南京事変の証言 同盟通信映画部 浅井達三カメラマン | 誇りが育つ日本の歴史

誇りが育つ日本の歴史

日本では自殺者が増え続けています。
自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
少しでもそのような精神的な貧乏状態を改善していきたいです。

南京事変の証言 同盟通信映画部 浅井達三カメラマン

 

 

南京事変の証言

同盟通信映画部 浅井達三カメラマン

聞き手 阿羅健一氏

 

ー南京には何日に入ったのですか?

浅井「13日です。中山門から入りました。」

 

ー城内の様子はどうでしたか?

浅井「中山門を揚子江の方にいく途中に難民区があって、日本人は入れないようになっていたようです。

 

入ろうと思っても中国人が沢山いるから危険では入れませんがね。そこは、紅卍字会の人たちが世話をしていました。

 

中国人は主に難民区にいて、難民区以外の自分の家にいる人は表に出てこないようでした。」

 

ー紅卍字会の人はどの位いましたか?

 

浅井「さあ、どの位だったのか。印象に残ってる位ですから、相当いたと思います。

 

難民区で紅卍字会の人たちが、日本の兵隊の前に立ち塞がり、その人たちは兵隊ではない、と一生懸命説明していたことがありました。

 

また、城内に入って2、3日してから城内のあちこちが燃えていました。」

 

ー日本兵がやったのですか?

 

浅井「日本兵なのか中国兵なのかはっきりしません」

 

ー中国人は日本軍をどう見ていたのでしょう?

 

浅井「怖がっていたと思いますよ。それは戦後アメリカ軍が上陸した時、日本人が怖がったのと同じです。」

 

ー虐殺があったと言われてますが

 

浅井「私は見てませんが、あったという話です。そんな話を聞きました。」

 

ーやっているのを誰か見たのでしょうか?

 

浅井「少数の記者が死体を見たと言ってました。東宝の白井氏(文化映画部カメラマン)さんなんかは我々と違って、南京の真ん中に宿舎があったので、色々見たのでしょう。「カメラと人生」に書いてます。」

 

ー死体はどんなところにあったのですか?

 

浅井「揚子江と雨花台にあったと言ってました。」

 

ー戦死体ではありませんか?

 

浅井「さあ、やったと聞きましたが。どのように片付けたのか、入城式までには片付けたと言ってました。」

 

ー人数はお聞きになってますか?

 

浅井「どのくらいかわかりません」

 

ー浅井さん自身がご覧になったことは?

 

浅井「中国人が、城内を列になってぞろぞろ引かれていくのは、見ています。

 

その姿が眼に焼きついています。その中には軍服を脱ぎ捨て、便衣に着替えている者や、難民となって南京に逃れてきた農民もいたと思います。

 

手首が黒く日に焼けていたのは敗残兵として引っ張られて行ったと思います。」

 

ーそれはいつ頃ですか?

 

浅井「昼でした。2百人か3百人の列で、その列が2つか3つあったようです。」

 

捕虜の連行とか城内の様子は撮らなかったのですか?

 

浅井「南京陥落や城内に入った直後は色々とりましたが、一段落してからは撮りませんでした。

 

撮っても仕事になりませんからね。その他、私が撮ったのは入城式の模様で、松井石根大将が、中山門を通って行くのを中山門上で後から撮って、それを納めてから中山門を駆け下りて、前からも撮りました。」

 

ー虐殺の現場はどの社も撮ってませんか?

 

浅井「誰も撮ってないでしょう。記録はないと思います。私は死体は撮りたくなかったから、現場を見ても撮らなかったのでしょう。

 

ずっと戦場にいましたが、戦闘は撮っても死体は撮ったことがありません。

 

それからやらせを一度もやったことがありません。南京でも占領して万歳している写真というのはやらせです。

 

占領した瞬間というのは戦闘の続きですから万歳どころじゃないですよ。

 

そんなところにカメラマンも滅多に行けませんしね。万歳できるのは占領してから半日もしてからでしょう。

 

ただし、占領した嬉しい気持ちを表すために、万歳してもらって写真に撮るのは、やらせでも良いと思います。気持ちが行動に出てますからね」

 

ー同盟通信の中で、虐殺というようなことが話題にならなかったのですか?

 

浅井「なりませんでした。その頃、敗残兵や便衣兵がよくいて、それをやるのが戦争だと思っていましたから」

 

ー外国のジャーナリストが数人、南京に残ったと言われてますが。

 

浅井「さあ、会ったことはありません。ただ、パネー号が沈んだので、それに乗っていた記者たちが南京に入ってきました。

 

14日だと思います。4人でね。上海に行きたいと同盟通信にきました。同じ記者ですから、同盟通信にきたと思います。

 

車で上海に行くという話がありましたが、途中、中国兵がいて危ないので、海軍と話をして、海軍の船に乗って行きました。

 

パネー号の沈没を撮ったフィルムは水に濡れたが写っていた、と後で聞きました。」

 

ー外国の記者は虐殺を見てますか?

 

浅井「その頃、話は起きてませんでしたから、見てないでしょう」

 

ーパラマウントのニュース・カメラマンのアーサー・メンケンが残って南京陥落を撮ったと言われてますが。

 

浅井「メンケンなら私も知ってますよ。上海で一緒でしたから。彼もそれまで上海で撮ってました。

 

でも南京では合わなかったな。1月ごろ上海に戻ってからも、よくメンケンとは昼飯を一緒に食べました。

 

フランス租界のジミーというところに行くといつもいてね。一緒に撮った写真もあります。」

 

ーアーサー・メンケンから虐殺の話は聞いてませんか?

 

浅井「聞いてません」

 

ー南京には何日位いましたか?

 

浅井「入城式を撮ったのは確かですが、それで上海に戻ったのか、その後も数日はいたのかはっきりしません。

 

上海に戻ってから杭州攻撃があったので、すぐ杭州に向かいました。

 

昭和13年になって上海に戻った時、石川達三にあってます。彼とは名前が同じで、同盟通信には村上逹というのがいたので、三逹と言って三人で飲みました。

 

石川達三は中国でのことを「行きている兵隊」に書いています。

また、前田雄二さんの「戦争の流れの中に」にも一文を寄せていますが、書いてる通りだと思います。」

 

ー浅井さんはそのまま上海にいたのですか?

 

浅井「2月に、上海から凱旋する松井大将と一緒に東京に帰りました。

 

上海を出る時は畑俊六大将も宮様(朝香宮)も見送りにきてました。

 

下関から東京行きの富士というのがあって、赤い絨毯が敷いてある列車ですよ。

 

確か二両特別連結したと思います。この車両に松井大将と副官と馬渕逸雄中佐さんと私と、全部で6、7人いたと思います。

 

途中から軍の参謀が乗り込んできましたけど。

 

途中、戦塵を流すというので、多分熱海だったと思いますが、そこに一泊しました。

 

次の日は天皇陛下に会いますからね。私も同じ旅館に泊まりました。翌日、東京駅につきましたが、東京駅には軍のお偉い方がほとんど迎えにきてました。

 

松井大将が降りるのを撮影しようと、列車から一番に降りたら憲兵に怒鳴られて、それでもこっちは報道部だと言って撮り続けました。」

 

ー松井大将はどんな方ですか?

 

浅井「とてもとても、話す間柄ではありません。私は隣の車両にいましたし、それでも上海では時に記者会見の場で顔だけは会わせていました。」

 

ー戦後、東京裁判を撮るわけですが、松井大将は死刑になりますね。

 

浅井「私は日本代表して最初から東京裁判を撮っていました。南京のことが起訴状にあった時、それは当然だと思いましたよ。

 

ある程度はありましたからね。また、ピラミッドの頂点だった松井大将は仕方がないと思います。

 

ただ、20万人もの虐殺と言ってますが、数の面ではそうは思いません。南京の人口の大半がいなくなる数ですから。」

 

参考図書

「南京事件 日本人48人の証言」阿羅健一著

 

写真

昭和12年(1937年)12月15日

 

「南京難民区で撮影した時、難民たちは日本人を恐れることなく、カメラの前に立った。白布に赤い布を丸く切って、日の丸の印として、日本兵に反抗する意思のないことを表していた。」

東京日日新聞(毎日新聞)記者 佐藤振寿氏の手記より