昨日(14日)、午後6時から、安倍首相の『記者会見』があるというので、それに合わせて映画(『フクシマ・フィフティ』という変な映画)を見に行き、時刻の前からテレビの前に座っていた(録画も同時にセットしてある)。
 
実は、2週間前の『記者会見』の時は、あとで『録画』を見たのだが、その時は酒が入っていたのか、途中で寝てしまい、どうもそのあとは(安倍首相に対する嫌悪感が先に立ってしまい)見る気が起こらない。
『これではいけない』ということで、今回は、準備万端で見ていた。
 
(同時に、『イヤなこと』ばかり我慢して続けているのも良くない、ということで、その前の『大相撲中継』のときから、酒とおつまみセットを用意して、適当に飲み食いしながら見ていた。
ちなみに、『大相撲』の無観客試合というのも、『めったに見ることのできない』であろう『不思議な光景』であって、これはこれで面白いところもある。
ただし、あまりこれをずっと見続ける気分には、なかなかなれない。)
 

 
 
今回の特徴は、こういう画面に表れている気がする。
 
(03)

 
いずれも、NHKの午後7時のニュース(だったと思う)が字幕を入れてくれたあとの画面を使っている。
 
最初の画面の『わが国だけの孤独な戦いではない』というのは『安倍晋三だけの孤独な戦いではない』という裏の意味が透けて見えている。
『自分の孤独な戦い』(その背景には、これまで積み重ねられてきた、彼の『嘘まみれ』の『砂上の楼閣』のようなさまざまな政策が崩壊しかかっているという事情がある)に何とかして、国民を巻き込んでいきたいという『思い』。
 
また、『皆さんの活気あふれる笑顔を取り戻すため一気呵成(いっきかせい)にこれまでにない発想で』などとゴタクを並べるのであれば、そういう『政策』がまとまった時に、『国民への呼びかけ』を兼ねた『記者会見』を行なえば良いのに、どうせ、そのような『すごい政策』などまとめられそうもないので、こんな『ないものねだり』の願望を自分自身で語って、『時間稼ぎ』をしようとしている。
 
それこそ、今回の『記者会見』が安倍首相の『不安』を和らげるための、学芸会風の『記者会見ごっこ』に過ぎないという『裏事情』を露呈させている。

 
そして、『一斉休校』とか『イベントの自粛呼び掛け』など自分自身が引き起こしたパニックが各方面で評判が悪く、逆にその結果、『経済活動』『生活活動』のクラッシュが各方面で起きていることから、今頃、『健康管理やストレス解消のためにも 安全な環境のもと屋外に出て運動の機会を』とか、『卒業式は安全面の工夫を行って実施してもらいたい』などとしらじらしい『希望』を語っている。
自らの発言が(既に)引き起こしている『不都合な結果』に対しては、『責任をとりたくない』というこすっからしい計算の結果として、今頃、こんなことを言っているのだろう。



 
今回の『記者会見』については、『産経新聞』と『毎日新聞』が本日(15日)付の償還にこのような『まとめ』を載せている。
 
『産経』のまとめについては、『不都合なこと』を省略していないか注意する必要があるが、今回の『記者会見』は、先の『緊急事態宣言』を可能とする『新型インフルエンザ等対策特別措置法』の『改正』を受けてのものである。
この『改正』に際しては、多くの野党が実質的に『協力』してしまい、ほとんどまともな法案審議も経ないうちに成立してしまった。
 

今回の『法改正』は、『どうしても法改正が必要だ』という政府与党の強弁によって余儀なくされたものである。
 
だが、本当のところは、安倍首相が先の『一斉休校の要請』など、法律を超えたことを次々とやってしまたために、それが『違法状態』でないことを、後から担保するために余儀なくされた『法改正』だったと思う。
また、政府与党は、あれだけ『緊急事態宣言』が必要だと言った割には、『今後、いつ出すか分からない』と妙に慎重になっている。

それは、今『緊急事態宣言』をすれば、それは『東京オリ・パラ』の『延期・中止』論議に直結してしまうと言う危機感を感じ始めたからだろう。
 
(もともと、安倍首相の言っていることは、『新型コロナ』のピークを後ろにずらすと言いながら、『東京オリ・パラ』は予定通りやるのだと言うように、『矛盾だらけ』のものであった。
普通に考えれば、『新型コロナ』のピークを後ろにずらそうとすれば、『東京オリ・パラ』を直撃するだけのはずである。)
 
 
と同時に、(この2年以内の間に)『緊急事態宣言』が(ほとんど)いつでも好きな時期にできる、また(どのような措置を盛り込むかも)ほとんど自由にできてしまう、というこの『武器』をうまく『乱用?』すれば、相当なことが出来てしまう、ということの自覚を高めたことの表れと見ることもできる。
 
 
つまり、これで、安倍首相は『好き勝手に解散する権利』と『好き勝手に緊急事態宣言を出す』という2つの権利を手中にしてしまった。同時に、メディアに対する支配力は、NHKを最大限利用しながら、この間、強めているから、安倍首相は、一方で『国民の気持ちが自分から離れていること』と、他方で『何でもできる権利をますます強めていること』、この2つが同時進行していることに対して、複雑な感情を抱いているであろうことは間違いがない。
 
昨日の『記者会見』はまさに、この安倍首相の陥っている『ジレンマ』を象徴するような会見だったと思う。
 
 
安倍首相は、妙に『低姿勢』であった。
あるいは、『低姿勢のふり』をしていたと言っても良い。
 
また、<日本の記者会見は、台本通りに進めているショーに過ぎない>という海外メディアや、ネット上の安倍首相を批判する人々の反発の高まりを意識して、今回は、前回以上に『いちおう、聞いてやる』記者の質問の数を増やして見せた。
 
ただし、『幹事社』以外の質問に対しては、安倍首相は読むべき原稿が用意されておらず、ちょっと、質問されただけで、(必要以上に)動揺してしまうような『心理状態』に陥っているために、その部分に差し掛かったとたん、(それこそ)間髪を入れずに、NHKの放送は中断し、『後はネットで見てください』ということになってしまった。
 
もちろん、これは日本では、本当の意味での『ネットの普及』はまだまだなされておらず、高齢者を中心に、『ネット上の質疑は即座に見ることは出来ない』という国民の現状を熟知しての、措置である。
 

私も、(多少)あわてながら、ネットにアクセスしてみたが、いくつかの質問に安倍首相が対応していること、同時に、原稿がなくなってしまった途端に、安倍首相がおろおろし始める、その落差の大きさを確認することが出来た。
 
今回は、特にフリーランスの記者たちが、『新型コロナウイルス騒動』で仕事がなくなったりして、生活危機が浮上していることもあって、『質問意欲』がいつになく高かったように感じる。
だが、それでも、安倍首相は、せいぜい10何分か『ネット上の質疑』に付き合った挙句、そのあとは、『打ち切り』にして逃げてしまったようである。

 
安倍首相が、『演説がうまい』とか、『外交力がある』とか、『経済に強い』、あるいは『国家観がある政治家である』など、さまざまな『幻想』がまき散らされているが、たぶん、素顔の安倍晋三という人は、あの『金正恩』という人に限りなく、近いような存在なのだろう。
 
周りが、最大限おぜん立てをしてくれている。
そして、自分自身は、必ずしも『政治家などになりたくはない』という気持ちもあったのに、『運命のいたずら』もあって、二度も『総理大臣の椅子』についてしまった。
 
さらに、『特殊な生い立ち』の人なので、心を許せる『友人』などあまりいない(まあ、大体、普通の人間でもそんなに『友人などいるものではない』が、安倍首相は、『自分だけいない』とひがんでいるのかもしれない)。
 
だからこそ、加計孝太郎など、いかにも『悪党づら』(本当はどんな人間なのか、わかりはしない)の悪友などの面倒を見る、あるいは『付き合いを切ることが出来ない』という点では、ピカイチのようである。
 
 
安倍首相の『神話』など、ごく一部の『ネトウヨ』と呼ばれる人たちのほかには、ほとんど魔法が溶けてしまっているのだから、安倍首相には、さっさと『引退』、そしてその後の『普通の人』としての生活を模索したほうが、お互いのために良いだろうと申し上げておきたい。
 
それとも、プーチンや習近平のように、いつ『暗殺』されたとしても文句を言えない(あるいは、言わない)というだけの覚悟があるというのなら、別なのだが…。
どうも、安倍首相はそのような人のようにはどうにも見えない。
本日(14日)も、安倍首相はまたしても、土曜日の夜という『モーニングショー』や『ワイドショー』あるいは民放の『ニュース報道番組』が手薄なタイミングを、わざわざ選んで、『記者会見ごっこ』(あらかじめ、各社に『何を質問するのか』を聞いておいて、それに合わせた『答弁』の原稿を用意しておく)をやってみせた。
 
本日は、いろいろ面白いこともあったのだが、既に現在、アルコールが入っている状態のため、今日はこれに関する記事は書かない。
(明日書く予定だ。)
 
ただし、一つだけ、今日(14日)付の『読売新聞』朝刊を見ていたら、『この数字、本当なの?』という不思議な数字が出ていた。
 

 
おもわず、その記事をじっと見てしまったので、印象に残っていた。
ところが安倍首相は、本日の先の会見のなかで、しれっとしてこの数字を『引用』していた。

 
そして、NHKはこの部分に、字幕まで付けて、『7時のニュース』のなかで紹介していた。
(ただし、そのような数字をどのように算出したのかという点については、触れていない。
このような、『ある種の統計』というものは、その根拠がきちんと説明しないと、いくらでも誤魔化しが効く。)
 
 
NHKのニュースはますます、『大本営発表』と化しつつある。

今日の『記者会見』でも、主な質問が終わってしまう、つまり、安倍首相が『原稿なし』で対応せざるを得ない『未知の領域』に突入するや、テレビの『記者会見』の放送はさっさと打ち切られ、あとは『ネットで見てください』ということになってしまった。
その一部を、ネットで見ていたら、安倍首相は、かなりしどろもどろの答弁をしていた。
 
彼は、いつも原稿にばかり頼っているので、原稿なしに、自分の言葉で語り、自分の頭で考えるという、普通に『政治家にとって必須と思われる能力』に欠けたままの状態で、『憲政史上一位』の総理大臣を続けているのだろう。
本日(3月14日)は、東京・靖国の桜が『開花宣言』したというが、同じ日に雪が降っているという、奇妙な天気の日だった。
(『新型コロナウイルス』騒動に揺れる世界の不安定さを象徴しているかのような天気でもある。)
 
私は、火曜日(17日)には、再び台湾に行く予定にしているが、おそらく今回の『一時帰国』では最後になるであろう映画を、映画館で見た。
(その他、これまでに見た映画で、まだ紹介してないものもあるが、それは今後ここで取り上げる予定だ。)
 
その映画は、これ。『フクシマ・フィフティ』という日本映画だ。
 
 


私は、二子玉川駅のそばの『二子玉川ライズ』の『109』系のシネコンで見た。
ここでは、『コロナウイルス対策』を意識して、観客の間にスペースを置くような形でしか『予約』ができないようになっている。
そのため、本日見たスクリーン(定員200人以上)でも、3割くらいしか席が埋まっていないようにみえたが、おそらくそれは、比較的入っていたということなのだろう。
(割合、幅広い年齢の観客が多く、比較的若い世代が入っているのが特徴だった。)
 

 
これがこの映画のパンフレットだが、渡辺謙、佐藤浩市という日本映画のスターを主演格に起用している。
また、製作代表として、かつて『角川映画』を率いてセンセーションを起こした、角川歴彦氏の名前があがっている。
この人は、パンフレットのなかで、『始まりは亡くなった津川雅彦さんから持ち込まれた企画だった。』『津川さんの遺言を果たした解放感はある。』と書いている。
 
 
また、監督は若松節朗という人である。
この人は、『空母いぶき』という何とも、人騒がせな映画(漫画を原作とした映画)の監督もしていた。


今回の『フクシマ・フィフティ』は、門田隆将という作家・評論家の『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発』という(いちおう)ノンフィクション作品を原作としている。
 
 
この本は、表紙にある『現場に残った勇気ある50人を世界はこう読んだ』という言葉、あるいは裏表紙の解説がある程度、その内容を現している。
だが、実際に映画を見ると、かなり露骨な『自らの主張を宣伝するための映画』であることがわかるだろう。
 

門田隆将という人は、『安倍応援団』の筆頭格と言われているような人物である。
(既に百田尚樹氏は、その『安倍応援団長?』としての座から逃げ出し気味である。)
 
そのため、彼の書く『ノンフィクション』というのは、『一面の真実』は描くものの、全体像はひどく歪んでいる。
この映画も見ていくと、事故発生当時、総理大臣を務めていた、(民主党政権の)菅直人首相が、一人でイライラ、現場を右往左往して、混乱を増幅させ、さらにはこの事故そのものを引き起こした『A級戦犯』であるかのように描かれている。
 
 
また、それと多少、バランスを取ろうとしてか、(映画の中では)東京電力(映画では『東都電力』とされているが)本部の『小野寺秀樹』という人物を、(吉田氏が)『本店のバカヤロー』の代表的存在として描かれている。
つまり、菅直人首相と、東京電力の本店のバカヤローたちが、この事故の責任者である。
 
それに対して、吉田昌郎(福島第一原発所長)や伊崎利夫(福島第一原発1・2号機当直長、佐藤浩市が演じている)などは、自らの身体を張って、故郷そして国家を守った『英雄たち』として描かれている。
 
このような描き方の映画(それは、もちろん原作の世界観に基づいていると思うが…)であるために、ネットの『映画評』を見ていると、安倍首相を批判しているような人たちは、軒並み、『このような愚劣な映画は見るな』というような主張をSNS上で行っている。
(なかには、このような映画を見るカネと暇があったら、ネットで『チェルノブイリ』に関する動画を見れば、十分、『おつりがくる』と言ってまでして、『この映画を見るな』と説教?している人もいる。)
 

だが、私は、『天邪鬼』なのでそのような考え方をしない。
 
世間が、この映画を機に、『3・11』のことについて振り返ろうとしているのなら、むしろそれは『好機』ではなかろうか?
このような映画を見たら、誰でもたちまち『騙される』と思うのは、少し人々の『能力』を過小評価しているのではなかろうか?
 

実は私は、昔、門田隆将の書いた原作を購入していたことを、改めて書棚を整理していたらわかった。
(それが出てきたのだ。)
 
ただし、最後まで読んだのかどうかは、はっきり覚えていない。
だから、この原作と映画とで、何か食い違いがあるのかを含めて(よく)わからない。

ただ、言えることは、この映画ではあまりにも菅直人首相を、『頭のおかしな政治家』として描きすぎている点である。
仮に、彼が(この映画でも多少描かれているように)『理系出身』で原子炉について多少知識のある人物だとしたら、彼が『何に不安を感じ、何をしようとして』あのように、ヒステリックに思える行動を取っているのかの説明があって、しかるべきだが、それが全く説明がない。
 
 
同時に、『東京電力』の本店(本部)の連中が、これまで福島第一原発について、そのような対応をしてきたのかという説明も一切ない。
さらに言うと、吉田昌郎氏自身も、これまで何を主張し、どのような行動をとってきたのかという説明もない。
(『ないない』づくしの映画なのである。)
 
にもかかわらず、この映画は、『フクシマ・フィフティ』に誇りを感じろと迫る。
 
それだけでなく、『トモダチ作戦』を展開した、在日米軍についても、えらく美化した描き方である。(そもそも、福島第一原発などは、アメリカの原子力会社の設計などをもとにして、日本にもたらされたものではないかと思うが、そういった点についての説明もない。)
また、日本の地震や、津波と原発との関係についても、ほとんど触れられていない。
 
ただ描かれているのは、よくある『ハリウッド映画』のように、『パニック』が起きた何十時間の間だけの話なのである。
このような映画で、『愛国心を喚起しろ』というほうが無理であろう。
 
ましてや、今や、『新型コロナウイルス』騒動で、政府にたいする不信感が一挙に噴き出ているだけに無理であろう。
 
むしろ、この映画は(それが製作者たちの意図と、どれだけかけ離れたものなのかはわからないが)、『3・11』について、もう一度それをリアルに思い起こすという作業を人々に強いて、『自民党』とか『民主党』とか関係なしに、『どういう人々』の『どういう利害関係』が福島第一原発のあの事故をもたらし、なおかつ、その『克服』を難しくさせてきたのか、について本格的な『犯人捜し』を試みる、そのスタート台となる映画たりうるのかもしれない、という気すらしてしまう。
 
これは、あまりにも『楽観的すぎる?』見方なのだろうか?

 
これは、昨日(12日)の『読売新聞』の夕刊のトップ記事だ。
新型コロナウイルスに関して、WHO(世界保健機関)が『パンデミック』(感染症の世界的な大流行とみなすことができる)と表明したという右の記事と、『米、欧州からの入国禁止』『英国除き30日間』とトランプ大統領が表明したという左の記事とが、興味深い『対照』をなしている。
 

 
こちらは、本日(13日)付『読売新聞』朝刊の7面だ。
トランプの演説について詳しく報道している。
 
トランプ大統領はこれまで『新型コロナウイルス』について『騒ぐな』とか『大した話ではない』というような調子で対応してきたが、これがアメリカのなかでも拡大しているとみなされ、また『新型コロナウイルス』がアメリカの好景気を支えていた、世界経済の状況に対して、『大打撃』を与えることが明らかになってくるや、途端に態度を変えている。
 
おそらく、彼は自分の『再選』がアメリカの好景気によってのみ可能となること、仮にその『好景気』が『砂上の楼閣』と化すや、自らの『再選』などたちまち吹っ飛んでしまいかねないことを感じているのだろう。
 
だから、今度は、『すべては新型コロナが悪いのだ』あるいは『それに対して有効に対処できないでいるEUが悪いのだ』といわんばかりの、『ヨーロッパが悪い奴だ』という宣伝戦を繰り広げることに決めたようだ。
自分の『責任逃れ』をはかるには、誰かを『悪』と認定し、それを叩けと宣伝するのが最も手っ取り速いということを、トランプ大統領は本能的に知っているのであろう。

しかし、これは、トランプ大統領自身が、『ホテルチェーン』などの資産を持ち、それらが損失を被ることを彼が恐れているだろうことを考えると、(『アメリカファースト』というよりも)『自分ファースト』で打ち出しているのに過ぎないのではないか、という疑問も感じてしまう。
 

 
これは、『読売新聞』の13日付朝刊に何枚も出ていた、昨日のギリシアのオリンピア遺跡での聖火の採火式なるものと、その後の聖火リレーの記事である。
実は、これは昨日の夜7時のNHKの『ニュース』で生中継でやっていた。
 
しかも、通常、30分の枠なのに、『生中継』と通常のニュースがごっちゃになっていて、これはニュースなのか、あるいは『オリンピック』のPR番組なのか、わからなくなっているような状態である。
 
 
もちろん、NHKにとって、『オリンピック』は巨大な利権である。
彼らは『利害関係者』として、最大限、彼らの『もうけ』が損なわれないように、そのようんば観点から『オリンピック』関連の報道を続けていくことであろう。
この調子では、『オリンピック』に関する公正・中立な報道など、もはやNHKに望むことはできないのは、ほとんど明らかだろう。
 

 
そして、安倍内閣は、昨日、衆議院内閣委員会で『新型インフルエンザ対策特別措置法改選案』を可決させた。
これもまた、安倍政権による、『悪用』が懸念されるような法律である。
 
今回、立憲民主党や国民民主党などの野党は、一見『大人の対応?』みたいなことをして、この『法案』の可決に手を貸している。
しかし、それで本当に良かったのか、どうかはまだ分からない。
 
安倍内閣というのは、『悪用をしなかった試しがない』くらいの政権である。

また、『法解釈』を好き勝手に変えて、『悪用』『乱用』がされてしまえば、どんなことになるのか、わかったものでもない。
(現に今、NHKに対して最大限に介入して、『自分たちにとって都合の良い』ようなものしかニュースとして報道させないのだから、とんでもない状態になっている。)
 

 
最近、センバツ高校野球が、19日の開幕を前にして『中止』に追い込まれるということがあった。
これは、昨日(12日)付の『毎日新聞』の朝刊からである。
 
センバツというのは、『毎日新聞社』のいわば財産として、継続的に行われてきたものである。それに対して、『朝日新聞』は『夏の甲子園』のほうを主催している。
私が、高校野球については『素人』というか、あまり関心がない(ごくたまに、特定のチームが話題になって、見ることもあるが…)人間だが、この間の経過を見ると、主催者の側では、『無観客試合』でも良いという形で、大会実施を望んだのに対して、何らかの『圧力』が、『このような時期に、開催などとんでもない』といった形でかけられてしまったような気がする。
 
そもそも、なぜ、『無観客試合』の実行ではダメなのか。
 
仮に、途中で球児たちの間で、『新型コロナ』の発症の疑いがあれば、その時点で中止なりなんなりすればよいではないか?
一方では、大相撲で『無観客試合』を認めておきながら、なぜ『センバツ』はダメなのか?
 
それに、現在の『新型コロナ』の威力を見ると、仮に誰か球児たちが感染したからと言って、それが直ちに『死につながっていく』というようなものにも感じられない。
ひょっとしたら、『毎日新聞』は『朝日新聞』と並んで、安倍政権に対して批判的な論調を続けているので、それに対する『反撃?』として、このようなことを決めさせているのではないのか、そのような気すらしてくる。
 

ともかく、ドサクサに紛れて、『不適切なこと』ばかり横行しているような気がしてしようがない。
それは、中国もロシアも含めて、そうである。

本日(12日)、こういう本を読み終えた。

 

これは、川端裕人(かわばた・ひろと)という作家が2009年に『角川文庫』から出版した小説を、電子書籍化したものである。

 

なぜ、これを読んだかというと、実は、荻上チキのセッション22というTBSラジオで夜10時から放送している番組があるが、その3月9日の放送で、『新型コロナの感染拡大でイベントなどが続々中止に。そんな今だからこそ、コレを見よう!』というのをやっていた。

 

普段は、台湾ではリアルに視聴できないので、インターネットを通して、翌日以降、聞いたりしているのだが、この日は、日本にいるので、久しぶりにラジオを使って、生で聞いていた。

 

 

このなかで、<■電話出演 書評家の倉本さおりさん、ライターで美術館「永青文庫」副館長も務める橋本麻里さん、作家の川端裕人さん>と出ているが、最後の作家の川端裕人さんという人が、自分の作品を紹介していた。

 

これは、『エピデミック』というタイトルからもうかがえるように、今日の『新型コロナ騒動』を予見するかのような小説である。

アマゾンでは、次のように紹介されている。

 

<死に至る重症の肺炎を引き起こす謎の感染症が突如東京からほど近い海辺の町に発生。

感染拡大により医療だけでなく行政、市民生活がきしみ、崩れかかる中、フィールド疫学者たちがエピデミックに立ち向かう。>

 

 

また、3月9日か10日にアマゾンで、この本の電子版を探したときには、アマゾンではたしか『ベストセラー』みたいな表示がされていた。

(もっとも、アマゾンは、やたらに細かな部門分けをして、『ベストセラー』を宣伝しているようなので、どれほどのベストセラーなのかは知らない。)

 

 

ともかく、セッション22というラジオ番組で、作家の川端さんが理系の出身で、社会人としても経歴も『日本テレビ』の記者として、科学技術庁や気象庁を担当し、その後、南極海調査捕鯨船に道場取材するなど、現場派の人のようである。

 

なおかつ、この本を読むと、今盛んに『疫学』の専門家と称する人がテレビなどに出たりしているが、彼らの採用している『疫学』なるものがどのような、手法を採用しているかがわかるような小説になっているという『触れ込み』の宣伝が、この番組のなかでもされていたものを、これは面白いかもしれないと思って、その直後にアマゾンで電子版を入手した。

 

 

ただし、その後、これを読み終えるのに、今日(12日)までかかったわけで、決してスラスラ読めたわけではない。

 

その理由として、私なりに『言い訳』をすると、やや『小説』としてはごちゃごちゃして、必ずしも読みやすいものではなかったこと。

また、『疫学というものの方法論がわかる』という触れ込みとは、やや違って(これはおそらく、作者と作家としての『サービス精神』の表れなのかと思うが)『ひっかけ』みたいなストーリーが延々と続いていた。

 

そのため、読みにくいところがあり、途中で『読むのをやめようか』とも思ったが、『ついでだ?』と思って、最後まで読み終えた。

 

 

それで分かったのは、この『疫学』という方法は、たとえば『世論調査』その他の『統計調査』のように、かなり(演繹的というよりも)『帰納的』な手法であって、それなりに面白いものだとは感じた。

 

しかし、これは例えば、今回の『新型コロナウイルス』騒ぎを、中国による意図的な『ウイルスのばらまき』であると説明する、『陰謀論』みたいな解説の系譜とは異なるものだと感じた。

(もちろん、今回、中国で『新型コロナウイルス対策』がかなり遅れを取ってしまい、また対策がこじれたものになってしまったのは中国の国家体制の『矛盾』が影響している可能性はかなり高いが、だからといって、中国だから、このような『感染症』が起こりえたと考えるのは、無理があると思う。

 

基本的に、安倍首相の応援団と称する人々は、『中国固有』の『感染症』だととらえる人たちが多いようである。

ただし、例によってその根拠は、極めてあいまいなものだ。

(また、安倍首相自身も、こういう人たちとの「つながり」を重視していて、しょっちゅう、この手の人たちと食事を共にしたりして、『裏切り者?』のレッテルを貼られないように気を配っている。)

 

 

その結果、彼ら(安倍首相の応援団と称する人々)は、いつでも『中国の政治体制に対する批判』と『中国人そのものに対する批判』とがごっちゃになりがちである。

 

 

そういう意味で、この本だけで、『疫学』とか『感染症』というものに対する理解を深めるのは無理があるのだろうけど、そのような概念(『疫学』とか『感染症』)について、学習をするために、きっかけになりうる小説だと思った。

 

 

 

来週には、また台湾に戻る予定である。
台湾を(先月19日に)離れてから3週間くらいたってしまったが、台湾では、政治の歯車が前に向かって進んでいる。
 

 
これは、台湾の最大野党である中国国民党の主席選挙の結果を報じている(8日付、『読売新聞』、以下すべて『読売新聞』の報道)。
若手の代表格とされる江啓臣立法委員(国会議員、48歳)が党・軍の元老を父に持つエリート(入力のために漢字を探すのが面倒なので、記事を参照されたい、前副主席、67歳)を破って当選したという。
 

 
この主席選挙に関しては、2月19日の記事でもこのように報道していた。
 
今回の特徴は、1月の総統選での派手な敗北(民進党の蔡英文総統が、国民の直接投票によって再選を果たした)を受けて、またその後の、『新型コロナウイルスを巡る中国に対する反発の高まり』によって、2人の候補がともに、(中台双方が、『一つの中国』を認めたとされている)『1992年合意』の見直しに言及していたことにある。
 
今回、当選した江氏は、政見説明会において、<中国の習近平国家主席が昨年、合意を「中台が共に統一を目指すもの」と位置付けた解釈が、台湾で疑念を招いたと指摘><更に、自由と民主主義の価値を強調し、今後の中台間合意では、台湾の民意を重視する姿勢を示した>とも報じられていた。
 
ちなみに、この江氏、私が住んでいる台中市を地盤とする立法委員(国会議員)である。
そのため、選挙ポスター(といっても、台湾のはやたらに巨大であるが)を何度も見かけており、何となくなじみがある(と感じてしまう)。
 
今回の国民党の主席選挙でいえることは、国民党も従来のように『親中国』『中国共産党に近い政党』と台湾の人々の間で位置づけられていたのでは、ますます、弱体化してしまいかねないという危機感が、国民党のなかで芽生えているということであろう。
 

 
そうした流れをさらに後押しするように、昨日(10日)の『読売新聞』にはこんな記事も出ていた。
 
まさに、1月の総統選で敗北した韓・高雄市長(中国国民党)に対して、高雄市長としてのリコール運動が解職に賛同する市民40万人分の署名簿を提出したというのである。
 
今回の総統選の敗北は、そもそも2018年秋の統一地方選で高雄市長に当選したばかりの韓氏が、高雄市長としての実績も出せないうちに、『政治の三段跳び?』でも目指すかのように、総統選に出馬してしまったことが大きな要因であった。
 
しかも、『親中国』の政策(〇〇を中国に勝ってもらう、中国からの観光客をもっと増やす、香港のデモのことはよく知らない?等々)ばかりで、『香港のデモ』が激化し、中国に対する台湾の人々の視線が厳しくなっていくなかで、彼は見事に『選挙に敗北』した。
 
それだけでなく、彼が、『総統選に敗北する可能性が非常に強い』と計算して、『高雄市長を辞職せずに、長期休暇を取りながら、選挙戦を戦った』というその政治姿勢がさらに、多くの人々の反発を招いた。

 
中国国民党の支持者のなかにも、韓市長を嫌う人々は多く(総統選の国民党候補決定を巡って、どろどろした戦いが繰り広げられていた)、さらに韓市長のファンであった人々のなかでも、『裏切られた』という思いを抱く人々も多いようである。
 
だから、この(ちょっと、豊臣秀吉か、あるいは現在に近い日本の政治でいうと、大阪の横山ノック知事に似た)独特の風貌の政治家が、『川に落ちた犬は徹底的に叩け』という風潮のなかで、高雄市長の座からも追われてしまう可能性もかなりありそうである。

 
こうした台湾政治の苛烈な変化を見ると、『少し、<情け>というものが欠けているのではなかろうか?』などと感じてしまう日本人も多いのかもしれない。
 
しかし、このような動向と全く『逆行』している日本の政治では、安倍首相が、『新型コロナウイルス』騒動を利用して、自らの政策の失敗を糊塗して、首相の座に居座り続けてしまう可能性がかなりあるという、『情けない状態』にある。
日本と台湾とどちらが、より『まともな状態』にあるのか、少し考えてみればわかりそうなものだが…。
今回の『一時帰国』で、既に3本の映画を(映画館で)見ていた。
(自宅でDVDで見たものなら、そのほかにもある。)
既に、『パラサイト』の感想は書いたが、他の2つはまだ書いてなかったので、さっさと書いてしまうことにしよう。
 
2本目に見たのは、『子どもたちをよろしく』という日本映画。
これは、3月2日に、渋谷の『ユーロスペース』という映画館で見た。
 

 
 
ここは、スクリーンは2つあり、さらに下の階にライブスペースもあって、そこを映画上映のために使用することもあるようだ。
この日見たのは、定員が145席のスクリーンのほう。
はっきり覚えていないが、たしか、20~30人くらいしか入っていなかったように記憶する。
そして、若者たち(中学生)が主人公の映画なのだが、見に来ていたのは、私とあまり変わらない年配者がほとんどだった。
 

新型コロナウイルスが問題になっているので、最近、よく見かけるようになった、こうした感染対策のものも置いてある。
 


この映画館は、このように新聞、雑誌などで取り上げられた記事をよく掲示している。
 
特にこの映画は、寺脇研氏(元文科省官僚)と前川喜平氏と(森友・加計の両学園事件で話題になった、元文科事務次官である)いう2人の(ある意味では)『有名人』が企画を手掛けたことが話題になっているだけに、この2人のインタビュー記事なども大きく掲載されていた。
私も、どちらかというと、『前川氏お薦め』のような感じで宣伝がなされていたのに、そのまま乗っかって、この映画を見てしまった。
 
ちょうど見たのが、安倍首相の発意による、『思い付き?的休校の呼びかけ』がなされて一斉休校が開始された(まさに)その当日(3日から開始した地域もあったが)だったので、余計に、『学校を巡るさまざまな問題』が映画の中で取り上げられるであろうと、いう気がしていた。
おまけに、私は、わざわざ『トークショー』のある回(たしか、その日の2回目の上映の回だった)を選んで、映画を見ていた。
 
 
 
ここから先は、私のかなり個人的な感想である。
 
また、恐らく私が勝手に『期待した内容』が映画自体と異なるレベルというか切り口だったので、それが影響しているものと思った。
なお、『トークショー』には、この映画の監督・脚本を手掛けた隅田靖さんと、映画・演劇評論家の山田勝仁さんの2人が登場した。

私が、この映画に不満を感じた点は主に2つの観点から。
第一に、いわゆる『政治的・社会的な問題意識』を生でぶつけただけの映画だったのではないか、ということ。
第二に、きっちりと映画を作るには、あまりにもカネも時間も、あるいはヒトもかけない、そのような体制で作られた映画ではなかったのか、そのような疑問を感じたこと。
この2つが主な原因である。
 

第一の点は、映画の素材とか、話の進め方、俳優の選び方などとも関係してくる。
 
まず、この映画の主人公は、『中学生2人』で彼らの親たちとの関係、彼らの社会との関係が中心テーマである。
しかし、俳優はというと、『中学生』とはほど遠い、大人の俳優たちである。
もちろん、実際に『中学生、あるいは高校生』くらいの年齢の人たちを、使って映画を作るのは大変なんだろうとは思う。
だが、このくらいの手間がかけられないのであれば、映画としての迫力はぐっと低くなる。
 
さらに、申し訳ないが脚本・監督も弱い。隅田監督が映画を手掛けるのは12年ぶりらしい。おまけにこの人は、既に60歳を超えておられる。70歳を超えている私が言うのもなんだが、人間は自分自身の実際の年代と大きく異なる人物の感性を描くのは、相当、大変なことだと思う。
隅田監督は、いろいろな事件などの資料を調べて、いわば『不幸のデパート』のようにも見える若き主人公たちの、ある種の『地獄』を描く、この映画を完成させた。
しかも、撮影期間は、たったの11日間(かそこら)だったと監督は話をしていた。

この映画の直前に見た、韓国映画『パラサイト 半地下の家族』と別に比較をするつもりはない。しかし、ふんだんに予算を投入した映画と、その真逆の映画の、あまりにも落差が大きいのに『めまい』を感じるほどである。

もちろん、お金をかけないで、いわば『私小説』みたいな映画というものもありうると思う。実際、長い間日本ではそういう映画が、主流ではあった。
だが、それはある程度、映画を作る人(演じる人、脚本、監督の人)と見る人の側との間の『感情のキャッチボール』などが存在しないと、成立できないような気がしている。

この映画では、やはり、『前川ブランド』のような一種のブランド力に引っ張られて見に来た人たちが多かったのではないかと思う。
だが、そのような『前川ブランド』のファンの人たちと、この映画の主人公である人たちの置かれた状況には、ギャップが存在しているのだろう。

前川氏は、いわば『厳しい状況に置かれた若者たち』の『当事者』ではない。
その当事者たちの状況を伝えたり、解説するのが前川氏のこれまでの役割だったのだろう。
だが、映画としては、それでは弱い。
やはり、『共感』があふれている、あるいはもっと『当事者性を打ち出す』という形ではないと弱いのだと思う。

それを突破するには、おそらく、もっと『ヒト』も『時間』も『カネ』もかかることだろう。簡単に超えることは難しい。
そんな気がした。
 
一昨日(7日)、予約していた本が入ったというので、隣の駅のそばにある横浜市立山内図書館に出かけた。
横浜の市立図書館は、運営を民間企業にまかせていて、(山内図書館は)『有隣堂書店グループ』が運営しているようだ。
 
今回のコロナウイルス騒動で、横浜市も小中学校を一斉休校にした。
それだけでなく、図書館が児童・生徒たちの集まりの場になっては具合が悪いということか、こんな張り紙がしてある。
 

 
『一部サービスに限定』とあるが、要するに、ネット等で予約した本の受け取りとか返却しかできなくなってしまった。
同時に一般の閲覧はできなくなったため、図書館のほとんどのスペースは真っ暗になって、『立ち入り禁止』地域になっている。
(もちろん、『自習スペース』みたいなものも、なくなってしまった。)
 
これも、小中高校等を休学にしても、児童・生徒たちが図書館にたむろするのであれば、『新型コロナウイルスの蔓延』を防止できなくなる、という懸念からであろう。
 
それも分からなくはないが、一挙にロクに説明もなしに、『ロックアウト』(会社でストライキに入った労働者を締め出すような措置)みたいなことをやれば、逆に『不安』や『焦り』が拡大してしまう心配もある。
 
 
世の中に『新型コロナウイルス』しか『悪』あるいは『リスク』が存在しないのであれば、それも良いが、実際はそうではないのだから、かなり乱暴な措置のように見えてしまう。
(何より、児童・生徒たちは、一挙に『得体のしれない不安』のなかに投げ捨てられたような思いになる者もいるのではなかろうか?)
 

その後、あざみ野駅前に出たら、こんな『署名集め』をやっていた。
 


 
林文子市長は、2009年に横浜市長に初当選して以降、2013年、2017年と再選、三選を繰り返している。
最初は、BMWなど自動車販売会社の優秀なセールスマン、そして女性の『働き方』に対して理解のある経営者という顔で当選した。
 
おまけに、初選の時は、民主党推薦、国民新党支持ということで、いわゆる『革新』系の市長として登場した。
しかし、その後、横浜市が菅官房長官の地元でもある関係からか、むしろ自民党との関係のほうが強くなっていった。
 
さらに、『IR(統合型リゾート)』と称するカジノの誘致に踏み切り(前回、17年の市長選挙で『白紙』だといっていたのだが)、現在、その説明会(ただし、質問は、『用紙の提出』でしか受け付けない)を各区で実施中である。
 
私もこうした説明会であっても、出席したい気はあったが、日本に帰って、回覧板などに掲示してあるものを見ると、既に『予約受付』の期間は過ぎてしまっていたようだ。そういう『予約受付』をしているのを知っていたら、台湾からでも応募(そもそも、住民票は横浜に残してある)したのだが…。
 

こんな経緯があるので、林市長の『リコール』には大いに賛成である。
 
だが、一昨日は、いきおいでこの『受け付け』をしているのに賛同して署名をしてきてしまったが、これはリコール運動の『リコール受任者』を集めようというものだった。
 
考えてみると、私は、日本でもこのような『リコール運動』に賛同してもらえるような人を、そんなに知っているわけでもない。
おまけに、『リコールを成功させるためには、約50万筆の市内有権者の署名を2か月で集めなければならない』そして、そのために『5万人以上の受任者を募らなければならず』、私が賛同署名をしてしまったのも、この『受任者』(署名を集めることが出来る人)を募集しているのだった。

つい思わず、あまり深く考えずに『署名』をしてしまったが、『横浜市内の有権者』(おまけに青葉区在住の人でなければならないようだ)など、ほとんど知り合いはいない。
(若干、知り合いがいないこともないが、そういう人々も彼ら自身が、『受任者』になっている可能性が強い。)
 
ということで、ほとんど自分自身以外の署名を集められそうもないのに、『受任者に応募』してしまったみたいだが、このときついつい、『ブログに載せる』などと余分なことまで言ってしまったために、ここで発信させてもらう次第だ。
今回、私が一足先に(2月19日に)台湾から、日本に『一時帰国』した。
カミさんは、その後、後から合流して、そしてそのあと2週間弱したら、一緒にまた台湾に行くつもりだった。
 

 
ところが、先週の木曜日(5日)の夜には、NHKのニュースでこんな報道がされる状態になってきた。
つまり、『日本から外国への入国』に対して制限を課する国・地域が増えてきた。
(その後、さらに増加している。もっとも、韓国やイタリア、イラン、そしてフランス、ドイツなどの感染者数が驚くべき勢いで増えてもいる。)
こうした状況で、台湾などでも日本に対する『警戒レベル』を上げてきていた。
 
それで、そもそも、(今回)カミさんは無事、日本に戻れるのか?
(さらには、その後、再び台湾に行けるかどうかという心配もあった。)
そういう状況のなかで、(彼女の合流予定日の)先週の金曜日(6日)を迎えた。
 

結論的にいうと、飛行機(LCC便)は空いていて、LCC便では通常、かなり窮屈な思いをするのだが、隣の席なども使えて(比較的)のびのびできたそうである。
 
また、日本は、9日から中国や韓国に対する『入国規制』を強化するようなことを行っているが、この日は、まだその実施前であること、いずれにしても9日からの措置は台湾を対象にしていないこともあって、ほとんど『ノーチェック』に近い形で、入国できたとカミさんは言っていた。
 

それより、『やはり、日本は寒い』ということで、びっくりしていたようだ。
また、台湾での迅速な対応の情報に慣れていたせいもあって、『日本の対応はぬるい』みたいなことも漏らしていたが、これは、そのまま(前提なしで)受け取ると、やや誤解を招くであろう。
 
そもそも、台湾は、長い間、中国大陸との間で準戦時体制のような状況にあった。
それが、『蒋介石-蒋経国父子の全体主義的な政権』から、『民主化』の過程を経る中で、むしろ蒋介石が指導者であった中国国民党が、どちらかというと『親中国』の姿勢をとるという奇妙な状態になった。
 
そして、中国国民党との間で既に『政権交代』の経験を積みながら、『自由』と『民主主義』また『多元主義』という価値観を体現した政権運営の訓練を積んできた民主進歩党は、『自分たちは台湾人である』『台湾と中国は、全く別の社会・国家である』とする人々がますます増加していく中で、支持を強めてきた。
 
そして、今年1月11日の総統選挙で、国民の直接投票によって、現在の民進党・蔡英文総統(何度も繰り返して恐縮だが、女性の総統である)が再選された。

さらに、この間の、香港でのデモ、それに対する中国の習近平体制の高圧的な態度を経る中で、台湾の国民の蔡英文政権に対する信頼度はぐっと増している。
また、今回、中国が(彼らの言う『一つの中国』という)見解によって、台湾を国際社会から排除しよう(しかも、『WHO』=世界保健機関からも徹底排除しよう)という動きに対して、台湾の国民は鋭く反発してきた。
 
その結果、この間の蔡英文政権の迅速な『新型コロナウイルス』に対する闘いも、むしろ、台湾国民の支持が強くて、より強力な措置を取り得ることができたという点が大きい。
(つまり、台湾の国民の支持によって、蔡英文政権は迅速かる効果的な対応をすることができたのである。)
 
 
なぜ、こんなことを言うかといえば、安倍政権を支持している人々の一部に、『台湾に見習って、日本も強力な措置をとるべき』『日本は、国家として不完全である』などという人(櫻井よしこ氏ら)などがいるからである。

だが、日本の場合は、そもそも安倍首相は、『新型コロナウイルス対策』について、当初はあまり熱心ではなかったという印象である(それは、中国の習近平氏を国賓として、日本に招きたい、さらには、『東京オリ・パラ』を予定通り順調に進めたいという気持ちが裏にあったからだろう)。
 
 
ところが、この問題が、進展するやまるでこの問題を一つの『ショッキングな国難の象徴』としてとらえ、一気に『緊急事態宣言』を行ない、自らの統治権限を強化する『チャンス』ではないかという気になったらしくて、急に(何の準備もなしに)『一斉休校』を打ち出したりしている。
このように『場当たり的』で利用主義的な態度が、安倍政権に対する、かなり根深い『信頼の揺らぎ』に結果しているのであって、台湾と日本とはまるで、状況は異なっている。
 
そのような気がしている。
それで、一昨日の夜にカミさんが、『合流』して以降、『人に台湾の事情を話す場合、そういうことは気を付けたほうがいいよ』と言ってきた。

こういったところでは、私が2週間ほど、先行して台湾から戻ってきたが故の、『認識のずれ』は調整できつつある。

ともかく、一人で生活していると(近所にカミさんの姉が住んでいるとはいえ)、自宅のなかが汚らしく、散らかってしまい、きれい好きのカミさんはかなり怒っていた。
 
また、前にも書いたような気がするが、日本に戻ってきて以降、何回か映画館に映画を見に行ったことに対して、怒りを示してもいた。
(私としては、それなりに取捨選択して、行き場所とか見る映画も配慮しているつもりなのだが…。)
いずれにしても、カミさんが合流してくれたことは、『安心材料』ではあった。
3月3日に書いた、この記事の続きだ。

https://ameblo.jp/japanreal/entry-12579527642.html

 

 
気が付いたら、もう5日もたってしまっていた。
 

この展示、日本の習慣(慣行)にしたがって、なかで写真が撮れるのは、ここくらいである。
(最近では、このように『記念撮影スポット』みたいなのを設けるのが流行のようだ。)
 
ただし、これ以外では、『写真撮影禁止』なので入場に際してもらった、無料のリーフレットの内容を紹介しながら話を進めていこう。
 

まず『開催にあたって』ということで、この企画を県立神奈川近代文学館で開催していることの趣旨が書かれていた。
 
神奈川にゆかりの深い作家であること、『演劇作家』と『小説家』の2つの顔を持っていること、特に『獅子文六』という筆名で小説を書き始めるや、そのユーモアとエスプリに満ちた作品が、一世を風靡したと書かれている。
また遺族から寄贈された『獅子文六文庫』の自筆資料や蔵書などが、元になって、『没後五十年』のこの企画が生まれたとも書かれたいた。
 

これは、実は私がこの館内で販売されていたり、その後、『ブックオフ』などで入手したものを並べている。
 
私は、2017年から台湾と日本を行ったり来たりしているので、あまり気が付かなかったが、『獅子文六』という作家は近年、独特のユーモアを持った作品を生み出した人物として、『再発見』され、『流行作家』の死後50年とは思われないくらい、復刊されたり、新しい表紙や『オビ』が付けられて、それなりに売れているようである。
(この3冊のなかに、『バナナ』という作品があるのは、これが『お金持ちの台湾華僑の息子、龍馬は車が欲しい大学生』『テンポの良い展開に目が離せないドタバタ青春物語』などと裏表紙の解説に書かれていて、日本と台湾の歴史に興味を感じている私としては、読書欲のそそられる作品と感じたからだ。)
 

獅子文六(本名・岩田豊雄)は、1893(明治26)年、横浜市弁天通で生まれたという。
この場所は、横浜が開港したばかりの、その突端みたいな位置にあったらしい(昔の地図とともに位置が示されていた)。
 
父親は、(現在の大分県中津市を中心とする)中津藩士であったため、同郷の福沢諭吉に傾倒して慶応義塾で学び、息子の獅子文六も慶応に進ませている。
父親は、絹織物貿易商を営んでいたが、獅子が9歳のときに病死、そのあと、一家は没落の憂き目にあう。
日露戦争の影響もあって、家業は傾き、1909年16歳くらいのときに廃業して、一家は東京に引っ越ししている。
 
幼いころのこういう経験(母親も、1920年だから、文六が17歳くらいの時に亡くなっている)は、一種のトラウマとなり、彼の世界観、人生観を形成することになるのではと思う。
 

こちらは、第一章、演劇人岩田豊雄としての側面を描いている。
 
簡単にいうと、彼は人生の前半部分では、『演劇人』としての顔を持ち(後半生でもその顔を棄てたわけではないが)、フランスに遊学したり、そこで妻(フランス人のマリー)を得て、彼女を伴って帰国している。
 
ただし、妻マリーは写真で見ると繊細な人のようで、日本の文化が合わなかったせいもあったのだろうか病に倒れ、1932年にフランスで亡くなった。
(文六は、人生で3度結婚したが、最初の2回はどちらも、妻の病死に遭遇するという『不運の人』でもあった。ただし、最初の妻との間の娘、巴絵は、『悦ちゃん』『娘と私』などの作品にも登場した。
 
面白いことに彼女の写真を見ると、幼いころは『外人さん』のような顔つきだが、歳とともに『日本人』の骨格がむしろ表面に出てきている。)
 
なお、文六は、1937年に劇団『文学座』の創設者の一人であった。
この劇団は、いわゆる『左翼系』ではない演劇人の集まりの拠点だったようだ。
 

こちらは、第二章、作家獅子文六としての側面をたどっている。
彼が、作家として生き始めたのは、簡単にいうと『生活のため』だったようだ。
 
つまり、『演劇人』としては食っていけない。そこで、獅子文六名で、雑誌や新聞を主な舞台として、『健全で明朗な家庭小説』を発表し始めたところ、これが好評を博した。
それで、『獅子文六』としても、生きていこうと決めたようだ。
 
 
ただし、彼は、1942年に海軍を舞台にした小説『海軍』を本名、岩田豊雄名で発表したところ、これが戦後には、『戦争犯罪人』の容疑の対象とされている。
もっとも、この小説は、戦争当時によくあった『戦争を煽るような小説』では必ずしもなかったようである。
(それでも、その時々の『権威』に頼ろうとする人たちは、彼を攻撃する材料として使った。)
 
獅子文六は、もともと左翼ではない(左翼である人は、『時流に合わせる』のは『戦術上仕方がない』と考える人もいれば、また左翼のかなりの部分は、『権力主義的な』要素を持っているマルクス主義の解釈を肯定するような人たちもいる)。
 
だが戦後の日本の、急に『アメリカ万歳』『自由万歳』と叫びだすような風潮に対しては、皮肉な気持ちを感ぜざるを得なかったようだ。
そこで、戦後の世相を、鋭くユーモラスに書いた作品を発表したところ(まだ、私は、本格的に読んではいない)、それが大いにヒットしたという。
 
 
最近、そのような彼の作品が評価されているとというのは、もしかしたら、『戦後75年』たって、何やらすべてを『ご破算』にしようとする最近の日本の状況に対して、『もう一度、戦後とは何だったのか、見直してみたい』という気持ちがある人が多いのかもしれないと感じる。
 
それも、例えば安倍首相のような角度からではなく、別の角度からの見直しを希望している人がいるのではないかという気もしている。
(もちろん、これは半分は願望に過ぎない。それに繰り返すが、私はまだ獅子文六の作品をほとんど読んでいないので、彼がそういう作家なのか知らないでいる。)