ウイグル人の独立国家を侵略した中国の闇 | 誇りが育つ日本の歴史

誇りが育つ日本の歴史

日本では自殺者が増え続けています。
自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
少しでもそのような精神的な貧乏状態を改善していきたいです。

ウイグル人の独立国家を侵略した中国の闇

 


 

 

 

 

 

 

中国によるウイグル人弾圧は、今現在でも続いています。

 

なぜウイグル人は、これほどまでに中国から弾圧されなければならないのでしょうか?

 

ウイグル人の国、東トルキスタンの建国の歴史を振り返ってみます。

 

1851年、洪秀全率いるキリスト教信徒達が、清国に対して反乱。。(太平天国の乱)

 

洪秀全率いる軍隊は、数の上では圧倒的に不利なのに、清国軍に連戦連勝。

 

また、洪秀全軍は、戦いの後には必ず起きる、民衆に対する虐殺、強姦などが全くありませんでした。

 

南京など各都市を制圧して独立。

 

南京を首都としてそこに滞在するゆうになると、それまで清廉潔白だった洪秀全は、一転して肉欲の塊になってしまいました。

 

洪秀全の肉欲の塊に転落してからは、太平天国軍の指導者達も腐敗していき、洪秀全への求心力も無くなっていきました。

 

1864年、清国軍が、腐敗仕切った太平天国軍を制圧。

 

この時期、漢民族と回民族は、太平天国と戦闘を続けている満洲族の清国軍から身を守る為に、それぞれ武装化していきました。

 

1864年清朝からの支配に不満を持っていたムスリム(イスラム教の信者)達が、内陸各地で反乱を起こしました。(回民蜂起)

 

1864年11月10日、グルジャにて、回民族とウイグル人、ムスリムのカザフ人、キルギス人が蜂起。

 

満洲族の清国軍に漢民族が加わり、一旦武力で鎮圧するも逆襲にあい、再び混乱。

 

そのような混乱の中、各地で起きた武装蜂起を、ヤクブ・ベク率いる軍隊が次々と制圧して、東トルキスタンを統一。

 

1868年、英国は、ヤクブ・ベク政権を承認して、軍事支援を開始し、1874年、英国とヤクブ政権は、通商条約を締結。また、ロシアとも通商条約を締結。

 

東トルキスタン全土から清国軍を駆逐し、独立。

 

ヤクブ・ベクは、ムスクを各地に建設して、イスラム教を保護しました。

 

一方、清国では意見が割れていました。

 

英国からの攻撃を防ぐ為に、海防に集中すべきと主張する人「海防派」と、内陸の西北部の守りを固めるべきと主張する人「塞防派」で対立してました。

 

1842年にアヘン戦争に破れた清国は、再び英国からの侵略を警戒していました。

 

1875年、「塞防派」の左宗棠は、次のような上申書を西太后に提出。

 

“東トルキスタンを失えば、イギリスかロシアの影響下に入り、中国は西北部の防御の要を失い、国威が衰え、民心を失い、諸外国はつけあがるゆえ、かえって海防に支障をきたすことになるだろう。”と。

 

最終的に西太后は、左宗棠の意見に同意し、内陸の要である、東トルキスタンを侵略する事に決まりました。

 

1876年、ドイツからの軍事支援を受けた左宗棠率いる清国軍が侵略して、翌年の1877年、東トルキスタンは、再び清国の支配下になりました。

 

1912年、辛亥革命により清国が滅び、新たに中華民国から軍隊を受け入れました。

 

そして、新疆省という行政区分が置かれました。

 

1931年、クルムにおいて、ホージャ・ニヤーズ・ハジをリーダーとする武装蜂起が起きました。

 

新疆省主席であった金樹仁による腐敗と圧政に、民衆の不満が溜まっていたためです。

 

1933年、ホータンにおいて、ムハンマド・アミーン・ブグラを指導者とする武装蜂起が起きて、他の各地でも決起した人達と合流。

 

1933年11月12日、東トルキスタン・イスラム共和国が建国されました。

 

この時、国旗が制定されました。

 

しかし、その後、ロシアに支援された盛世才と、回族の軍閥の馬仲英にやぶれてしまい、わずか半年で国が消滅してしまいました。

 

再び、中華民国の支配下に置かれました。

 

ムハンマド・アミーン・ブグラは、アフガニスタン首都カーブルへと亡命。

 

アミーンは、亡命先のカーブルに滞在中、日本に対して独立活動の支持を求め、日本から直接新疆へ出兵し満州国のような傀儡政権を作ることを提案しました。

 

1835年、アミーンは、日本の大使に「日本の支援のもと、資金と装備を提供してもらい、『東トルキスタン共和国』を建国するための詳細な計画」を提案した。

 

アミーンは、この中央アジア版 満州国の未来の指導者として、マフムード・シジャン (マフムート・ムヒティen:Mahmut Muhiti)を推薦しました。

 

しかし、1937年4月2日、マフムードが命の危機を感じてカシュガルからインドへ脱出してしまったため、アミーンの計画は挫折してしまいました。

 

 

それでも諦めずに、1944年11月12日、アブトキリム・アバソフを指導者とする民族解放組織が決起して独立を宣言。

 

再び、東トルキスタン共和国を建国。

 

1945年8月、ロシアの全面協力により軍隊が組織されました。

 

東トルキスタン共和国は、ウイグル人の他、カザフ、キルギス、ウズベク、モンゴル、ロシア人など、漢民族以外の全ての民族が協力して国づくりしていきました。

 

東トルキスタン共和国の首席になったアリハーン・トラ(Ali Khan Türe)氏は、次のような声明を出しました。

 

「いわゆる新疆が中国の一部であるというのは、真っ赤な嘘である。

 

歴史を偽造し、人間を騙そうとする人に思い出してほしい事実は、

 

中国の官吏及び帝王たちは、自分の命と土地を保全するために、3500キロメートルの万里の長城をつくり、鷹にあった兎のようにそのなかに引き籠っていたことである。

 

中国政府の歴史家はこの真実を隠したが、全世界の歴史家はそれを知っている。

 

襟を持って太陽の光を隠すことができるはずはないであろう。

 

これから中国政府は東トルキスタン領土に対する野望を放棄して、東トルキスタンの土地を侵略したり、東トルキスタンの民衆を圧迫したりすることをやめてほしい」と。

 

 

 

1945年10月から、国民党との内戦(国共内戦)をしていた中共は、ほぼ中国を統一。

 

中共は、1949年9月21日に北京で行われる、第1回中国人民政治協商会議に、東トルキスタンの指導者達17名を招待。

 

17名の指導者達は、モスクワ経由で同じ飛行機で、北京に向かいました。

 

しかし、途中で17名のウイグル人指導者達を乗せた飛行機が、謎の墜落。

 

遺体はもちろんのこと、墜落したとされる飛行機の残骸が、全く行方不明になっています。

 

1949年10月1日、中共が、中華人民共和国を建国。

 

 

1949年10月13日、17名の指導者が消えた東トルキスタンに人民解放軍が侵略。

 

指導者の居なくなったウイグル人達は、ただ呆然と立ちすくみ抵抗することもなく、漢民族の中共軍のなすがままに侵略を許してしまいました。

 

 

独立国家だった東トルキスタンは、いつのまにか気がついたら、中国の植民地となっていた、と当時を知るウイグル人は言いました。

 

1955年、中共により新疆ウイグル自治区が設置。

 

その後、学校でのウイグル語の使用を禁止され、抵抗したら、反革命分子として監獄に入れられて、厳しい拷問を受けた末に虐殺されていきました。

 

東トルキスタンでは、宗教の自由が許されていません。

 

中共は、イスラム教の教会であるモスクを片っ端から破壊していきました。

 

また、ウイグル民族の歴史を学ぶ事も許されていません。

 

言葉を失い、民族の歴史を失い、宗教も剥奪されてしまったウイグル人達。

 

これは差別などというレベルではなく、民族の殲滅を目的としているとしか思えない政策です。

 

1949年当時は、東トルキスタンに住んでいた漢民族は、わずか4%でしたが、植民地にした後、大量に漢民族が移住してきました。

 

今では、東トルキスタンに住む漢民族は、2億人に達しています。

 

少数民族の漢民族への同化政策として、ウイグル人同士の結婚を制限して、純血のウイグル民族の血を受け継ぐ子供たちを減らしていきました。

 

そして、ウイグル人と漢民族の混血児を増やし、漢民族の血を受け継ぐ子供たちを増やしていきました。

 

東トルキスタンでは、選挙が毎年行われていましたが、その度に、反革命分子とみなされたウイグル人達が、多数捕まり、投獄されて、厳しい拷問の末に虐殺されていきました。

 

独立の思想を持っていると見なされたウイグル人達を、中共は、テロリストとして世界中に宣伝(プロバガンダ)しています。

 

そして、治安維持のためにテロリスト達を逮捕しているのである、といって、中共は、ウイグル人への弾圧を正当化しています。

 

1990年4月5日、アクト県バレン郷にて、イスラム教徒達、約1万人が集まって、東トルキスタン共和国の独立を宣言。

 

この動きに対して、中共は、“反革命武装暴乱”とみなして、空軍に出動命令をだしました。

 

 

指導者達を始め多くのウイグル人達が、虐殺されました。

 

1995年、ホータンにおいて、イスラム共和国の独立運動が起きました。

 

この時も、中共は武力で鎮圧して多くのウイグル人達を虐殺しました。

 

1997年2月5日、グルジャ市で大規模なウイグル人虐殺事件が起きました。(グルジャ大虐殺 Ghulja Massacre)

 

ウイグル人達が集まり、武器を持たない非暴力、無抵抗なデモを行いました。

 

彼らは、平等な扱い、宗教の自由、言論の自由を求めました。 

 

また、彼らが今まで毎日のように経験してきた、ウイグル人に対する人種差別をやめるように要求しました。

 

しかし、無防備なデモ隊に対して、人民武装警察と機動隊は発砲。

 

 死亡者数はさまざまですが、目撃者によると、30人ものウイグル人がその場で殺され、100人以上が負傷しました。

 

次に、中共は、この無抵抗で丸腰なウイグル人デモ隊に対して、軍隊を出動させて次々と逮捕。

 

逮捕されたウイグル人達約4000名は、トラックに乗せられて刑務所に連行されました。

 

そこで、氷点下20度の大きな部屋の中に、ウイグル人男女150人を全裸にして押し込み、冷たい水をかけました。

 

何の防寒着も暖房もなく、全裸で氷点下20度の部屋に閉じ込められ、さらに冷たい水をかけられたウイグル人達は、しばらくして凍死。

 

凍った遺体をトラックで運び出して、破棄しました。

 

他のウイグル人達は行方不明とされてます。

 

 

200人以上のウイグル人が平和デモに参加したために処刑されました。(Amnesty report issued in April 1999)

 

 ウイグル人は、グルジャの平和デモに参加したという理由で、まだ刑務所にいます。 

 

非暴力な抗議に対して、あまりにも残忍な弾圧をした責任者は罪を問われていません。

 

また、ウイグル人への迫害は衰退することはありません。

 

これは、国際的な「対テロ戦争」である、と中共は宣伝(プロバガンダ)してます。

 

 平和的なデモ活動に参加したために拘留され、投獄されたウイグル人を釈放して、逮捕と拘留した報告書の公開をしてほしいです。