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夫や親を亡くした女性が生きる術
前回の「リンゴの唄」と余りにも対極的なヒット曲が、この「星の流れに」だ。
 
大東亜戦争(太平洋戦争)の終戦後の混乱期に、食べ物、着る物、住む家のない女性が生きるのには困難を極めた。特に戦争で、未亡人や両親を失った身寄りのない女性の中には、他に選択肢はなかっただろう。
 
そして繁華街の街角やガード下に立って、米兵相手の「パンパン」(娼婦)に身をやつして、生き抜く術を身に着けた人もいたのだろう。
 
その心情を歌にしたのが「星の流れに」だ。「リンゴの唄」が明日への希望を明るく歌ったのに対し、「星の流れに」は明日をもつかない…将来の夢もない自分を歌っている。
 
星の流れに 菊池章子 - akiraplastic5さん
 
戦前からヒットに恵まれた菊池章子は、コロンビアからテイチクに移籍後、「星の流れに」に出会った。
この曲は世相の一面を象徴していたので、大ヒットした。そして「こんな女に誰がした」は当時の流行語になった。
 
 
星の流れに(昭和22年)

作詞:清水みのる
作曲:利根一郎
歌手:菊池章子
 
  1. 星の流れに 身をうらなって
    何処どこをねぐらの 今日きょうの宿
    すさむ心で いるのじゃないが
    泣けて涙も れ果てた
    こんな女に 誰がした
     
  2. 煙草たばこふかして 口笛くちぶえふいて
    あてもない夜の さすらいに
    人は見返みかえる わが身は細る
    町の灯影ほかげの わびしさよ
    こんな女に 誰がした
     
  3. えて今頃 いもと何処どこ
    一目ひとめ逢いたい お母さん
    唇紅ルージュかなしや くちびるかめば
    やみの夜風も 泣いて吹く
    こんな女に 誰がした
     

 
終戦間もない頃、作詞家の清水みのるが東京日日新聞に載った女性の手記を読んだ。彼女は元々従軍看護婦だったが、外地から東京に戻ると焼け野原で家族もすべて失われていた。
彼女は「夜の女」として生きるしかない我が身を嘆いていたという。無論、GHQ施政下であり、帰還した日本人に対する対策は皆無に近かったのだろう。
 
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警察の捜索を受けるパンパン嬢
ところで当時、女性が人前で煙草を吸うのは、一般的でなく「堅気ではない」と思われがちだった。更に女性が口笛を吹くことも珍しかった時代である。煙草も口笛も退廃の象徴とされたのだった。
 
彼女たちは、住む所や食事、相互扶助でグループを組んで、廃屋ビルやガード下のバラック、空き家に暮していたようだ。金銭トラブルなどのもめ事は、主に戦後に生まれた愚連隊が対応していたようだ。
 
未だ売春防止法(昭和31年成立)のはるか前だったので、売春は違法ではなかったが、これは決められた場所で公娼(公の営業許可を得て行う娼婦)に限られていた。営業許可など持たないパンパンは私娼として取締りの対象だった。
 
パンパンと愚連隊や地回りヤクザの一部のつながりは、カストリ(粗悪な密造焼酎)やバクダン(メチルアルコール入り酒)による身体への障碍に始まり、更に戦後禁止薬物になった「ヒロポン」(覚せい剤)の蔓延が社会問題になった。警察の取締りは、売春行為より密造酒や覚せい剤の取締りが主目的であったと云われている。
 
こうした「パンパン」と云われた私娼たちと、一線を隔していたのが「オンリーさん」だ。オンリーさんは文字通り米兵一人だけを相手にしていた。お互いに恋愛関係になることもあった。お金や生活の為ではなく、純粋に恋愛感情で結ばれたカップルもあっただろう。
任期を終えた米兵が帰国せずに日本で家庭を持ったり、帰国の際に一軒家を買い与えられたオンリーさんもいた。中にはハードルは高かったが、アメリカに渡って花嫁になった幸せな人もいた。
 
大東亜戦争でほとんどの身寄りを失った並木路子が明日の希望「リンゴの唄」を歌い、大歌手の菊池章子が明日をも知れない「星の流れに」を歌った…何たる皮肉だ。
 
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