戦争に負けても交渉で勝利した男、高杉晋作 | 誇りが育つ日本の歴史

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戦争に負けても交渉で勝利した男、高杉晋作

 

 

戦争に負けても交渉で勝利した男、高杉晋作。なぜ、彼はそのようなことができたのでしょうか?

 

1863年6月25日、江戸幕府の将軍徳川家茂は、攘夷の実行を約束。

 

長州藩は、馬関(下関)海峡を封鎖して外国船が通航することができないようにして、海峡にいるアメリカ・フランス・オランダ艦船に対して砲撃しました。

 

この下関海峡封鎖により、長崎と貿易を行う諸外国にとって経済的な不利益を生じてしまいました。

 

1864年4月、英国の駐日公使ラザフォード・オールコックは、報復措置として長州藩の下関を攻撃することを決めて、フランス、オランダ、アメリカもそれに同意しました。

(四国連合艦隊)

 

イギリスに留学中の伊藤俊輔(博文)と井上聞多は、四国連合軍による下関攻撃が近いことを知り、急遽日本に向かいました。

 

伊藤俊輔(博文)と井上聞多は、長州藩に帰国後、藩主毛利敬親や首脳陣に戦争を回避するように進言しましたが、聞き入れられることはありませんでした。

 

6月19日、四国連合艦隊は、20日以内に下関の海峡封鎖が解かれなければ武力行使を実行する旨を幕府に通達。

 

8月5日から8日にかけて、四国連合艦隊は、長州藩の砲台をことごとく破壊して占拠。長州藩の完敗でした。

 

当時の英国は、大英帝国でした。オーストラリアやカナダ、インドを始め、アフリカ諸国の大半を植民地にしており、世界の大半を支配していた大帝国でした。

 

その大英帝国に加えて、米国、フランス、オランダの4カ国を相手に、たった一藩で戦ったのが、長州藩(現在の山口県)だったのです。

 

8月8日から、四国連合艦隊を率いた英国のキューパー司令官と、講和の話し合いが始まりました。長州藩の全権を任されたのは高杉晋作。

 

この時、高杉晋作は、脱藩の罪で監禁されていたので、家老宍戸備前の養子宍戸刑部を名乗っていました。

 

戦争が終わった後に勝利した国が要求するのは、植民地と賠償金です。

 

四国連合艦隊の主要国である英国は、長州藩の彦島の租借を要求。これに対して高杉晋作は断固拒否しました。

 

なぜ、高杉は植民地になることを拒んだのでしょうか?

 

それは、高杉は上海や香港を訪問したことがあり、その時に受けた印象があまりにもひどかったからです。

 

香港は、英国の租借地となっており、東アジアの盟主であった清国人が、英国人から奴隷のように扱われていることを目の当たりにしました。

 

それを見た高杉は、植民地になるということは奴隷となることである、日本が植民地になることを絶対に許してはならない、と決意しました。

 

しかし、長州藩は完膚なきまでに負けています。その後の講和の交渉において、植民地になることを拒否することなど無理な話でした。

 

では、どのようにして、高杉は長州が植民地になることを阻止できたのでしょうか?

 

植民地になるかどうかというのは、その土地(領土)を差し出すということです。

 

そこで高杉は、「領土の問題というのは、お互いがお互いの国のことを理解しあわなければならない。お互いの国を理解するには、お互いの国の歴史を知らないといけない。」と、投げかけました。

 

この時、通訳に当たったのは、アーネスト佐藤。英国のキューパー司令官は、「それは最もな意見だ。」と通訳を通して回答。

 

「私は、貴国の歴史をよく知っているが、貴殿は日本の歴史について知らないではないか?」

と高杉が投げかけると、英国のキューパー司令官は、「その通りである」と回答。

 

「では、領土問題を話し合う前に、日本の歴史について聞いてもらえるか?」と高杉晋作が問いかけると、キューパー司令官は「OK」と回答。

 

「間違いないか?」と高杉が再度確認すると、「間違いない」とキューパー司令官が回答。

 

高杉は、このやり取りを議事録に残していることを確認してから、日本の歴史につて説明を始めました。

 

高杉晋作が、英国人に対して説明した日本の歴史とは、どのようなものだったのでしょうか?

 

日本(大八洲)は、イザナギとイザナミが、天の鉾を回してできました、という神話の世界の国づくりから始まりました。

 

次の日は、天照大神の弟のスサノオの命が悪さをしたので、岩戸に隠れてしまったという、天の岩戸の話をしました。

 

また次の日も、同じく神話の世界の続きをしていって、7日目にようやく神武天皇の即位のところまできました。

 

そして、英国側から、「あとどのくらい続くのか」と問いかけられたので、「初代天皇が即位したところなので、このあと120代余りにわたる天皇の話が残っている。」と回答。

 

それを聞いた英国側は、租借地の要求を取り下げました。

 

なぜ、英国は取り下げたのでしょうか?

 

7日目になってようやく初代天皇の話になり、このあと120余代にわたる天皇の話が残っていると聞いたので、日本の歴史講義を聴き終わるのに、数ヶ月かかると予想しました。

 

その間、長州藩の沖合にて四国連合艦隊が駐留していましたので、その軍隊を駐留させるための経費が莫大になっていきます。

 

戦争に勝ったのに、終戦後に莫大な出費を負担しなければならないというのでは、本末転倒なので、早く講和を結ばなくてはなりません。

 

しかし、領土問題を話し合う前に、日本の歴史を理解するために説明を聞くと約束してしまいました。

 

そして、その説明がいつ終わるかわからない状況となったので、焦った英国側は、

租借地を取ることを断念したのでした。

 

軍事行動で圧倒的な勝利をした四国連合軍は、終戦後の高杉の交渉に負けたのでした。

 

次に、賠償金についてはどうしたのでしょうか?

 

戦争を行うにあたり、莫大な戦費がかかっていますので、敗戦国に対して賠償金を取れないということになると、責任問題に発展します。

 

キューパー司令官は、高圧的に要求を突きつけました。

 

高杉晋作は、「賠償金は払うが長州藩ではない。そもそも長州藩がこの戦争を戦ったのは、江戸幕府から追討令が出されたためである。よって賠償金は、その追討令を出した江戸幕府に請求すること」、と突っぱねました。

 

確かに攘夷の追討令を出したのは江戸幕府でしたが、長州藩が下関海峡を封鎖して、欧米列強国の艦隊に砲撃をすることまで命令していませんでした。長州藩の独断先行で行ったことです。

 

しかし、江戸幕府はその莫大な賠償金を支払うことに同意してしまいました。

 

近現代の戦争においては、終戦後の講和をするにあたり、植民地や領土を割譲されて、賠償金を支払うことが常識となっています。

 

しかし、それを行わなかった唯一の国(藩)が、長州藩だったのです。

 

英国など四国連合国との戦争で、完膚なきまでに叩きのめされた長州藩。

 

その長州藩の全権として、世界を支配する大英帝国に堂々と対等に交渉に応じたのは、高杉晋作でした。

 

現代の日本にも、高杉晋作のような外交交渉を行うことができる人が、現れてほしいです。