岸壁の母は、ソ連の捕虜になりシベリア抑留者となった日本兵の復員を待つ曲である。ソ連ナホトカ港からの引揚船が舞鶴港に着くたびに、多くの家族が生死の判らぬ肉親を探して全国から集まった。
 
舞鶴
舞鶴港のシベリア抑留者(1950年)
極寒の地で粗末な食事と過酷な労働に加えて、洗脳教育を受けさせられた抑留者を当ブログで「異国の丘(昭和23年)」を取上げたが、この「岸壁の母」もシベリア抑留者が題材になっている。57万~76万人(定説は65万人)が抑留され約5万8千人が死亡し、最長11年間も抑留された。
 
復員が進んだ昭和29年(1954年)に菊池章子の歌でテイチクレコードから発売された。
 
その後、演歌歌手で浪曲師でもある 二葉百合子が、昭和46年(1972年)に歌ってキングレコードから発売され、元々の歌詞に浪曲作家の室町京之介がセリフを加えた。
 
 
ここではセリフのない菊池章子盤ではなく、多くの歌手が歌っているセリフ付の二葉百合子盤を取上げた。
 
二葉百合子 - 岸壁の母 - Jreechine Chiouさん
 
岸壁の母(昭和29年)

作詞:藤田まさと
作曲:平川浪竜
台詞:室町京之介
歌手:二葉百合子
 
  1. 母は来ました 今日も来た
    この岸壁がんぺきに 今日も来た
    とどかぬ願いと 知りながら
    もしやもしやに もしやもしやに
    ひかされて
     
    また引揚船ひきあげせんが帰って来たに
    今度こんどもあの子は帰らない、
    この岸壁で待っている、わしの姿が見えぬのか、
    港の名前は舞鶴まいづるなのに
    なぜ飛んで来てはくれぬのじゃ、
    帰れないなら大きな声で…お願い…
    せめて、せめて一言ひとこと
     
  2. 呼んでください おがみます
    ああ おっ母さん よく来たと
    海山千里うみやませんりと うけれど
    なんでとおかろ なんで遠かろ
    母と子に
     
    あれから十年…
    あの子はどうしるじゃろう、
    雪と風のシベリアは寒いじゃろう、
    つらかったじゃろうと
    命の限リ抱きしめて…
    このはだあたためてやりたい、
    その日の来るまで死にはせん、
    何時いつまでも待っている…
     
  3. 悲願ひがん十年 このいの
    神様だけが 知っている
    流れる雲より 風よりも
    つら運命さだめの 辛い運命の
    つえひとつ
     
    ああ風よ、こころあらば伝えてよ、
    いと待ちて今日もまた
    怒濤どとうくだくる岸壁に立つ
    母の姿を…
     

 
端野いせ
端野いせさん 舞鶴引揚記念館
息子の復員を待つ端野いせさんを、新聞が「岸壁の母」と銘打って大々的に取り上げた。これが切っ掛けで、歌と映画が作られ、本人著の「未帰還兵の母」、「岸壁の母」が出版された。
 
シベリア抑留を疑わなかった端野いせさんは昭和56年(1981年)に享年81で死去。平成12年(2000年)に息子を名乗る上海居住の人が「ソ連軍の捕虜となりシベリア抑留後に、満州に移され中国共産党八路軍に従軍した」と云って現れた。慰霊墓参団のメンバーが中国政府発行、本人名義の身分証明書を確認したが帰国を拒んだとのことであった。
 
一方、息子の石頭予備士官学校の同期会「石頭五・四会」の正式見解は「八月十三日、夜陰に乗じて敵戦車を肉薄攻撃、その際玉砕戦死しました」となっている。
 
後に菊池章子もセリフ入りで録音されたレコードもあるようですが、これはセリフなしのオリジナルだと思います。
 
岸壁の母(昭和29年)菊池章子 - CLC MVCさん
https://www.youtube.com/embed/SkpNLnK_qNE
 
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