この記事の続きだ。


前回、『その4』を書いたのは、5日だから、随分、間があいてしまった。
『尻切れトンボ』で終わってしまうのは嫌だから、何とか結末をつけたい。

ただ、今回を『最終回』とするのは、少し無理があるので、次々回あたりの『その7』を『最終回』とするつもりで進めていきたい(場合によっては、『その6』あたりで『最終回』になるかもしれない)。


前回は、王育徳さんが、末廣公学校で日本人教師の『安田先生』の励ましを受けて、生まれて初めてくらいの『感激』をしたと書いている部分を紹介した。

子供ながらに、日本人(内地人)と台湾人(本島人)の間の数々の差別を感じていた王育徳少年、それだけでなく、異母兄弟、異母姉妹たちと同居して(おまけに生母は、早く亡くなってしまって)自宅のなかでも『居心地』の悪さを感じていた王育徳少年が、初めて自分を『肯定』してくれる存在を見つけた瞬間だったのだろう。

(もっとも、『安田先生』の方からしたら、あるいはさほどの『思い入れ』はなく、ごく『普通』に、有望そうに見える『植民地の子供』を励ましただけのことだったのかもしれない。)


この後、王育徳さんと日本人との間が、『いい関係ばかり』であれば、それこそ『美談』で終わってしまうのだろうが、そういう『単純な話』ではおさまらない。

昭和11(1936)年、王育徳さんは台南一中を受験して、ようやく合格した。末廣公学校のころから、南門小学校に編入しようとして、何回も失敗し、さらに前年に台北高等学校の尋常科を受験して失敗していたので、台南一中は第二志望だったという。

台南二中という選択肢もありえたが、台南一中を選んだのには、次のような理由があった。

<国語の力をつけるには、何といっても内地人の間に入っていくことが一番の早道である。本島人の多い台南二中に行っては、国語の力はいつまでたっても身につかない。>


ここでいう『国語』とは日本語である。
台湾人にとって、日本の統治時代は、『国語』は日本語であり、国民党の統治時代には、それは中国語(北京語)に変わっていった。

どちらも、彼らのほんとどが日常的にしゃべっている言語(台湾語、あるいは原住民の言葉)と異なっている。
しかし、王育徳さんは、台南一中で本島人と内地人の間の『差別』を実感することになる。


台湾ではこのころ(昭和11年、1936年のころ)、『皇民化の波』が押し寄せていた。
名前などでも、『皇民らしい』つまり『日本人らしい』ものが、より価値があるといった風潮が広がっていく。

例えば、軍人の先生が指導する『教練』の時間に、生徒たちは自分の名前を大声で唱えるという、毎日のルーティンがある。

<内地人はたいてい名字が二字で、大音声を張り上げるのに語呂がよい。本島人は苗字が一字、名前が二字で、個々の字の発音も妙であれば、上下のバランスもうまくない。

「オウ イクトク」
と声を張り上げたら、ドーっと哄笑が起こった。


「何だ、オウ ピクトクか」
とまぜっ返すやつもいた。>


<終わり近くなって、葉盛吉の番になる。どうなることかと見ていると、
「ヨウ モリキチ」


というではないか。何ということだ。彼は本当はヨウセイキチなのに、語呂が悪いから、サル知恵を働かして、「ヨウ モリキチ」とやった。

自分で改姓名をしたのでは世話がない。ところが、
「ついでに、葉っぱと言ったらどうだ」
と悪童どもは容赦しない。>

場合によっては、子供のほうが、大人よりも残酷だと言えるだろう。
このような風潮が子供たちの間にも広がっていったのには訳があると、王育徳さんは書かれている。

<一中に入る年(1936年)の2月に2・26事件が起きている。

この事件が内地人に与えたショックは大きいものがあった。店の両隣で、株屋と更科ソバ屋を開業している二人の内地人の店子が、うちにしゃべりにきて、「日本はいったい、どうなるのでしょうね」と心配そうに言っているのを聞いた。

一方、中国大陸の排日・抗日運動はますます激しくなり、このままでは両国の関係はただではおさまらない、という不安と緊張が重苦しく台湾をも覆ったという。>


<時局の緊迫という理由で、このころから皇民化運動が大車輪で推進されるようになった。
「迎馬(本当は女偏がつく--引用者注)祖」(馬--これも女偏がつく--引用者注--祖行列)が禁止されたのをはじめ、多くの寺廟が整理され、大麻(神社のお札)の奉祀が奨励されるようになった。一方で「日本精神」の
高揚、国語の普及、台湾人の姓名を日本名に改姓することが推奨された。>

<日本人は、1936年までの40年間は、台湾人の言葉も風俗も宗教も容認していたのである。(省略)皮肉なことに皇民化政策が推進されたことで、逆に台湾人意識が芽生えたとも言える。>


この本では、この後、台南一中における、日本人生徒と台湾人生徒との対立(けんか)が描かれている。
これは、ごく些細なことから始まった。
王さん自身が、その発火点となった。

<「台南一中だろ」

「……」

「何年だ」

「二年生です」

「上級生に対して、なぜ敬礼せんのか」

「は、あの、つい……」

「ついどうしたというんだ。本島人だからか」

「いえ、そうじゃないんです。そういう気持ちは少しもありません」
(省略)


「本当だな。本島人でも上級生は上級生だぞ。以後気をつけろ。よし、今日はこれで許してやる」>


ところが、『かれらは私たちが3年生だと知って、4年生の内地人に訴えたのである』。


<「おい、王に楊。おまえたちは夏休みに海水浴場で、下級生を殴ったそうだな」

「殴ったなんてウソです」
私は弁解した。こうとわかってたら、本当に殴ってやるんだと残念に思った。
(省略)


「だいたい本島人が内地人に対して偉そうな口をきくとは生意気だ」
前からピシッと頬っぺたに一発食らわされた。


「下級生が上級生に敬礼しないから説教したんです。どこが悪い」
(省略)


「本島人と内地人の区別はないはずだ。われわれは学校の規律のことを思って、やってやったんだ」

「何を。きさまも生意気ぬかすか」>


この結果、<全校の本島人を渦中に巻き込む結果となったのである。本島人の上級生は内地人の下級生の前に、完全に威厳がなくなった。自然、私たち二人は全校の本島人からも恨まれる羽目に陥った。かれらは白い目で私たちを見た。>


<シナ事変が始まると、私たちは「シナ事変日誌」というのを書かされた。
一週間ごとに提出して、学級主任の検閲を受けるのである。これは大変な精神的負担で、南京が陥落したといっては皇軍の勇猛を讃え、蒋介石が重慶に逃げたといっては、シナ兵の弱いことを嘲笑った。(略)

ときには、本当の気持ちを書いてみたり、ときにはウソの気持ちを書いてみたり、一生懸命努力したが、それでもときどき、「同じことを何回も繰り返している」とか「突っ込みが足りない」とか赤インクで批評が書かれて、いい加減うんざりした。>


この辺の複雑な感情は、おそらく、王育徳さんが、内地人がメインである学校に行ったために、特に厳しい状況に直面したのではないかという気がしないでもない。

あるいは、本島人がメインの学校に通っていれば、こうしたことは『皆無』ではないにせよ、むしろ精神的なストレスは少なかったのかもしれない。
(つづく)






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