この記事の続きだ。

この本の興味深いところは、ひとくちに『タイワニーズ』と言っても、取り上げられている対象者たちのポジションや意識が、かなり異なっている点である。


例えば、前回紹介したジュディ・オングと同じ章で女優の余貴美子さんが取り上げられている。
余貴美子と言えば、私が近年見る映画やドラマに、いわゆる『脇役』という位置づけだが、良く出演している女優である。
(失礼ながら、『前から、こんな人いたっけ』という疑問も多少、感じていた。もともとは、舞台出身の人だという。40歳を過ぎてから、映画やテレビに本格的に出演し始めたようだ。)


ところがこの本によると、彼女は『客家(はっか)』の出身であり、彼女の一族は戦前、台湾から日本へ『生きるため』にやってきたのだという。
(父方の祖父が台湾の桃園から神戸に渡ってきたそうだ。父は飲食店経営で、母は『東京育ち』『日本舞踊の踊り手』だった『日本人』である。)

しかも、余貴美子自身は、『客家』ということについて全く意識がなく、ただ自身が持っていた<外国人登録証明書(現・在留カード)の出身地欄に「広東省鎮平村」と書かれてい>たことのみしか、自覚はなかったという。


彼女は、NHKの『ファミリーヒストリー』という(さまざまな人たちのルーツを探る)番組のナレーターをずっと務めているが、ある時、彼女自身の出身地が話題になり、そのことがきっかけでナレーターだった彼女自身が、2012年の番組の中では『出演者』になってしまったのだという。
(なお、『客家』というのは、中国の黄河流域から南方にくだった『漢族』の一種だが、言語や生活習慣などは、独自のものを保持している。)

余貴美子さんは帰化しておらず、中華民国の国籍のままである。
この番組で取り上げられたために、初めて台湾の桃園市に『帰った?』。

そこで、『客家(はっか)』の人々と出会い、自分のルーツが分かって、うれしかったという。
『私の中で、客家人という感覚が、何なんでしょうか、急速に、突然、やってきたんです』
と話している。

このように、前回、取り上げたジュディ・オングさんとはまるっきり異なるポジションから、(この本でいう)『タイワニーズ』の一員である自身を発見している。


このほか、最初にこの本の『紙版』を日本で購入したときに、まっさきに読んだ章がある。
それは、『台湾で生まれ、日本語で書く』というタイトルを付けられた第二章である。
作家の東山彰良(あきら)と温又柔(おん・ゆうじゅう)の2人がこの章では取り上げられている。

私は、東山彰良氏の小説は、少なくとも2冊は読んでいる(温又柔氏の小説は、まだ読んだことはない)。
彼は、2015年7月に『流(りゅう)』という作品で直木賞を受賞した。

この作品は、戦後70年代の台湾を舞台にしていて、一種の『青春小説』という趣がある。
私はこれを読んで(もっとも、途中ひっかかってしまって、一度は挫折して、その後改めて読み直した)、さらに『僕が殺した人と僕を殺した人』という受賞後の(より長い)小説も読んだ。

だが、『不覚?』なことにこれらを読んでも、私は東山氏が現在でも、『中華民国国籍』を放棄していない『外国人』だということを意識化することができず、何となく彼のことを、『たまたま台湾で生まれた日本人』だと思い込んでいた。

その後、ようやく彼の書いている台湾での若者たちの対立・けんかが台湾における『本省人』と『外省人』の対立であり、彼自身、(蒋介石の軍隊とともに台湾にやってきたのが多数である)『外省人』という立場にあることを、意識化することができるようになった。


そういう意味では、東山氏のどこか『とんがっている?』かのようにも見える日本のメディアに対する対応は、彼自身が『外省人』であるのに、それを受け止めようとしない(というか、『台湾にいる人って、皆、同じでしょ?』みたいにとらえる)ことへの『反応』であるとも言えるのだと思う。


それに対して、温又柔さんの場合は、『真ん中の子どもたち』が、芥川賞の候補作になったことが話題になった。
というよりも、この作品の『評価』を巡って彼女が、(よりによって?)審査員の『大先生?』にかみついたことが話題になった。

彼女は、『真ん中の子どもたち』で<日本人の父親と台湾人の母親のもとに生まれ、日本で育った19歳の「私」が、中国語を勉強するために上海へと旅立ち、台湾人の父親と日本人の母親を持つ仲間と出会う>ことを書いている。

その中で<1年間の漢語学院での日々を通して、日本、台湾、中国という三つの「国」の「真ん中」で、言語とアイデンティティが複雑に絡まりあった境遇を否応なしに生きる「子どもたち」の姿を、鮮やかに描き出していく。>、このように『タイワニーズ』でもまとめられている。


ところがこの作品に対して、選考委員の作家・宮本輝氏(私は、この人の作品も読んだことはない。たが、彼の小説を原作とする映画またはドラマは見たことがあるのかもしれない)は、次のような講評を月刊『文藝春秋』誌上で発表した。

<これは、当事者たちには深刻なアイデンティティーと向き合うテーマかもしれないが、日本人の読み手にとっては対岸の火事であって、同調しにくい。
なるほど、そういう問題も起こるのであろうという程度で、他人事を延々と読まされて退屈だった。>
(まあ、見方によっては、これは『率直すぎるほど、率直』な感想といえるのかもしれないが…。)


これに対して、フェイスブックとツイッターを駆使して、猛然と『反論』したのが、おかっぱ頭がトレードマークになってしまっていて、一見、おとなしそうな温又柔氏である。

<どんなに厳しい批評でも耳を傾ける覚悟はあるつもりだ。でも第157回芥川賞某選考委員の『日本人の読み手にとっては対岸の火事』『当事者にとっては深刻だろうが退屈だった』にはさすがに怒りが湧いた。
こんなの、日本も日本語も、自分=日本人たちのものと信じて疑わないからこその反応だよね>
このことが、『タイワニーズ』では取り上げられている。


しかも興味深いのは、東山氏と温氏、二人は温氏が前回の台湾総統選で『蔡英文』支持であるのに対して、東山氏ははっきり明かしていないが、どうもそうではないらしいというように、台湾の政治状況?に対する見方には差があるようだ。

にもかかわらず、温氏は東山氏を『哥哥』(ガーガー、お兄さん)と呼んで慕っているのだという(東山氏は1968年生まれで、温氏は1980年生まれである)。
彼らは、ある地点では明らかに『共闘をする』のである。

ここに『タイワニーズ』ならではの『選択』があり、そのことをすくいとって、ていねいに描いているのがこの本である。
(つづく)









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