アイヌは先住民族なの? | 誇りが育つ日本の歴史

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アイヌは先住民族なの?

アイヌは日本民族と異なる、北海道に住み着いていた先住民族である。

その先住民族であるアイヌを、差別し虐殺して制圧していった日本人は、謝罪と賠償金を支払わなければならない、

と主張される方々がいます。

 

本当にアイヌは先住民族なのでしょうか?

 

2012年に東大が核DNA解析をしました。

その結果は、縄文人の遺伝子は、本土日本人、琉球民族、アイヌ民族に受け継がれているというものでした。

2017年には縄文人骨の核DNA解析も行われました。また、2019年には典型的な渡来系の形質を持つ渡来系弥生人骨の核DNA解析も行われました。

その結果は、渡来系弥生人も日本人と変わらない割合で、縄文人の遺伝子を持っているという結果となりました。

元々、朝鮮半島南部にまで縄文人は住み着いていたのですが、その縄文人の遺伝子を受け継ぐ集団が、渡来系弥生人となったのでしょう。

では、アイヌの核DNA解析はどうだったのでしょうか?

36体の現代アイヌのDNAのうち、日本人と全く同じ個体が3体、殆どオホーツク人の同じ個体が5体、それ以外は縄文人とオホーツク人の中間でした。

遺伝子解析では、日本人と全く変わらないアイヌも居るし、日本民族のベースとなる縄文人の遺伝子を持つアイヌもいました。

このことから、アイヌを日本民族と異なる先住民族である、と主張するのはかなり難しいです。

また、アイヌと和人の関係は、先住民族と侵略者という分離構造で説明できません。


なぜなら、縄文人が北海道を含む日本列島全域に分布していて、その遺伝子は絶えることなく現代まで残っていますので、

”どの時代からが先住民族であるのか?”、という定義ができないからです。

では、倭人とアイヌとの交流はいつの時代からあったのでしょうか?

蝦夷出征

斉明天皇4年(658年)、越国の守の阿倍比羅夫(あべのひらふ)が、飛鳥朝廷からの命令により、水軍180隻を率いて渡嶋(北海道)の蝦夷に向かいました。

なぜ、朝廷は、蝦夷に軍を率いて向かわせたのでしょうか?

当時の蝦夷は、粛慎(あしはせ)からの侵略に苦められていたので、その蝦夷を助ける為に援軍として向かったのです。

粛慎(あしはせ)とは、満州東部に住むツングース系民族とされてます。

 

その翌年と翌々年の2回、合計三回にわたり、渡嶋(北海道)に渡り、粛慎(あしはせ)と戦いました。

この時期に、朝鮮半島でも大きな戦いがありました。

新羅と唐の連合軍が、百済に侵略して占領。

飛鳥朝廷は、越国の守の阿倍比羅夫(あべのひらふ)と上毛野君稚子 (かみつけのきみわかこ) らとともに,百済を助ける為に朝鮮半島に向かうよう命令しました。

天智2年(663年)、朝鮮半島西海岸にある、白村江にて、倭軍2万 7000人,百済連合軍と唐,新羅連合軍が軍事衝突。

しかし、倭軍,百済連合軍が敗退。(白村江の戦い)

西は朝鮮半島の百済、北は渡嶋(北海道)の蝦夷に同時期に援軍を出して、粛慎(あしはせ)や新羅、唐からの国防をしていました。

シャクシャインの乱

かつて、倭人達は、蝦夷地の全域にわたり住み着いていました。

しかし、東は牟川より、西は与一に至るまで、アイヌは倭人を攻撃して、上ノ国まで追い詰めてしまいました。(松前家記)

東の牟川とは苫小牧の鵡川ことを指し、西の与一とは、小樽の余市のことを指していますので、倭人は、北海道のかなり広範囲で暮らしていたことがわかります。

また、上ノ国とは、北海道南西部にある上ノ国町の事です。

その後も、倭人とアイヌとの争いは何度もありました。

寛文9年(1668年)、シャクシャイン(シブチャリ(現新ひだか町,旧静内町)を拠点とするシブチャリ族の首長)が、オニビシ(ハエ(現日高町,旧門別町)を拠点とするハエクル族の首長)を攻撃。

なぜ、同じアイヌ同士で、戦いをしなければならなかったのでしょうか?

シブチャリ族とハエクル族の間では、長い間、日高沿岸部の漁猟圏をめぐる争いが続いていたからです。

オニビシは、友好関係にあった松前藩に援軍を要請。

しかし、オニビシからの使者ウタフは、松前藩に拒否されてしまいました。

さらに、帰りの途中に疱瘡にかかり病死してしまいました。

この事を、シャクシャインは、”松前藩による毒殺である、倭人に助けを求めると殺されるぞ!”、というような宣伝をしていきました。

この宣伝効果により、蝦夷に住むアイヌ達が部族を超えて、倭人と対決するために立ち上がっていきました。

寛文9年(1668年)4月、シャクシャインが、首長オニビシを虐殺。

寛文10年(1669年)6月,東は白糠(しらぬか),西は増毛(ましけ)(ただし石狩アイヌは不参加)に至る東西蝦夷地のアイヌが一斉に蜂起。

和人の鷹待(たかまち)(鷹匠)や商船の船頭など日本人390人余(『津軽一統志(つがるいっとうし)』)が殺された。

幕府は、松前氏の一族松前八左衛門泰広(旗本)に出陣を命じ,津軽藩にも出兵を命令。

急きょ軍隊を編成して鎮圧にのりだした松前藩ですが,当初は苦戦しつつも,アイヌの勢いを弱めていきました。

アイヌは、松前(まつまえ)藩へ攻撃をしたが、国縫(くんぬい)(長万部(おしゃまんべ)町)で反撃に会い失敗。

寛文9年(1669年)10月、シャクシャイン死亡。

その後も各地でアイヌの降伏が続いて,寛文11年(1671年)に最終的に鎮圧。

この戦いをきっかけとして、松前藩による蝦夷の支配が一層強くなり、一時は、南西部にある上ノ国町まで追い詰められていた、倭人たちの生活範囲も広がっていきました。

このシャクシャインの乱は、倭人から抑圧されていたアイヌが一斉に蜂起した乱、というように言われてます。

しかし、元々は、漁業権をめぐる部族間の争いから生じたものであります。

それを、”助けを求めたアイヌの使者を松前藩が毒殺した。倭人などに助けを求めると殺されるぞ!”、とシャクシャインが宣伝していった為に、アイヌ達が一斉に蜂起したのです。

江戸の末期、松前藩が管轄していた蝦夷に、一人の僧侶、松浦武四郎が訪れました。

当時、ロシアが南下政策で樺太や千島列島などを占領していったので、次に狙いを定めていた蝦夷の防衛について、彼は危機意識を持っていました。

蝦夷に滞在中、見聞きした様々な事を進言しようと思い、水戸藩の藩主、徳川斉昭に手紙を送りました。

なぜ、幕府ではなく、水戸藩の藩主に手紙を送ったのでしょうか?

徳川斉昭は、攘夷派でしたが、蝦夷にロシアが攻めてくる事に危機意識を持っていたからです。

松浦武四郎は、アイヌの実状や松前藩に都合の悪い不正や汚職なども暴露していったので、

 

その情報量や内容に幕府も注目して、安政2(1855)年、松浦武四郎を蝦夷山川地理取調御用御雇として、調査を続けさせました。

また彼は、アイヌの人達からも愛されていました。

やがて、明治になると、新政府は松浦武四郎に引き続き、蝦夷地開拓御用掛として、蝦夷について調査する役職を与えました。

松浦武四郎は、新政府から頼まれて、蝦夷の地に代わる新しい名前を上申しました。

アイヌの人達は、蝦夷の地を”カイ”と呼び、その”カイ”に住む自分達の事をお互いに”カイノウ”と呼んでいました。

その音の響きから、”北の大地に住む人の国”という意味で、“北加伊道”という名前を上申しました。

政府は、この“北加伊道”の”加伊”を海に直して、”北海道”となりました。

北海道には、沢山の開拓者が入殖してきました。

それに伴い、アイヌの人達を日本内地と同様に扱う政策をしていきました。(同化政策)。

ほとんどのアイヌの人達は読み書きが出来なかったので、アイヌの人達のために、学校を作って教育していきました。

それまでのアイヌの人達は、商売のために必要以上に動物を狩りしたり、魚を捕獲したりしてましたので、ラッコなど鳥獣類が多数絶滅してしまいました。

そのような経験を踏まえて、明治政府や北海道開拓使は、アイヌの人達に、今までのように自由に動物や魚を乱獲できないように規制しました。

また、アイヌの人達の多くは農民でしたが、その農地はというと、荒れ放題であったり、毎年の自然災害に対してもとても弱い貧弱な農業をしてました。

そのような農業を改善しようと、明治政府や北海道開拓使は、近代的な農地開発を行っていき、次第に自然災害にも対応できるような、また、冬の寒さにも耐えるような、農地が作られていきました。

また、アイヌの女性は、”人”では無く”物”として認識されていたので、人身売買も行われていました。

そのような女性差別を撤廃しようと、明治政府や北海道開拓使は、様々な手段を使って、女性の人身売買の習慣を無くしていきました。

明治32年(1899)、北海道旧土人保護法が施行されました。

その第一条には、アイヌの人で農業をやりたい人は、一戸につき15,000坪まで無償で交付します、と規定されていました。

第一条に規定されているということは、それだけ重要事項として扱っていたということになります。

なぜでしょうか?

アイヌの人達は、その多くが経済的に貧しい人でしたので、生活の基盤を持たせてあげたいという思いが、明治政府にあったのでしょう。

北海道旧土人保護法

第一条、 土地の無償交付

北海道旧土人ニシテ農業ニ従事スル者又ハ従事セムト欲スル者ニハー戸ニ付土地一万五千坪以内ヲ限リ無償下付スルコトヲ得

このように、倭人とアイヌとの交流は、今から1200年前に書かれた日本書記に、すでに記載されてます。

日本書記は、現存する書物の中で古事記とならぶ最古のものとされてますので、恐らく、それより以前からアイヌとの交流はあったでしょう。

北米に住んでいた先住民族であるネイティブアメリカン(インディアン)の土地に、ヨーロッパから移住してきた白人達。

その白人達は、ネイティブアメリカン(インディアン)達を、片っ端から虐殺していきました。

この場合、先住民族と征服者との二極構造です。

白人とネイティブアメリカン(インディアン)では、見た目もはっきり異なりますし、遺伝子的にも共通点はありません。

その一方、アイヌと倭人は、1000年以上もの古くから交流をもち、遺伝子レベルでも共通点があります。

アイヌは日本民族と異なる、北海道に住み着いていた先住民族である。

その先住民族であるアイヌを、差別し虐殺して制圧していった日本人は、謝罪と賠償金を支払わなければならない、

というような主張は、全く根拠もないことなのです。