私の父親世代の酒宴で、必ずと云っていいほど歌われていたのが「ラバウル小唄」と、この「酋長の娘」だった。
ほとんどの若者が戦場を経験した世代が、全員で胸を張って、しかも大声で歌っていたのを記憶している。あまり威勢よく歌うので当時は子供心に軍歌だと思い込んでいたほどだ。
当時の歌手は、音楽学校出のクラシック歌手か、芸者さんが多く、この曲も大阪南地「富田家」喜久治と云う芸者さんが歌っている。
戦後は、三波春夫、ドリフターズのいかりや長介が歌っていたが、Youtubeでオリジナルのレコードが見つかったので取り上げてみた。
酋長の娘(大阪南地 富田家 喜久治 )80rpm 0klz32 さん
歌いやすいシンプルなメロディーに、親しみやすいコミカルな歌詞がマッチしていてたこともあったのか、大ヒットとなったようだ。
歌詞に出てくる「マーシャル群島」は、大正9年(1920年)、国際連盟第22条に基づき赤道以北の旧ドイツ領ニューギニアが日本の委任統治領となっていた。
さかのぼる明治中期から、教育やインフラ整備で地域住民との交流も盛んで、広く日本の文化が浸透し、日本から移住者も多かった。日本が委任統治するかなり以前から、現地人と邦人の交流は盛んだったようだ。
昭和5年(1930年)第三回島勢調査によると、島民49,695人に対して日本人19,825人が居住していた。
酋長の娘(昭和5年)
作詞・作曲:石田一松歌:大阪南地 富田家 喜久治
- わたしのラバさん 酋長の娘
色は黒いが 南洋じゃ美人
- 赤道直下 マーシャル群島
ヤシの木陰で テクテク踊る
- 踊れ踊れ どぶろく飲んで
明日は嬉しい 首の祭り
- 昨日浜で見た 酋長の娘
今日はバナナの 木陰で眠る
- 踊れ踊れ 踊らぬものに
誰がお嫁に やるものか
明治25年(1892年)にミクロネシアのトラック島に移住し、島の酋長の娘と結婚した高知県出身の森小弁を題材にした作品である。
ご存知の通り「私のラバさん」の「ラバさん」は、英語のlover(恋人)に「さん」を付けて海軍軍人が使い始め、一般人まで広まっていた。
戦前は敵性語禁止を誇張したような偏向記事が目立つが、当時でも法的根拠はなかった事が明らかだ。詳細は、下記をご覧ください。
歌詞と順番は、歌い手によって異なるが、俗曲などには有りがちだろう。特に「誰がお嫁に やるものか」より「誰がお嫁に 行くものか」が多いと思う。
中にはメロディーさえも異なる録音も聞く事が有る。ラジオが普及し始めた時代のヒット曲なので、戦前生まれの人々には忘れ得ない一曲なのだろう。