借りに行った。)


現時点で、両方とも見ているが、『素晴らしき日曜日』のほうから感想を書いてみたい。
(以下、やや『ネタバレ』部分を含んでいるので、知りたくない人は、読むのを『中止』していただきたい。)

この映画、いわゆる有名女優は、出ていない。

代わりに、中北千枝子と沼崎勲というコンビが主演している。

中北千枝子という人は、その頃の映画によく出てくる人で、1926年生まれだというから、当時、21歳くらいのはず。
年齢的には、若いのだが、この人は『生活感のある』タイプで、あまり『青春映画の主演女優』という感じの人ではない。

また、沼崎勲という人も、1916年生まれで31歳くらい。
同じく、『青春映画の主演俳優』という感じの人ではない。

戦時中の影響もあるのだろうが、『生活でくたびれた感』の漂うような人である。


『黒澤明という時代』という本を書いている小林信彦氏(『週刊文春』にエッセーを連載している。1932年生まれとのこと)に言わせると、こんな辛辣な批評を書いている。

(この人は、基本的に『リアルタイムで見たときの感想』を頼りにしながら、この本を書いているようだ。)

<たしかに「素晴らしき日曜日」にはスターがいない。
主役の男女は、沼崎勲と中北千枝子である。

沼崎は昭和11年にP・C・Lに入社した地味な役者で、身体の大きさがとりえである。中北千枝子は戦争末期にデビューした人で、後年、この映画を『自分の大事な代表作』と回想している。
 

沼崎勲は組合幹部だったらしく、『完全なミスキャスト』(堀川)なのに「僕の演技プランは……」などと言い出して、黒澤を悩ませたらしい。『らしい』と書くのは、この時、堀川は結核再発で病床にあったからだ。>

 

この映画のテーマは、戦後のある日曜日、楽しく過ごすためのカネもない、一組のカップルが『一日をどう過ごそうか?』とあれこれ悩むさまを描いている。

特に男の方は、女のことを多少、『負担に感じている』ようで、わざと邪慳な態度で彼女にあたったりしている。
男は、青春特有の『肥大化した自意識』で自分がつぶれそうになっているのを、女に当たったりして、『みっともない』状態である。

これが、『いかにも青春まっただなか』という感じの肉体を持った俳優を使って、映画作りがなされれば、それなりの納得感もあろうが、何せ、沼崎は『身体の大きさがとりえ』と書かれるような俳優だから、どうしようもない。


当初は、黒澤はセミドキュメンタリー方式での撮影を考えていたらしいのだが、『新人同様の沼崎勲がロケ地の見物客の前でアガってしまい、演技が出来なくなった』という。
『沼崎勲はミスキャストだったのだが、ほかにスターがいなかったのである』という。
(それに黒澤は、まだ、映画監督になって作品は6作目に過ぎなかった。映画監督の序列でいうと、まだまだ下だったのだろう。)



<自分が下手な癖して、『僕の演技プランでは……』なんて言いやがるから……ほんとにぶん殴ってやりたいぐらいだった>と、後に黒澤明は愚痴っていた(『評伝 黒澤明』)>
(『評伝 黒澤明』というのは、黒澤の助監督を務めた経歴のある堀川弘通氏の著書である。)


ではなぜ、このような沼崎明を起用せざるを得なかったかというと、当時、東宝は第二次東宝争議と呼ばれる労働争議の渦中にあった。
終戦直後、GHQの指導のもとに、『民主化』『労働組合づくり』などが推奨されたが、やがて国際情勢の変化や、GHQの政策変更によって、今度は、『左派的な労働組合』を弱体化させるべく、首切り(レッドパージ)攻撃などが行われていた。
(GHQ内の勢力争いもあって、その権力関係が変わっていた。)

もっとも、その背景には、日本共産党を中心とする左派が、教条主義的な争議指導を行なっていることに対する反発もうずまいていた(という)。
この『黒澤明という時代』で紹介されている限りでも次のような記述から、その一端がうかがわれる。

(だが、小林信彦氏は、『東宝のストライキには触れないつもりだったが、ほんの少し書かないと、話が進まない。だから、本当に、ひとこと』といった注を付けながら、この部分を書いている)。

会社側は、『組合分裂』の工作を行っていて(戦後、一貫して『左派的』『戦闘的』な労働組合に対しては、会社が介入して『第二組合』を分裂されるというのが、常套手段だった)、当時の大スター、大河内伝次郎が10人のスターを東宝のなかで集めて、『十人の旗の会』というものを結成した。

そして、この10名がまず東宝を離れ、彼らを中心に反組合派の450人(組合員はもともと1300人だったらしい)が『新東宝』という別会社を発足させた。
(こうしたことが行なわれてしまったのは、いろんな要因があったようなのだが、『組合の指導部』の硬直した争議指導も、その要因の一つだったようだ。)

この『十人の旗の会』には、大河内伝次郎、長谷川一夫、藤田進、黒川弥太郎、入江たか子、原節子、花井蘭子、山根寿子、山田五十鈴、高峰秀子の10人が名前を連ねていた。
(この名前だけ見ても、必ずしも『反動的』なイメージを受ける人たちばかりではない。)

それで、黒澤明はというと、『第二組合』に走るわけでもなく、共産党主導の指導部への不満もあったが、『この大事なときに、組合が分裂してどうするんだ。今こそわれわれは団結を固めよう!』と呼びかけるといったスタンスのようだった。
(この東宝争議については、また改めて少し詳しい本などを読んでみようかと思っている。
間違いなく、過去に一度は読んだことがあるはずなのだが…。)

ともかく、こうした経過で、東宝で映画作りを進めるグループにとっては、当時、『労働組合の影響』というものがこれまでになく比重を増したようである。
 

それで、先ほどの沼崎という俳優は、ともかく『労働組合の活動家』の一人だったようで、演技力はさておいて、『組合用語』などを羅列した『理論』のほうは一人前だったという。

(ただし、この沼崎さん、1953年にまだ若くして亡くなったようだ。仕事が入り過ぎたための『過労』だったみたいである。)


それで、本来なら、『青春の悩み』と『恋愛関係の微妙なやりとり』さらには『戦後の苦しさ』などがミックスした作品になるはずなのだが、この『素晴らしき日曜日』の前半は、ともかく『暗く』『身勝手な男(主役)』の登場する『嫌な感じの映画』になってしまっている。

いちおう、後半では、二人が『野外音楽堂』で『未完成交響楽』を指揮するマネをして、感動するという『ちょっといい話』になって終わっているが…。


こういう予備知識は、ほとんど仕入れないままに、この映画のDVDを見たので、それなりに楽しめた。
(ただ、見ていて何となく『イライラした気分になる』映画ではある。
題名の『素晴らしき日曜日』というのは、一種の『反語』だと思った方がよいかもしれない。)
 

なお、その後に見た、『わが青春に悔なし』は非常にインパクト度の高い映画である。
(つづく)