てっきり「異国の丘」は軍歌だと思っていたが、「それにしては暗いな…」程度に思っていた。ラジオ歌謡「異国の丘」が戦後の歌だと知ったのは、15年ほど前である。
原曲となった吉田正の「大興安嶺突破演習」は昭和18年(1943年)に作られたようだが、シベリア抑留者の中で「昨日も今日も」と云う題で歌われるようになったそうだ。
 

 
そもそも大東亜戦争の終結直前の昭和20年(1945年)8月9日未明、日ソ中立条約を一方的に破棄して満州国に侵攻、更に8月16日南樺太、8月18日千島列島に侵攻させた。8月16日には大本営から即時停戦命令が出たため、関東軍総司令部は停戦と降伏を決定した。
 
満州では皇族・竹田宮恒徳王が出席した停戦会談によって、武装解除後の在留民間人保護について、一応の成立を見たが、日本軍崩壊後の民間人は何の保護も得られず、多くの被害が出た。また捕虜の扱いについては一切言及されなかった。
 
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上河邉長《怨念 屍捨て》
結果として、約65万人(一説では107万人)が、シベリア、モンゴル、北朝鮮、中央アジア、ヨーロッパロシアの各地に抑留され、劣悪な居住環境と粗悪な食事のもとで過酷な強制労働に従事させられ、約6万人(米研究者の調査では約37万5000人)の方々が死亡した。
 
発疹チフス・赤痢・痘瘡・疥癬などの伝染病が蔓延し、一方で共産主義に感化された同胞による「反ソ分子」の執拗な密告、執拗なつるし上げ、同胞を貶める人民裁判が横行したと、様々な記録に残されている。
 
要領の良い抑留者はソ連の共産主義教育を積極的に受け入れて、早期復員を果たす光景も記録に残されている。
 
戦中戦後、警察官だった養父に「異国の丘」について聞いてみると、小声で「アカは歌わない」と話してくれた。無口な養父はそれ以上何も言わなかったが、後に極寒のソ連に抑留された方々の間に広まった歌だと知った。
 
異国の丘 slhs0083さん
 
異国の丘を無理矢理「軍歌」にジャンル分けするのも、何かの意図を感じる。
 
異国の丘(昭和23年)

作詞:増田幸治、補作詞:佐伯孝夫
作曲:吉田正
唄:竹山逸郎/中村耕造
  1. 今日も暮れゆく 異国の丘に
    友よ辛かろ 切なかろ
    我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ
    帰る日も来る 春が来る
     
  2. 今日も更けゆく 異国の丘に
    夢も寒かろ 冷たかろ
    泣いて笑うて 歌って耐えりゃ
    望む日が来る 朝が来る
     
  3. 今日も昨日も 異国の丘に
    重い雪空 日が薄い
    倒れちゃならない 祖国の土に
    たどりつくまで その日まで
     
日本共産党委員長志位和夫の伯父で陸軍少佐だった志位正二などソ連のスパイとなり、戦後日本で諜報活動を行った者もいる。池田重善による「暁に祈る事件」で、帰国者の復員を遅らせたことが発覚した「徳田要請問題」など、ソ連と左派日本人の関係も徐々に明るみに出た。
 
昭和27年(1952年)に高良とみ(参議院緑風会)が収容所を訪問した。このとき健康な者は営外作業に出され、重症患者は別の病院に移されるなどの収容所側による工作が行われ、高良の「他の収容者はどうしたのか」との問いに対し、所長は「日曜日なのでみな魚釣りか町へ映画を見に行った」と平然と答えている。
 
昭和30年(1955年)、社会党左派の国会議員らによる収容所の視察が行われた。視察はすべてソ連側が準備したもので、「ソ連は抑留者を人道的に扱っている」と宣伝するためのものであったが、調理場の鍋にあったカーシャを味見した戸叶里子衆議院議員は思わず「こんな臭い粥を、毎日食べておられるのですか」と漏らしたという。
 
過酷な状況で強制労働をさせられていた収容者らは決死の覚悟で収容所の現状を伝えたが、その訴えも虚しく視察団は託された手紙を握りつぶし、記者会見や国会での報告で「とても良い環境で労働しており、食料も行き渡っている」などと虚偽の説明を行った。
元抑留者らが帰国後に新聞へ投書したことから虚偽が発覚し、視察団団長の野溝勝らは海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会で追求を受けている。
 

 
戦後の「歌声喫茶」ブームで、ロシア民謡と称するソ連軍歌や、労働歌と称するソ連共産党の歌が頻繁に歌われる一方で、「異国の丘」が敬遠されていたことを思い出した。
 
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