南京事件 朝日新聞 足立記者の証言 百人斬りで処刑された野田毅少尉と向井敏明少尉 | 誇りが育つ日本の歴史

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南京事件 朝日新聞 足立記者の証言 百人斬りで処刑された野田毅少尉と向井敏明少尉

 

南京事変ついて従軍記者の証言です。

 

東京朝日新聞 足立和雄記者

聞き手 阿難健一

 

阿難「南京で大虐殺があったと言われていますが、どんなことをご覧になってますか?

 

足立「犠牲が全然なかったとは言えない。南京に入った翌日(南京城陥落の翌日)だったから、(昭和12年12月)14日だと思うが、日本の軍隊が数十人の中国人を射っているのを見た。

 

塹壕を掘ってその前に並ばせて機関銃で射った。場所ははっきりしないが、難民区ではなかった。」

 

阿難「ご覧になって、その時どう感じましたか?」

 

足立「残念だ、取り返しのつかぬことをした、と思いました。とにかくこれで日本は支那に勝てないと思いました。」

 

阿難「なぜ勝てないと?」

 

足立「中国の婦女子の見ている前で、一人でも二人でも市民の見ている前でやった。

 

日本は支那に勝てないと思いました。支那人の恨みをかったし、道義的にもう何も言えないと思いました。」

 

阿難「そのほかにご覧になりましたか?」

足立「その1箇所だけです。」

 

阿難「大虐殺があったと言われてますが」

足立「私が見た数十人を射ったほか、多くて百人か二百人単位のほかにもあったかもしれない。全部集めれば何千人かになるかもしれない。」

 

阿難「南京城外はどうでした?」

足立「城外と言っても上海ー南京間は戦闘行為でしょう。郊外を含めて全部で何千人か、というところでしょう」

 

阿難「そうすると、ほとんど城内であったということになりますね?」

足立「そうでしょう。青年男子は全員兵士になっていて、城内には原則として残っていないはずだ。

 

いるのは非戦闘員で老人・婦女子だけだ。もちろん全然いない訳ではないが、青年男子で残っているとすれば、特殊な任務を帯びた軍人か便衣兵だと思われていた。

 

便衣兵は各戦闘で戦いの後、日本軍の占領地に入って後方かく乱や狙撃などを行なっていましたからね。

 

逃げないで城内に入るということは、敵意を持っていると見られても仕方ない。

 

軍は便衣兵掃討が目的だったが、あるいはやりすぎがあったかもしれない。」

 

阿難「城内外に合わせて数千人あったということですね?」

足立「全部集めればそのくらいはあったでしょう。

 

捕虜を虐殺したというイメージがあるかもしれないが、それは、戦闘行為と混同しています。

 

明らかに捕虜だとわかっている者を虐殺はしていないと思います。」

 

阿難「当時の従軍記者で大虐殺を証言している人もいますが、例えば今井正剛記者」

 

足立「今井君はもうなくなっていますから。今井君は同じ社会部で接触はありました。親しくはありませんでしたが。亡くなった人のことは言いたくない。」

 

阿難「お気持ちはわかりますが、今井記者のことで知っていることをお聞かせください。」

 

足立「今井君は自分で見て書く人ではなかった。危険な前線には出ないで、いつも後方にいたと聞いている。南京でもカメラマンなど何人か死んでますからね。

 

今井君は人から聞いたことを脚色して書くのがうまかった。

 

筆を走らせるというかな。しかし、文はうまいとされていた。」

 

阿難「守山義雄記者については?」

足立「守山君とは親しくしていたし、尊敬もしていた。」

 

足立「朝日新聞の論壇係から私のところに電話がありましてね。守山君がベルリンにいた時の話です。

 

ベルリンで、守山君は日本の留学生と飯を食ったことがあり、その時の留学生に、南京で大虐殺があったと語ったというのです。

 

その留学生が今は有名な大学教授になっているそうです。私は、彼の名前を聞くのは初めてでしたが、その大学教授がベルリンで守山君から聞いた話を論壇係宛に送ってきたというのです。

 

守山君の語った話というのは、日本軍が南京で老人・婦女子を殺し、あまりたくさん殺したので、道路が血でいっぱいになり、守山君が履いていた半長靴に血が流れ込むほどだった、というものです。

 

守山君がこういう話をしたというのです。

 

論壇係は、私が南京で守山君と一緒だったし、親しかったということを誰かに聞いて、この話を確かめようと電話をかけてきたわけです。

 

そこで私は、確かに南京では守山君と一緒でしたが、そんなことは見ていないし、後で守山君から聞いたこともない、守山君は嘘を喋るはずはない。

 

その大学教授はどんな人か知らないが、その人が言っていることは嘘だ、そういうことが載るのなら、守山君の名誉のために残念だ、と言いました。

 

論壇係は私の話を聞いて納得したようです。教授の原稿をぼつにしました。

 

南京大虐殺については意識的に嘘をついている人がたくさんいるんですよ。」

 

阿難「足立さんがいらっしゃった朝日新聞では、本多勝一記者が南京大虐殺があったと主張しているし、社会面でもよく取り上げていますが」

 

足立「非常に残念だ。先日も朝日新聞の役員に会うことがあったのでそのことを言ったんだが。

 

大虐殺はなかったことをね。

 

(省略)

 

朝日新聞の中には本多君の態度を快く思っていない人もいますよ」

 

阿難「百人斬りの話を知っていますか?」

足立「ええ、あの記事を書いた浅海(一男)君も知ってますよ」

 

阿難「浅海記者はライバルの毎日新聞の記者でしょう?」

足立「でも何度も顔を合わせていましたよ。毎日新聞は戦争を煽るような気風が特に強かったようだが、浅海君もそんな人でね。

 

あの百人斬りの記事は創作かもしれんな。

 

浅海君が百人斬りを競った二人の軍人に会ったのは事実だろうが、二人の談話は創作かもしれない。

 

浅海君は口をつぐんで何も言ってないが、心の中ではまずい記事を書いたと思っているんじゃないかな。

 

戦後、あの記事が証拠となって二人の軍人は死刑になったし、その中国へ浅海君は新聞の組合の委員長として言ってるんだからね。」

 

百人斬りとは、上海戦から南京城に向けて侵攻途中に、野田毅少尉と向井敏明少尉が、日本刀でどちらが早く支那兵を100人斬るかを競ったという内容の、新聞記事のことです。

 

この記事を書いたのが、東京日日新聞(現在の毎日新聞)の浅海記者でしたが、当時の新聞は戦意高揚を目的とした記事が良しとされており、この百人斬りの記事もその目的のために書かれました。

 

「日本刀は三人戦闘で斬れば使い物にならなくなる。だから100人も斬れるはずがないので100人斬り報道は虚偽である」

(「私の中の日本軍」山本七平著書)

 

昭和22年(1947年)12月18日、南京軍事法廷において、野田毅少尉と向井敏明少尉に対する公判が行われました。

 

ハロルド・J・ティンパーリが、「百人斬り」の新聞記事を「戦争とは何か」(What War Means)という著書の中の、殺人競争(The Nankin Murder Race)という章で紹介。

 

これが証拠として採用されたので、証人尋問は行われませんでした。

 

ハロルド・J・ティンパーリとは何者だったのでしょうか?

 

ティンパーリ(Timperley)の中国名は田伯烈といい、「戦争とは何か」(What War Means)という本を出版しましたが、彼は中立的な第三者ではなく、中国国民党中央宣伝部の顧問という肩書きを持っていました。

 

国民党中央宣伝部の国際宣伝所長の曾虚伯(そう・きょはく)は、自伝の中で次のように書いています。

 

「我々は手始めに、金を使ってティンパーリ本人とティンパーリ経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として2冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを決定した」と。

(「曾虚伯自伝」曾虚伯著)

 

向井と野田は、無実を証明する書類の到着を待つために、公判の延期、また問題の記事を書いた浅海記者と、当時の直属の上官の証人召喚を求めたが認められなかった。

 

記事は新聞記者による創作であると弁明して、死刑判決後にも記者と当時の向井の上司からの証明書などにより再審を求めたがこれも認められなかった。

 

昭和23年(1948年)1月28日、南京の雨花台において銃殺刑が執行されてしまいました。

 

無念だったことでしょう。

 

以下は、昭和22年(1947年)12月28日 (死刑宣告後)に野田毅少尉が残した遺文です。

 

「一 日本国民に告ぐ

 

私は嘗て新聞紙上に向井敏明と百人斬競争をやったと云われる野田毅であります。

 

自らの恥を申上げて面目ありませんが冗談話をして虚報の武勇伝を以って世の中をお髄がし申し上げた事につき衷心よりお詫び申上げます。『馬鹿野郎』と罵倒嘲笑されても甘受致します。

 

只、今般中国の裁判に於いて俘虜住民を虐殺し南京屠殺に関係ありと判定されましたことに就いては私は断乎無実を叫ぶものであります。

 

再言します。私は南京において百人斬の屠殺をやったことはありません。此の点日本国民はどうか私を信じて頂きます。

 

たとい私は死刑を執行されてもかまいません。微々たる野田毅の生命一個位い日本にとっては問題でありません。

 

然し問題が一つ残ります。日本国民が胸中に怨みを残すことです。それは断じていけません。私の死を以って今後中日間に怨みやアダや仇を絶対に止めて頂きたいのです。

 

東洋の隣国がお互いに血を以って血を洗うが様なばかげたことのいけないことは常識を以ってしても解ります。

 

今後は恩讐を越えて誠心を以って中国と手を取り、東洋平和否世界平和に邁進して頂きたいのです。

 

中国人も人間であり東洋人です。我々日本人が至誠を以ってするなら中国人にも解らない筈はありません。

 

至誠神に通ずると申します。同じ東洋人たる日本人の血の叫びは必ず通じます。

 

西郷さんは『敬天愛人』と申しました。何卒中国を愛して頂きます。

 

愛と至誠には国境はありません。中国より死刑を宣告された私自身が身を捨てて中国提携の楔となり東洋平和の人柱となり、

 

何等中国に対して恨みを抱かないと云う大愛の心境に達し得た事を以って日本国民之を諒とせられ、私の死を意義あらしめる様にして頂きたいのです。

 

猜疑あるところに必ず戦争を誘発致します。幸い日本は武器を捨てました。武器は平和の道具でなかった事は日本に敗戦を以って神が教示されたのです。

 

日本は世界平和の大道を進まんとするなら武器による戦争以外の道を自ら発見し求めねばなりません。

 

此れこそ今後日本に残された重大なる課題であります。それは何でしょうか。根本精神は『愛』と『至誠』です。

 

此の二つの言葉を日本国民への花むけとしてお贈りいたしまして私のお詫びとお別れの言葉と致します。

 

桜の愛、富士山の至誠、日本よ覚醒せよ。さらば日本国民よ。日本男児の血の叫びを聞け。」

 

 

以下は、昭和23年(1948年)1月28日処刑当日の野田少尉の日記に書かれていたものです。

 

「死刑に臨みての辞世

 此の度中国法廷各位、弁護士、国防部各位、蒋主席の方々を煩はしましたる事に就き厚く御礼申し上げます。

 

 只俘虜、非戦闘員の虐殺、南京屠殺事件の罪名は絶対にお受け出来ません。お断り致します。

 

死を賜はりましたる事に就ては天なりと観じ命なりと諦めて、日本男児の最後の如何なるものであるかをお見せ致します。

 

 今後は我々を最後として我々の生命を以つて残余の戦犯嫌疑者の公正なる裁判に代へられん事をお願ひ致します。

 

 宣伝や政策的意味を以って死刑を判決したり、面目を以て感情的に判決したり、或は抗戦八年の恨みをはらさんがため、一方的裁判をしたりされない様に祈願致します。

 

 我々は死刑を執行されて雨花台に散りましても貴国を怨むものではありません。

 

我々の死が中国と日本の楔となり、両国の提携の基礎となり、東洋平和の人柱となり、ひいては世界平和が到来する事を喜ぶものであります。何卒我々の死を犬死、徒死たらしめない様に、それだけを祈願致します。

 中国万歳

 日本万歳

 天皇陛下万歳

 

 野田毅」

 

参考図書

「南京事件 日本人48人の証言」 阿難健一著 小学館文庫