日露戦争が起きる13年前、戦争の危機がありました | 誇りが育つ日本の歴史

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日露戦争が起きる13年前、戦争の危機がありました

日露戦争が起きる13年前に、日本とロシアは軍事衝突の危機が起きました。

 

その国家存亡の危機を救ったのは、明治天皇のご英断でした。

 

明治24年(1891年)ロシア皇帝のニコライ皇太子は、シベリア鉄道の極東地区起工式典に出席するため、ロシア海軍を率いてウラジオストクに向かう途中、日本を訪問しました。

 

ニコライ皇太子御一行は、長崎と鹿児島に立ち寄った後に神戸に上陸して、京都に向かいました。

 

人力車に乗り大津町内を通過中、警備を担当していた滋賀県警の津田三蔵が突然サーベルを抜いてニコライ皇太子に斬りかかりました。(大津事件)

 

ニコライ皇太子は、慌てて人力車から飛び降りて逃げましたが、津田三蔵は逃げるニコライ皇太子を追いかけて斬りかかろうとしました。

 

そして、人力車夫の向畑治三郎と北賀市市太郎の二人が、津田三蔵を取り押さえました。

 

この事件の電報を受け取った明治天皇は、すぐに行動しました。

 

京都へ行幸する手配をして、翌日の5月12日早朝、東京の新橋駅から汽車に乗り同日夜には京都に到着。

 

その日のうちにニコライ皇太子を見舞う予定でしたが、ニコライ側の侍医の要請により翌日へ延期されて、明治天皇は京都御所に宿泊。

 

翌5月13日、明治天皇は、ニコライ皇太子が宿泊していた京都の常盤ホテルを訪れてお見舞いをしました。そして、神戸港に停泊しているロシア軍艦に戻る、ニコライ皇太子をお見送りしました。

 

5月18日夜、人力車夫の向畑治三郎と北賀市市太郎は、ロシア軍艦に招待されて、ニコライ皇太子から直接聖アンナ勲章を授与されました。

 

身分の低い人力車夫に対して勲章を与えることはきわめて異例なことでした。2人は「帯勲車夫」と呼ばれて英雄として扱われました。

 

明治天皇は、神戸港に停泊中のロシア軍艦を訪問することにしました。

 

重臣達は外国軍艦に乗船する危険を諭して「拉致されてしまうのでやめてください」と進言しました。

 

なぜ重臣達は危険だと言って反対したのでしょうか?

 

1882年、朝鮮にて興宣大院君が清に拉致された事件があったためです。

 

李氏朝鮮において、朝鮮国王高宗の王妃閔妃を中心とする閔氏政権が転覆して、興宣大院君政権が誕生。

 

その後、清国は、朝鮮の漢城府に清国兵を派兵して、興宣大院君を拉致。中国の天津に連行後、朝鮮に圧力をかけて大院君政権を再び転覆させ、閔氏政権を復活させました。(壬午軍乱(じんごぐんらん))

 

明治天皇は、「いや、ロシア軍艦に乗船して謝罪する。日本人として誠意を示す。」と言い「ロシアは先進文明国である。そのロシアがなぜ汝らが心配するような蛮行をしなければならないのか。」と周りの反対を押し切ってまでしてロシア軍艦に乗船しようとしました。

 

ニコライ皇太子の軍艦には、日本中から謝罪の手紙と贈り物が届ききました。

 

5月19日、明治天皇は、ロシア軍艦「パーミャチ・アゾーヴァ」に乗り込み、ニコライ皇太子に対して再び謝罪をしました。

 

5月20日、東京の日本橋区(中央区)室町の魚問屋で働いていた畠山勇子は、この事件を知り国家の一大事と憂い、仕事をやめて京都に向かいました。

 

彼女は、「露国御官吏様」「日本政府様」「政府御中様」宛てに書いた嘆願書を京都府庁に出して、京都府庁前で剃刀で咽喉と胸部を深く切って自害しました。(「房州の烈女」)

 

彼女は、まだ27歳の若さでした。

 

なぜ、彼女はそのような行動をとったのでしょうか?

 

畠山勇子は、京都に向かう前に、「このまま帰られたのでは、わざわざ京都まで行って謝罪した天皇陛下の面目が立たない」と伯父に言いました。

 

伯父は、「一介の平民女性が、国家の大事を案じてもどうなるものでもあるまい」と諭したのですが、彼女は言うことを聞かずに汽車で京都に向かいました。

 

憂国の女子としては、居ても立っても居られなかったのでしょう。

 

当時の日本はまだ極東の小国でしたので、この事件を口実に大国ロシアに宣戦布告されてしまってもおかしくない状況でした。

 

もしそれが現実となったら日本国の滅亡の危機だったのです。

 

ロシアのシェービッチ公使は、津田を死刑にするように強硬に要求してきました。

 

日本政府は、裁判官に対し、旧刑法116条に規定する天皇や皇族に対して危害を与えたものに適用される、大逆罪によって死刑を類推適用するよう圧力をかけました。

 

伊藤博文は、「死刑に反対するなら、戒厳令を発してでも断行すべきである」と主張。

 

後藤象二郎は、「津田を拉致し拳銃で射殺することが善後策になる」と言いましたが、伊藤博文から、日本は法治国家であるのでそのようなことはできない、と叱られました。

 

旧刑法116条は日本の皇族に対して適用されるものであって、外国の皇族に対する犯罪は想定されてませんでした。よって、法律上は民間人と全く同じ扱いになり、怪我をさせただけで死刑を宣告するのは法律上不可能でした。

 

大審院院長(現在の最高裁判所長官)の児島惟謙は、「法治国家として法は遵守されなければならない」とする立場から、「刑法に外国皇族に関する規定はない」として政府の圧力に反発。

 

事件から16日後の5月27日、津田に無期徒刑(無期懲役)の判決が下されました。

 

当時の明治政府は、三権分立の制度が確立されたばかりでしたので、政府の圧力に従わずに裁判所の判断で判決が下されたのです。

 

シェービッチ公使は、津田の無期徒刑が決定したことを知ると「いかなる事態になるか判らない」との発言。

 

暗に、宣戦布告を示唆しましたが、日本が懸念するような軍事行動は起きませんでした。

 

この事件以来、ロシアの新聞は「皇太子殿下を守ったのはゲオルギオス王子であり、日本人は傍観しているだけだった」といった記事を載せ続けたため、ロシア国内では反日世論が高まって行きました。

 

しかし、明治天皇がニコライ皇太子のお見舞いしたとの報告を受けたロシア政府は、報道管制をしいて反日的な報道を止めさせました。

 

拉致される危険があるとの側近の反対を押し切ってまでして、ニコライ皇太子のお見舞いをして謝罪した明治天皇の行動が、日本を救ったのです。

 

この事件以後、ロシアの公文書には、日本人のことを「マカーキー(猿)」と記されるようになりました。

 

そして、この事件から13年後の明治37年(1904年)2月8日、日露戦争が勃発。

 

その日のニコライ皇帝の日記には次のようにあります。

 

2月8日「この夜、日本の水雷艇が旅順に投錨中の我が軍に攻撃を加え損害を与えた。これは宣戦布告無しで行われた。”卑怯な猿(マカーキー)”め。神よ我等を助けたまえ」。

 

明治天皇の行動力により、危機的状況を免れた日本。しかし、その後、ロシアとの軍事衝突が現実に起きてしまいました。