この記事の続きだ。
『入船山記念館』の『歴史民俗資料館』という付属施設で、戦前の呉の繁栄ぶりについての展示がされていた。
これを見ると、映画『この世界の片隅に』で描かれていた内容についての、背景説明を受けたような気がした。
これを見ると、映画『この世界の片隅に』で描かれていた内容についての、背景説明を受けたような気がした。
私は、今回、呉の街のなかを少し歩いて、道が碁盤の目のように、整っているなと感じた。
だが、これには訳があった。
だが、これには訳があった。

呉の街は、『呉鎮守府』の設置に合わせて、人工的に整備された街だったようである。
意識的に都市計画が作られ、碁盤目状に区割りされた市街が出現した。
意識的に都市計画が作られ、碁盤目状に区割りされた市街が出現した。
呉港には、全国から多数の人夫が集まった。明治35(1902)年には市制が施行された。


明治36(1903)年には、広島と呉を結ぶ鉄道が開設され(軍事面の重要性から、民営ではなく官設鉄道として計画が進められた)、盛大な開通式が執り行われた。
この写真は、明治40年前後の呉駅の様子。
この写真は、明治40年前後の呉駅の様子。

これは、明治42(1909)年に呉市内に開設された路面電車だが、広島県で最初の路面電車だった(つまり、広島市よりも早かった)ということだ。
(1967年になって、モータリゼーションの影響と、またその年の7月の豪雨による被害もあって、路面電車は廃止された。)
(1967年になって、モータリゼーションの影響と、またその年の7月の豪雨による被害もあって、路面電車は廃止された。)

これは、昭和14(1939)年発行の呉市の地図の一部。
この部分は、左下の『呉』という文字のついている建物が、呉市役所を示している。
この部分は、左下の『呉』という文字のついている建物が、呉市役所を示している。
呉英語学校とか、憲兵隊などと並んで、『地球館』(映画館)、(何の店かわからないが)『オリンピック』(当時は、幻となってしまったが、1940年に『東京オリンピック』開催が予定されていたはずだ。もっとも1938年7月に『辞退』が決まっていたはずなので、1940年の地図に出ているのも、『微妙な感じ』がするが…)などが見える。
呉市の人口は、現在(2016年4月)は23万人ということであるが、1920(大正9)年の国勢調査(つまり、今から約100年前の調査)によると、呉市は、全国の都市人口比較で第10位に位置している、という(ちなみに、東京、大阪、神戸、京都、名古屋、横浜、長崎、広島、函館、呉という順番。以下、金沢、仙台と続く)。
現在の呉が都市別人口で何位なのかは知らないが、当時、『軍港=呉』は陸軍の拠点である広島と並ぶ隆盛を誇っていたようだ。
映画『この世界の片隅に』の中で、広島のどちらかというと(海辺の)周辺部から、呉の嫁ぎ先にやってきた、『すずさん』は、(夫の)周作の姉の『黒村径子』に、『広島から来るというから、どんなにあか抜けた娘かと思っていたら…』とその『どん臭さ?』を非難される。
だが、径子は、『モガ』(モダン・ガール)の典型的な人物として、描かれており、そういう人物からすれば、(アイスクリームも食べたこともなければ、喫茶店の存在も知らない)『すずさん』がそのように見えたとしても、不思議はない。
というよりも、その当時、呉は広島に負けず劣らぬ『近代(現代)都市』であったのだ。

これは、『繁華街の登場』と題するパネル。『本通り』と『中通り』(映画『この世界』を上映していたポポロシアターのあった『れんが通り』はその現在の名称である)が、呉市の中心的な繁華街であったことを示している。

『中通り』には、鈴蘭灯と呼ばれる街灯が設置されていた(大正期に既に道路が舗装されていた)。

これは、本通り9丁目にあった『世界館』という映画館。

こちらは、中通り8丁目にあった『喜楽館』という映画館。映画は当時、『活動写真』と呼ばれていたが、中通りには、喜楽館を含めて3館の映画館があった。他の都市に比べて料金も安く、艦隊入港時には入場者が多くなりすぎて、発券停止となることもあったという。
(その様子は、映画『この世界』の中でも描かれていた。)
(その様子は、映画『この世界』の中でも描かれていた。)
今では、呉市内には、どうやら『ポポロ・シアター』以外には映画館はないようである。
もちろん、他方ではレンタルDVDの店とかがあったり、あるいは個人がネットで映画を見ることも可能になってはいるが、『映画館』というものの存在だけでもって比較すると、戦前のこの時期のほうが、繁盛していたといえる。
(それに、径子さんが、後にいう『敵性文化』にあこがれを持っていたように、この時期、日本はそれほど『頑迷固陋な道』をひたすら突き進んでいたわけでもなかった(ようだ)。
もちろん、他方ではレンタルDVDの店とかがあったり、あるいは個人がネットで映画を見ることも可能になってはいるが、『映画館』というものの存在だけでもって比較すると、戦前のこの時期のほうが、繁盛していたといえる。
(それに、径子さんが、後にいう『敵性文化』にあこがれを持っていたように、この時期、日本はそれほど『頑迷固陋な道』をひたすら突き進んでいたわけでもなかった(ようだ)。

これは、1932(昭和7)年の『呉新聞』に掲載された『広告祭』というもの。
上記の34軒の広告のなかで、『読者の眼につき易いもの』を1軒選ぶという趣向である。
上記の34軒の広告のなかで、『読者の眼につき易いもの』を1軒選ぶという趣向である。
1等は『千福』という地酒(今でも有名である)のプレゼント、そして2等は映画館『地球館』の入場券が当たるということなので、映画が当時、どれだけ人気があったか、うかがい知ることができる。
このように、『戦前』はひたすら暗いというものではなく、一定の自由や(世界に開かれた)文化を楽しんでいたのだが、それが『普通選挙』(といっても男性だけだが)といったものが実施され、新聞などの読者も増え、いわば民主主義が普及していくなかで、いつの間にか『戦争の道』を突き進んでいる。
そういったことを、呉の街の歩みと、映画『この世界』は思い出させてくれるようだ。
(この『入船山記念館』の記事、『中篇』『後篇』と書き継いでいこうかと思ったが、あまりにもくどくなりすぎるので、ここらでやめておく。)
(この『入船山記念館』の記事、『中篇』『後篇』と書き継いでいこうかと思ったが、あまりにもくどくなりすぎるので、ここらでやめておく。)