南京事変の証言 読売新聞 森博カメラマン | 誇りが育つ日本の歴史

誇りが育つ日本の歴史

日本では自殺者が増え続けています。
自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
少しでもそのような精神的な貧乏状態を改善していきたいです。

南京事変の証言 読売新聞 森博カメラマン

 

南京事変の証言

読売新聞 森博カメラマン

聞き手 阿羅健一氏

 

ー杭州湾から戻って、南京に向かうのですか?

 

森「杭州湾から戻った時、上海が平静になり、しばらくして陸軍がなんきんに向かいましたので、私も行き、無銭の占領を撮りました。

 

この時、読売の渡辺峰雄記者と朝日の前田恒カメラマンが死んでいますすが、渡辺記者はもともと上海にいた人で臨時雇いだったのですが、勇敢な人でした。

 

前田カメラマンは、我々と別れて一時間ほどした時、死んだと聞かされましたので、その時は驚きました。

 

カメラマンとしてはじめての犠牲者だったはずです。

 

陸軍と一緒に無銭までは行きましたが、その頃はまだ南京攻略が決まってなかったので、そのあと私はいったん上海に戻りました。

 

読売新聞では、3ヶ月位戦場にいると、一度東京に戻ることになっていまして、私も上海に渡って3ヶ月になりましたので、それから東京に戻りました。

 

その頃、朝日新聞や都新聞の記者は1日15円の従軍手当がつき、毎日新聞は13円の手当がついてました。

 

読売は1円もつきませんでしたが、その代わり、本社に戻ると、正力松太郎社長が一人一人にあって、5百円をくれる決まりになっていました。

 

給料が60円位の時のことです。

 

正力社長は、戻った時に会うだけでなく、出発の時も必ず東京駅まで見送りに来てくれましたから、皆やる気になっていたと思います。

 

この時、私はすぐに上海に戻り、それから南京で入城式があると言うので自動車で行きました。

 

入城式が17日でしたから、15日か16日頃、南京に行ったと思います。」

 

ーいつまで南京にいましたか?

 

森「入城式は多分大島源太郎カメラマンが撮ったと思います。私は翌日の慰霊祭を撮りました。

 

ですから、19日頃まで南京にいたはずです。」

 

ー南京の様子はどうでしたか?

 

森「特別のことはありませんでした。南京にはその時だけでなく、その後も何度か行っており、翌年の1月頃は、南京が平和になったというので、それを撮るために行ってます。

 

入城式の頃は、1月頃に比べると、街には中国人も相当いましたが、日本兵が中心でした。

 

2度目に行ったときは鉄道で行きましたが、その時は日本兵も一部だけになり、3度目に行った時は日本人が相当来ており、福田屋という日本の旅館もありました。」

 

ー入城式の頃、中国の市民たちは日本兵を恐れていましたか?

 

森「住民は敵意を持っていなかったし、日本兵を怖がっていなかったと思います。逆に、便衣兵がいましたので、日本兵の方が中国人を警戒していました。」

 

ー日本兵による中国兵に対する殺戮があったといわれてますが。

 

森「ありました」

 

ーご覧になったのですか?

 

森「見てませんが、兵隊から聞きました」

 

ーどんなことですか?

 

森「捕虜を揚子江の淵に連れて行って、どこかに行けと行って放したが、結局、殺したということです。

 

岸がしたいで一杯だったとも聞きました。それは本当だと思います。市民に対しては何もありませんが、中国兵に対してのそういうことはありました。」

 

ー南京にいて聞いたのですか?

 

森「ええ、南京にいる時です。何箇所かで聞きました」

 

ーなぜやったのでしょうか?

 

森「捕虜を捉えたが、捕虜にやる食料がないし、収容するところがない。放しても又兵隊になる、それで困ってやったと言ってました。

 

中国の兵隊は日本と違って、食えないから愛国心がなくとも兵隊になります。

 

事実、放すと、すぐにどこかで兵隊になってます。

 

また、中国には便衣兵がいて、日本兵はこれを恐れえていましたから、やってしまおうということになったのだと思います。」

 

ーどの位の捕虜をやったのですか?

 

森「相当多数だ、と聞きました」

 

ーうえの命令でやったのですか?

 

森「下士官が単独でやったのだと思います。分隊長クラスの下士官です。もしかすると、もう少し上の方も知っていたのかもしれません。

 

その頃、捕虜を扱う国際法か何かあったと思いますが、兵隊は捕虜をどう扱うのか知らなかったし、自分たちは捕虜になったら死ぬものだと思っていたので、捕虜は殺すものと思っていたのでしょう。

 

陸軍の下士官の中には何年も軍隊にいて、軍隊のことは何もかも知っていて、新任の少尉が小隊長で来ても、上官とも思わずバカにしている悪い奴がいました。

 

彼らが新しく入ってきたへいたを殴っていじめていたのですが、そういった下士官がやったのだと思います。

 

私も何年かして、前線を進撃しながら、捉えた中国兵を切っているところに出くわし、下士官から斬って見ないか、といわれたことがあります。

 

戦争ですから、殺す、殺されるのは当然ですが、やらなくてもいいことまでやったと思います。」

 

ー下士官全体がそうだったのですか?

 

森「いや、一部の下士官です。陸軍は国民全部が兵隊になりますから、一般社会では使い物にならない悪い奴も入ってきて、これらが陸軍を悪くしていました。

 

そういう奴が、ああいうことをしたのだと思います。

 

私はカメラマンとして従軍していましたから、一度も軍隊に入らずすみましたが、そういうのを見ていましたから、いつも軍隊には入りたくないと思っていました。

 

軍といっても、海軍は陸軍と違ってスマートでしたから、私は好きでした。

 

海軍の報道担当をしていた重村実大尉さんは、よく共同租界のダンス・ホールにもいってました。

 

陸軍の将校は、ダンス・ホールに行っても日本刀を振り回したり、剣舞をやったりしていました。陸軍と海軍はその位違ってました。」

 

ー下士官は残虐なことをやっているという気持ちはなかったのでしょうか?

 

森「日本兵は捕虜をやっても悪いことをやっているとは思ってなかったと思います。

 

私もその頃は日本が戦争に負けるなどとは思っていませんし、負ける時は死ぬ時だと思っていました。

 

戦争は勝つか、そうでなければ死ぬものだと思っていたわけです。

 

兵隊もそうだったと思います。ですから、兵隊は捕虜をやったことを隠してませんし、悪いと思ってなかったし、自分が生きるため仕方なかったと思います。」

 

ー虐殺に関して、直接、何かを見ましたか?

 

森「話だけで、実際は何も見てません。南京では見てませんが、その後の作戦で、攻撃の途中、日本兵が民家に入って、床を剥がして飯盒の焚き付けにしているのは見たことがあります。

 

また、、出発する時、家をわざわざ壊したり、中に放火をしているのを見たことがあります。

 

その時、兵隊に聞いたところ、敗残兵が入ってくるからだ、と言ってました。」

 

ー略奪もあったと言われてますが

 

森「南京ではどうだったのかわかりませんが、略奪と言いますか、そう言うことは兵隊だけでなく記者もやっていました。

 

作戦が始まる時、連隊本部からは従軍記者も何日か分の食料をもらいます。しかし、重いですから2、3日分の食料しか持たずに従軍して、なくなれば後は民家に入って探します。

 

食料を撮るのは悪いとは思ってませんでしたから、そう言うことは兵隊も記者もやってました。

 

記者の中には食料以外のものを略奪する人もいて、上海の博物館から勝手に持って行った記者もいたと言います。

 

もっともそこにあるのはイミテーションで、本物は重慶にあったと言いますが」

 

ー南京で虐殺をやったと言うのはどの部隊ですか?

 

森「さあ、どこでしょうか。わかりません。第6師団のように強い部隊ですと、中国軍もそれを知っていて、戦う前から逃げていたようです。

 

私は鹿児島生まれですから、その後の漢口作戦などは第6師団について行きましたが、第6師団が通った後に、中国兵がまだいましたから、その後続部隊がやると言うことはあると思います。」

 

ーその時、南京での事件を他の記者も知ってましたか?

 

森「よく仲間とはお茶を飲みに行ったりしましたが、話題にはしてませんでした。しかし、知っていたと思います。」

 

ーなぜ誰も話題にしなかったのですか?

 

森「戦争だから殺しても当然だと思っていたし、戦場ですから死体を見ても気にしていませんでした。

 

ですから、話題にしなかったのだと思います。そう言うことで記者は突っ込んで取材をしようとはしませんでしたし、我々も軍から、中国兵も日本兵も死体を撮ってはダメだ、と言われていましたから撮りませんでした。

 

死体のことを書いても撮っても仕事にならなかった体と思います。

 

日本軍の悪いことばかりを話しましたが、もちろんいい話もたくさんあります」

 

ー東京裁判で南京事件が取り上げられましたが、その時、南京事件を知っていた人はどの位いましたか?

 

森「誰も知らなかったと思います。東京裁判の時の記憶がはっきりしませんが、多分、田中隆吉少将のような人が告発したからだと思います。

 

ただ、私は南京で話を聞いてましたから、あのことかと思いました。」

 

森氏は、読売新聞から、各社のニュース映画部門が統合されて作られた、日本ニュース映画社の社員となり、東京裁判の映像をGHQを代表して撮影しました。

 

その後、NHKに移り定年まで勤めました。

 

参考図書

「南京事件 日本人48人の証言」阿羅健一著