弘安の役から約740年後の今、尖閣諸島の占領をもくろむ中国 | 誇りが育つ日本の歴史

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弘安の役から約740年後の今、尖閣諸島の占領をもくろむ中国

 

1281年、元(もんごる)の皇帝フビライハンは、2度目の日本侵略計画を実行しました。(弘安の役)

 

当時の元・高麗連合艦隊は、世界史上最大の艦隊でしたが、元・高麗連合軍の日本侵略作戦は失敗しました。

 

なぜでしょうか?

 

フビライハンは、一度目の日本侵略を実行する前に、何度か日本の執権、北条

時宗氏に向けて使者を送っていました。

 

これに対し北条時宗は、全国の御家人に対して次のような書状を送りました。

 

「蒙古人がよこしまな考えを起こして、日本を狙っているので、全ての御家人たちに用心するように伝えるように。」と。

 

南宋の僧侶である大休正念(だいきゅうしょうねん)は、「巨大な敵を打ち払い、国家の安定をはかれ」と北条氏に助言していました。

 

鎌倉幕府は、南宋の僧侶である大休正念(だいきゅうしょうねん)を、国政の重要なブレーンとして扱っていたので、8代執権についたばかりの北条時宗は、彼の意見に従うことにしたのです。

 

フビライハンは、中国南部を支配していた南宋国を侵略するために、日本と平和的な同盟関係を結びたいと考えていた、という人もいます。

 

フビライハンが北条時宗宛てに書いた手紙には「不宣、これを臣とせざるなり」と書かれてありました。(モンゴルの歴史書「国朝分類」)

 

「不宣」(相手国を元国と対等の国とみなす、最大限の譲歩した言葉)という文字が書かれていたので、フビライハンは、臣下の礼をとって元国の属国となるように脅迫したのではない、というのがその理由です。

 

本当でしょうか?

 

当時の元国は、周辺国を次々に征服していき、世界の四分の一の国土と世界の二分の一の人口を支配していました。

 

周辺国を支配する際に、対等な同盟関係を結ぶということはしませんでした。

 

世界中の国は、支配されるか支配するかの二者択一しかありません。これは世界の常識です。

 

日本以外の国で、対等な同盟関係を結び共存共栄していこう、という発想がありません。

 

特に中国人にとって、「平和」や「友好」という言葉は良い言葉と認識されません。なぜなら、まだ力が不十分のときは友好的に接して、十分な力をつけたら平らげてやる(征服する)、という意味だからです。

 

かつて、中国の国力がまだ貧弱であって時代、日本は、「日中友好」とか「平和」という言葉をスローガンに掲げて中国と接してきました。

 

しかし、気がついたら中国は、日本より経済力も軍事力もはるかに凌ぐほどの力をつけて、今では、”日本(尖閣諸島や沖縄)を征服する”という姿勢を、裏ではなく表に堂々と出すようになりました。

 

中国にとって、支配するか支配されるかの二者択一しかないのです。

 

フビライハンにとって、南宋国を征服するために周辺国と平和的な対等の同盟関係を結んで、お互いに共存共栄していこうという考えは、全くありえない発想でした。

 

フビライハンからの国書に、「不宣」という譲歩する言葉が書かれていたので、表面上は友好で平和的な関係を結ぼうという意図があったかもしれませんが、南宋を征服したのち、今度は、日本を征服しようという意図が見え見えです。

 

1281年、フビライハンは、軍隊をふたつに分けて日本征伐に出航しました。

 

1つは東路軍の司令官で東征都元帥の洪茶丘率いる艦隊が900艘、

 

江南軍の范文虎(ファン・ファンファン)率いる艦隊は、長江南部で10万人の兵士と、清遠(現在の寧波市、浙江省)からは3,500個の軍艦を、日本に向けて派兵しました。

 

軍船4400艘、モンゴル人、高麗人(朝鮮人)、漢民族あわせて15万人に上る大軍団でした。

 

5月21日、東路軍は、対馬を侵攻し、続いて5月26日、壱岐を襲撃しました。

 

その後、江南軍の到着を待ってから、博多湾を攻撃をする予定でしたが、なかなか到着しないので、東路軍の単独で博多湾を目指すことにしました。

 

東路軍は博多湾に入った後、海岸沿いに約20kmにも及ぶ石築地(元寇防塁)があったため、上陸を断念。

 

元・高麗軍が再び侵略してくることを予想して、日本沿岸の重要な地域に「灯篭の壁」(石の盛土)を建設していたのです。

 

この「灯篭の壁」が、大きな防衛的役割を果たしました。

 

肥後の御家人である竹崎 季長(たけざき すえなが)は、肥後国守護代・安達盛宗(泰盛の子)の指揮の下で、上陸しようと試みる元・高麗軍兵士と戦いました。

 

日本軍は、石の壁を盾にして元の攻撃を絶えず打ち返し、元・高麗軍の多くの兵士が殺されて、戦闘は1ヶ月以上続きました。

 

元の東路軍は、大きな犠牲を払ったにもかかわらず、石の壁を突破することはできませんでした。

 

6月6日、元の東路軍の偵察隊は、志賀島と寧夏島が防衛上弱く、石造を建造していないことを発見し、東路軍船は志賀島付近へ錨泊しました。

 

その夜、松浦氏の家族二郎二郎は少数の軍隊を襲撃し、船に火を付けて元・高麗軍に損害を与えました。

 

東路軍の司令官、洪茶丘は馬を捨てて敗走しましたが、日本軍の追撃を受け危うく討ち死にする寸前まで追い込まれました。

 

6月7日の朝、香港のチャクティは陸軍を率いて志賀島に上陸しました。志賀島は長く狭く、干潮時に露出した海岸は直接陸地とつながりました。

 

元・高麗軍は、博多を後ろから攻撃するために、この海岸から上陸しようとしたのです。

 

数日間の海岸戦で、元・高麗軍は莫大な損失を被って1000人以上の兵士が戦死しました。

 

元・高麗軍は、食料の補給も困難であり、このまま戦闘をつづけても不利と判断して、6月15日、志賀島から撤退しました。

 

7月下旬になり、温家宝(ファン・ウンフ)と李清(リ・ティン)が率いる江南軍10万が、志賀島沖に到着。

 

7月27日、日本側は、元・高麗軍が鷹島に向かう途中に攻撃を行い、夜明けまで戦闘が続きました。(鷹島沖海戦)

 

別々の航路を辿ってきた 東路軍と江南軍は、合流した後、直ちに大宰府を攻撃する予定でしたが躊躇しました。

 

なぜかというと天気が悪いと推定されたので、台風と艦隊が衝突するのを避けるために、しばらく博多湾沖に船を停泊しました。

 

8月1日、台風が襲ってきたので、元・高麗軍の船の多くが破損してしまいました。

 

なぜ、元・高麗軍の軍船の多くが、難破してしまったのでしょうか?

 

ほとんどが海洋船ではなく内陸輸送に適した平底船であるため、台風で転倒しやすいものでした。

 

また、フビライハンは、日本への攻撃を命じてから、わずか1年の準備時間しか与えませんでした。

 

そして、 わずか1年の短期間で4400隻もの船が造船されました。大規模な生産能力を持たなかったので、期間内に目標を達成する見込みがありませんでした。

 

その目標を達成するためには、粗悪で品質が劣る欠陥品を作ることも必要不可欠でした。バランスのとれていない欠陥船は、少し風があるだけで揺れ続けてしまいます。

 

元軍の戦艦のほとんどは、平底の川用のボートであり、海の航海には適していませんでした。平らな川用のボートは海の波に耐えられず、簡単に転覆してしまいます。

 

海底から見つかった元軍の船の破片には、 "Chuanchuan"という言葉が見つかりました。 "Chuanchuan"とは川のボートという意味です。

 

沈没船の中にはいくつかのよく作られた軍船も発見されましたが、その多くは、海船の竜骨を持っていませんでした。

 

700隻もの元軍の沈没船を研究している、米国テキサス農業大学の考古学者、ランダル・ササキ氏(Randall Gon Sasaki)は、次のように語りました。

 

「海上で嵐に遭遇した場合、内陸輸送のために設計された船は、どのような混乱を招くのか容易に想像できます。」と。

 

当時、造船業が発展していた中国の江南と沿岸地域は、フビライハンによって完全に征服されておらず、一部の地域は南宋軍の支配下にありました。

 

したがって、フビライハンは、技術的に劣る高麗人(朝鮮人)に造船の任務を与えなければなりませんでした。

 

高麗人にとっても、この造船はとても重い負担でした。造船技術の劣る高麗人が、短期間でこの任務を達成することはとても難しいことでしたので、出来上がった船の品質が欠陥品で劣化したものとなるのは当然だったのです。

 

話を戻します。

 

高麗の司令官は、すぐに伊万里湾に行き、元・高麗軍の艦隊を撤収させました。

 

少贰景资が率いる軍隊は、撤退した元・高麗艦隊を迎撃して、鷹島に上陸して、元・高麗軍を掃討しようとしました。

 

竹崎竹市率いる軍隊は、撤退した元・高麗軍の艦隊が、伊万里湾に集結して休息しているところを見つけたので、攻撃を開始。

 

8月5日の早朝、日本艦隊は、伊万里湾に停泊していた元・高麗艦隊を攻撃しました。激しい戦闘が行われた後、元軍隊の艦隊の大半が破壊され壊滅しました。

 

鷹島に避難している元軍約10万は、木を切り倒して撤退するための船を建設する準備をしました。

 

日本軍は、これを知り攻撃をしました。

 

8月7日の朝、日本軍は、島の様々な防衛要塞を壊して攻め込み、元軍は壊滅的打撃を受けました。

 

日本軍は、降参してきたモンゴル人、シーリ族、ユルチェン人、高麗族、漢民族を捕虜として収容しました。

 

2回にわたる日本への侵略戦争は失敗に終わりましたが、フビライ・ハーンは、日本を征服する事をあきらめきれずに、3回目の日本侵略のための準備をしました。

 

これに対して、民衆からの蜂起や、政権内部からの反対意見がたくさんあったので、フビライ・ハーンは、それらを抑えこむのに大変苦労しました。

 

1294年1月、元の皇帝フビライ・ハーンが亡なると、日本を征服する計画は中止となりました。

 

一方、その後の鎌倉幕府はどうなったのでしょうか?

 

実は、この元寇が起きるまでは、北条氏に対する御家人や公家の不平不満は多くあり、鎌倉幕府は存続の危機にありました。

 

しかし、元・高麗軍による侵略戦争が起きたために、天皇に権力を戻すのではなく、鎌倉幕府が存続するための口実となりました。

 

皮肉ですが、元寇は、北条氏による政権を延命するために、とても役に立ったのです。

 

そして、ふたたび元・高麗軍が襲来してくることに備えて、九州防衛の強化を続けていきましたが、元・高麗軍が襲来してくることは2度とありませんでした。

 

 

元寇から約700年後の現在、中国からたくさんの船団が、日本の尖閣諸島に押し寄せています。

 

日本は、かつての北条時宗のように、石の防塁を築いて武士をたくさん配置して、敵の上陸を阻止するような対策を、ほとんどしていません。

 

このまま無策でいたら、中国船団は尖閣諸島に上陸して占領してしまうでしょう。